エドゥアルド・バレンシア・バスケス(エクアドル・カトリック大学)

  「マーケティング技術」のおかげで、現代社会は「経済」を「市場(マーケット)」と同一視している。だが、常にそうとは限らない。古代にホモ・サピエンスが放浪生活を脱し、定住コミュニティで生活しはじめたとき、人類がもはやバラバラではなく、コミュニティや家族の一員として発展しはじめたのは確かだ。この百万年の間に、ヒトは「知恵をもつ」(sapiens)ように-つまり「意識」や「思考」をもつようになったが、真に人間的な能力を発達させてきたのは、最後の5千年にすぎない。それは、親の子どもに対する「愛情にみちた」保護であり、家族に対してメンバーが「誓う」忠誠であり、家族内のなごやかな関係であり、問題や争いを解決する手段としての対話の発展であり、「社会的な共同作業」の計画と分担であり、労働の成果の公正な「分配」であり、親の権威への服従を受け入れることであった。要するに、最初の優れたヒトは、家族のなかでこそ自分たちは「超越する」(transcend)ことができると「考え」「感じ」はじめたのだ。「超越する」ということには、バラバラで働くよりも一緒に働いた方が、同じ種の他の人々にくらべてより効率的になれるということを「理解している」(あるいは意識している)という意味が含まれている。
だが、なによりも重要なのは-そして、より適切なのは-、自分勝手に行動するよりも連帯して行動した方が、集団は困難や苦境に耐えやすいということを「実感する」ことができたことだ。象徴的にいうなら、夜、家族が寒さから身を守るためにたき火を焚いて、そのまわりに集まって家庭的な雰囲気を味わっているとき、家族の一人ひとりは、共通の目的をもった仕事が「みんな」にいっそうの「幸福」をもたらしてくれると実感するのだ。こうして、幸福をもたらす調和のとれた仕方でコミュニティのなかで働き、モノを生産・消費し、分配することが可能となった。こうして家族あるいは「住まい」(dwelling)の内で決められたルールが守られ、それが「当然のように」互いを尊重する態度となっていったのである。それらのルールはやがて、かれらのコミュニティの真の「社会精神」(ethos)となっていった。こうして、それらの規範は彼らの本当の「住みか」(habitat)、真の「家庭」(home)となった。このような人類の習慣から、私たちは、古代の家族が幸福をもたらすような「倫理的」で「道徳的」な行動規則にしたがって暮らしていたと断言することができる。
 こうした概念の語源を分析すると、人間の発展について多くの興味深く示唆に富んだ要素を発見することができる。倫理(ethics)という言葉はギリシャ語で「習慣」、慣行、特性を表す「ethos」から来ている。道徳(moral)という言葉は、「居住・住まい」(dwelling)を意味するラテン語表現「mos moris」から来ている。このことから、「倫理的・道徳的行為とは、住まいの内部で学ばれる習慣・慣行の総体である」と結論することができる。あるいは、視点を変えれば、「家庭のなかで行われ、学ばれることはみな習慣、慣行となる」ということができる。さらに重要なことは、次のことだ。家庭のなかで行われる習慣はみな幸福を生みだすのであり、したがって、「真に」人間らしい人々のなかに幸福を生みだすのはよいものだけだとすれば、それらの習慣は「よい」習慣であると結論することができる。いまやホモ・サピエンス(知恵をもったヒト)は、自分が存在しているだけでなく、その存在が幸福なものであり、したがって、自分が進化のより高次の段階へと昇っていることも認識している。コミュニティの内部で育まれ、実践されてきた道徳的行為は、彼を「ホモ・トランセンデンタリス(homo transcendentalis)」(超越するヒト)へと進化するよう導くのだ。
 ここに人間のジレンマを解決する鍵がある。つまり、人間を超越的な存在にするものは、真に人間的なものである、というシンプルな理解だ。なぜなら、人は「感じ」ることで自分自身の意識を超えるからこそ、自分を他のヒトから差異化するのだ。人は、「理性」(logos)を「情念」(pathos)-すなわち「肉体的愛(eros)と精神的愛(agape)」によって補完することができて、はじめて「人間」と呼ばれるのだ。
 もし、人類が本当に変わりたいと切望しているなら、人間を真の人間たらしめる確かな源から力を得るために、人間のもっともすぐれた諸価値を強めなければならない。だが、そうするためには、一部の人が、彼らをいまだに単なる「優れたヒト」にとどめている進化の一段階を克服する必要がある。言いかえれば、変化を実現させるには、多くの人が一生懸命に探している新たな社会・政治・経済理論を生みだすことさえ必要ではない。本当に必要なのは、人類が本当の人間になるために必要な能力はすべて、すでに人類がもっていると自覚することなのだ。そのためには、人類は「ホモ・サピエンス」の段階を乗りこえ、「ホモ・トランセンデンタリス」の段階を確立しなければならないことを、「自覚しなければならない」。
 「経済」(economy)の語源を調べると、「oikos」と「nomos」、つまり「家を治める方法」にたどりつく。したがって、経済の目的は家のなか、住まいの内部、家庭にある問題を解決することだ。では、誰がそれを行うのか? そう、家族の全員が、可能なかぎり最善の手段で行うのだ。たとえば、「みんなの仕事」をよく考えて計画したり、労働の成果を公平に分けあったり、知恵も情もかねそなえた親が決めたルールを守ったり、全員の権利に配慮した対話によって争いごとを解決したりといったことだ。つまりは、ギリシャ人が理解していたように、経済は家族のなかで実践される民主主義の概念に近づくことによって、問題を解決するのだ。
 ここに表されていることが私たちに教えているのは、組織化された最初の人類が経済的な問題を解決した最初の場所とは、市場ではなかったという事実だ。古代コミュニティの組織化のシステムはすべて、家族とそのニーズ(周囲の環境や仲間同士の問題を解決しなければならないというニーズ)のうちに、共同体的な形で生まれたのだ。彼らが実践した価値は、彼らの暮らしに意味と団結を与えるものだった。経済学と倫理学は一つ屋根の下で生まれたのだ。アダム・スミスは、家庭の適切な組織化は倫理学と切りはなすことはできないことを、よく理解していた。彼は、経済システムを破壊したいという願望が数多く存在することをよく知っており、だからこそ経済学は価値論的学問、政治経済学と呼ばれなければならないという意見を持っていたのだ。次のようなスミスの著作からの引用は、現代の他のどんな反対概念よりもたくさんのことを語っている。「金持ちや権力者を称讃し、ほとんど偶像化する一方で、貧しく取るに足りないけれど、階級や社会秩序をうちたて維持するのに欠かせない人々を見下す傾向は、同時に、我々の道徳感情を堕落させる、最大にしてもっとも広汎に行き渡った原因でもある」
 実に驚くべきことだが、それ自体は先験的(transcendental)なこの言明は、深刻な矛盾をはらんでいる。つまり、彼は現代社会における堕落の原因を特定する一方で、私たちはそれを受け入れなければならず、不正なシステムを動かしつづけるために、それと共存しなければならない、と述べているのだ。この矛盾から、経済学が自らの存在を危うくするような詭弁に満ちている原因を、私たちは明確に理解することができる。特に重要なことは、真の「道徳感情を備えた学問」の本当の意味を、正しく解釈することである。かくして、これからやらねばならないことは、スミスがやりたがらなかったこと、できなかったことをやり遂げることだ。つまり、諸々の感情を人格の(もはや「個人の」ではない)動機の中心軸に組み入れることだ。レオナルド・ボフは、これをさらに上手に説明している。「諸々の価値や感情が何千年もの長きにわたって追放されてきた今こそ、人はそれらの価値や感情を、人々の動機の軸として据えなおす必要をようやく識別している。私たちがよりよいヒューマニズムを完成させたいと望むなら、これは絶対に不可欠だ」。
 この観点から、感情は、人間の行動にとって補完的で非本質的な態度としてではなく、何よりもまず、人が周囲の環境や仲間のなかにあって自分に忠実であるときの、その人の行動の仕方をつかさどる人間行動の本質的な一要素と見なされなければならない。哲学的人類学の立場からすると、感情とは人類の本質の一部であり、したがって外部的なものや補完的なものとは見なされない。あらゆる人間的行為において、それぞれの人から感情が表出されるのであり、経済行為もむろん例外ではない。言いかえれば、感情(sentiment)は、これまでのあらゆる「科学的な」経済学の枠組みの中心軸である単なる感覚(sensation)にくらべて、本質的に優位にあるのだ。
 感情という概念なしには、経済理論は疑似科学の範疇を出ない。そうした経済学は、人間を人間たらしめる主要な要素を排斥しており、還元主義的である。残念ながら、需要と供給の理論を確立した実証経済学は、消費と生産の際の心理的利得の最大化から生じる感覚だけを、個人の唯一の「真の」動機とみなすことによって、限界をつくりだしてしまった。他の動機の存在は考慮さえされなかったが、すでに見てきたように、現代において、マズロー、ゴールマン、マックリーランドらの優秀な心理学者が発展させた理論は、純粋に物質的なニーズの充足が、人間の動機の初期段階における一局面にすぎないことを明確にする上で、多大に貢献した。
 もし、こうした心理学理論が経済思想の発展において考慮されてきたら、現在行われているように物質的ニーズを充足させることだけをめざさない、より正しい社会の実現が可能だったろう。いわゆる「発展した」国を他から明確に区別するものがあるとすれば、それは、そうした国の住人はどこまでいっても「物質的欲望」を抑えることができない、という事実だ。こんにちの世界に暴力が存在する決定的な理由とは、人々がその人間的欲望を最大限に実現させるために-言いかえれば、欲望を最高に満足させる方法を探すために-競争する誘惑にかられているからだ。こうして、人間は、対極にある真の最終目標から完全に遠ざかってしまう。このように競争は、人間の本質であり人間らしさの象徴である「連帯」のアンチテーゼとなる。こうして、人間が市場で競争するよう呼びかけられれば呼びかけられるほど、ますます互いに競争して暴力を悪化させるのだ。
 人間は尊厳を失い、非人間化されてきた。経済学が真に科学的であると見なされるためには、なによりもまず、経済学が実証科学の一部としてでなく、哲学・道徳学の一部として位置づけなおされる必要がある。次に、「感情」(sentiment)を人間行動の本質的な一部分であり、激情(passions)や欲望(greed)、それらの心理学的反映である「感覚」(sensation)を統御するものとして、経済学の理論に組み込まなければならない。だからこそ、感情は二重の意味で経済行為における人間の行動を真に特徴づけるものでなければならない。つまり、経済行為の原因に関しては、感覚よりも上のカテゴリーとして。経済行為の結果に関しては、社会的不均衡から生じるあらゆる悪い結果を糾す手段として。
 このことは、万人に真実である。消費者にとっては、本当に欠かせないものを消費するよう、自由に選択するために。生産者にとっては、個人的見地からも社会的見地からも、人々が尊厳をもった生活へと導かれるために真に不可欠なものを、「効率的に」生産するために。公務にたずさわる者にとっては、コミュニティの社会的評価から生じてくる優先課題をはっきりと見定め、財やサービスを受ける権利が公平に分配されるよう保証するために。この意味で、自由と平等はともに連携しつつ、人々の行動の根底にある原則とならなくてはいけない-たとえ、その行動がどこでなされるにせよ。こうして、人はどんな環境にあっても常に「民」(people)として行動せねばならず、「民」と認められるためには、人は社会のなかで片時も休まず、自由と連帯のために闘わねばならない。人は、人類の質を高めるために、可能な限りあらゆる努力を払わねばならない。

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 新たな価値論は、本質的な人間的価値についての革新的な思想としてだけでなく、社会における個人のふるまいとして、つまり、個人の倫理から「公共の」(public)倫理への展開としても理解されなければならない。この観点から、私たちはみな、他の人々に起こった事柄に責任を負っている。「相互性」(alteridad)という概念は、私たちはみな公に、自分たちのあらゆる行為に対して説明責任があるということである。たとえば、顧客の預金を運用する銀行家は「公共倫理」を実践するように-すなわち、彼らに託された「公共の」資源に対して良心的かつ公明正大に責任をもつように要請される。この見地から、官僚だけが「公共」に属する事柄に責任をもつのではなく、人々や資源を託されている人すべてが責任をもつ。そして、この責任の連鎖は、教員、企業家、聖職者、医師、裁判官など無限に続く。彼らはみな、社会の前で、他人の権利を左右することについて説明責任を負っている。現代社会の堕落と暴力を深めてきた倫理の崩壊について、「他人」の責任を問うて終わりにしてきた人々も、いまこそ敢えて自分自身の責任を受け入れるべきだ。私たち「みんな」が、この世界の現状に責任を負っているのだから。<完>