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阿部 慶太(フランシスコ会) | |
伝統芸能の練習場の確保もたいへんな仕事です。「チュム」と呼ばれる舞踊や、「プンムル」という伝統的な4種類の楽器を演奏しながらねり歩くものにしても、動きが大きく面積を取るのと出演者も多いため、ホールなどを数ヶ月間定期的に確保し調整するのも一苦労です。 練習は学校や仕事を終えた総勢100名近いメンバーが、パート毎に集まります。その練習風景は各自の想いや熱さえ伝わってくるようで、「パッション」(情熱)という表現がぴったりするような雰囲気がその場を包みます。この練習は夏から約3ヶ月繰り返され、それは激しく厳しい練習ですが、一人一人の呼吸が合い、良い演奏や演技ができた時の場の空気は、同じ目的を共有する人々の想いや喜びが交差する瞬間でとても印象的でした。 現在は生野区の秋の風物詩的な存在になった民族文化祭ですが、初期の頃には今日考えられないような苦しみもありました。第1回目から現在まで協力者として関わってきた鍬本文子さんは、こう当時を振り返っています。「初めの頃、区内のだんじり(=山車を引っ張って練り歩く祭り)と日程が重なり、農楽パレードの後、道が汚れたというので夜通しだんじりが道を練り歩き、在日との衝突を警戒した警察が装甲車と機動隊100人くらいを出動させたこともありました。地域の日本人の反感も強く、学校のグランド使用についても、表向きは『自転車やゴミが出るので貸せない』というものの、裏では『在日に学校を乗っ取られるのではないか』と疑心暗鬼でした。また、ポスターに墨が塗られたり破られたり、同じ在日からも『北でも南でもない祭りなんて考えられない』という南北分断色の強かった時代らしい反応もありました」。 |
第1回から10回まで実行委員をつとめ、昨年からまた復帰した李栄汝さんは「確かに日本人の側に自分たちの既得権を脅かされるという不安や、日本の学校なのになぜ在日に貸すのかという不満はあったが、それより私たち在日の側に『こんな集まりを待ち望んでいた。生野を、いや日本を変えてやる』という意気込みがあった。そう、はじけるゆう感じやった」と語りました。李さんは、在日一世がパレードを見に家を飛び出してきて涙を流していたことや、「自分たちの時代にこういう民族の誇りの祭りが欲しかった。実現してくれてありがとう」とお礼を言われたことなど、当時のエピソードを語ってくれました。 今年の文化祭で参加が3年目の金和成さんは、文化祭に出会ってからの変化を「初めて参加したときは、自分が在日であるということに気づかされ、回を重ねるごとに自分のルーツや文化に積極的に関わりたくなります」と述べています。高晴美さんは「初参加の人や毎年参加する人も、民族の文化に触れることで、民族意識が自然にできあがっていったり深められたりしているように思います。行き帰りのハングルの挨拶にしても練習の掛け声にしても、この踊りの扇にしても私たちの文化やし、そんな中で身についてゆくんやと思います」と話してくれました。 また、今回の実行委員長、咸忠男さんは「20年前に比べ韓日関係は良くなったといっても、在日を取り巻く状況は変わらない。だから、こういう場の必要性を感じるし、こうしたものを土台に、在日の未来につながるもの、これからの在日の生き方を示すものをつくりだしていかなあかんと思います」とこれからの方向性も交えてコメントしています。 こうした人々の熱い想いを乗せた民族の祭典は、10月26日の前夜祭にあたる「地域農楽パレード」で幕を開けます。スケジュールは以下の通りです。
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