エンリケ・フィガレド・アルヴァルゴンザレス、SJ(バッタンバン司教)
2.カンボジアの教会のミッション-いくつかのモデル
(「A.福音宣教の3つの前提」は前号)

    B.教会のミッションの優先課題                                                  
  「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる」(マタイ福音書11.4-5)
 以下に優先課題のリストを示しますが、どれか一つが他のものより重要だというのではありません。すべてが同時に、有機的で総合的な仕方で果たされなければいけません。それぞれが他のものの上に成り立ち、互いに支え合っているのです。言いかえれば、どの一つも他のものがなければ前に進みません。これらの優先課題が現実に行われるためには、それらがまず内側から自然と湧き出なければなりません。
1.人々にイエスの信仰体験の機会を与える                                                  
  カンボジアにおける私たちの優先課題は、イエスの信仰を伝えることです。その信仰の源、源泉は「イエスのみ心」にあります。イエスはその信仰を、生涯を通じて死の時まで、そして復活の時までのべ伝えられたのです。イエスの信仰のおかげで、私たちはご自分を「アッバ」(父よ)と呼ぶよう私たちを招いておられる神をいただいています。神は慈悲深い父であり、私たちを愛し、喜んで迎え、ゆるし、そのゆるしを祝い、私たちに惜しみない愛を注ぎ、すべての人が、文字通りすべての人が、このダイナミックな関係に入るよう求めておられるのです。私たちが生命やよろこびを持ち、そのゆるしを祝う心の広さを持つことこそ、神が私たちに望まれていることなのです。私たちの神は例外なく愛されます。神は迷える人々を愛されます。神にとって、追放された人、疎外された人は、特に手厚く世話されるべき人々です。神は、すべての人がご自分の無償の愛を体験するよう望まれます。これこそキリストの信仰です。
 カンボジアの公式の伝統宗教は、上座部仏教です。国中にパゴダ(仏塔)や寺院が建ち並び、人々が仏教の信仰や伝統を深めるのを助けています。寺院に大勢集まって祝う公式の宗教である仏教とならんで人気があるのは、祖先の霊や「ネアックタ」のような特別な場所に属する精霊に対する、昔ながらの信仰です。
 このような背景を考えると、この国が-すなわち、かくも激しい戦争を経験した国民が、アイデンティティを保つ手段として、日常生活に深く根ざした強い伝統宗教に頼っているカンボジアが、一夜のうちに「イエス・キリストは神である」と宣言するようになるとは考えられません。もっとも、キリスト教の信仰を公に宣言する原理主義的キリスト者のグループもいます。彼らは他の宗教に対して攻撃的な態度をとりながら、「キリスト・イエスは神である」と宣言しています。
 この国-貧しく打ち砕かれてはいるが、可能性に満ちているカンボジアにおける優先課題は、イエスがご自分の生涯によって教えられた信仰を、人々に体験させることです。イエスは、この信仰を新しい仕方で祈り、多くの人々の心を動かされたのです。私たちは、単にカンボジアの人々が「ナザレのイエスは神である」と信仰告白することだけを求めているのではありません。イエスの信仰を体験することは、司牧戦略の単なる一テーマでもなければ、貧しい人々に私たちが望む通りのことをさせたり言わせたりする計略でもありません。それは、私たちのミッションにとって、優先的で核心的な要素に他ならないのです。
 私たちがとるべき道は、慈しみと正義に満ちた心を貧しい人々に示すこと以外にありません。それは、人々の心からのニーズに進んで応えることです。といっても、ソーシャル・ワークや社会開発のことを言っているのではありません。それよりもっと内面的なことです。つまり、ナザレのイエスがなさったように、聖霊が私たちの生活に及ぼす解放的な力に、責任をもって応えることです。



 そうしたつとめは、キリスト教の信者になる理由もない多くの人々と力を合わせて、はじめて実現します。具体的な例を紹介しましょう。カンボジアでは、障碍を持つ人々が私たちに12の優先課題を提案しています。生計の手段、食料、安全な水、教育の機会、ヘルス・サービス、収入の向上、対人地雷の全面禁止、農地の開放と耕作する権利の確保、医学的・社会的リハビリと職業訓練、歩いたり見たり意思を疎通する手段の確保、障碍者自身が互いに責任と関心を持って助け合うこと、地雷の危険性や対立を解決する手段として暴力を用いることについての教育、です。
 これはすばらしいリストです。これらの目標を実現するために働くなかで、私たちは力を合わせてイエスの信仰を示すことができるのです。これらの優先課題は、私たちをイエスとそのみ心、小さき者への神の愛に満ちたみ心へと一致させる、すばらしい例です。

2.カンボジアのカトリック・コミュニティの信仰を深め、強める                                 
 1970年代はじめに戦争が始まってからこんにちに至るまで、カンボジアで権力を握ってきた歴代の独裁政権は、カトリック教会を手ひどく痛めつけてきました。困難な時代でした。暴力がもたらす痛みの記憶と苦しみは、いまなお強く残っています。暴力や飢え、病気のために亡くなったキリスト者、特に教会指導者は、膨大な数にのぼります。そのなかには、み摂理会のシスター6人、カンボジア人の司教2人、カンボジア人の司祭全員と、少なくとも2人のフランス人司祭がいます。カンボジア社会の他の分野と同様、教会の施設もすべて灰となったのです。
 こんにち教会は廃墟から立ち上がり、活気をみなぎらせています。信仰は死んではいませんが、公に宣言することはままなりません。こんにち私たちは、この打ち砕かれた社会に奉仕しつつ、カンボジア社会のなかでイエスの信仰を宣言して生きたいと願っているキリスト者を強め、深めなければなりません。
 このように信仰を強める努力のなかで、子どもや若者の養成が優先課題となります。カトリック教会はカンボジア社会のなかで孤立しているわけではありません。教会が社会に公然と姿を現し、発言できるようにすることが、とても重要です。ですから、信仰教育(行いの面でも典礼の面でも)を通してカトリック・コミュニティを助けること、いま可能な限りの正常なキリスト教生活を送れるよう、彼らの信仰を育てることこそ、不可欠の優先課題なのです。

3.和解と正義                                 
 いまカンボジアで論争を呼んでいる問題の一つに、ポル・ポト時代に起きた「人道に対する罪」を裁く国際法廷の問題があります。私たちはこの法廷が、カンボジア国民が自国の歴史と和解する助けとなると信じています。けれども、私たちがこんにち必要としている基本的正義、カンボジア国民を互いに和解させ、神と和解させることを可能とする正義とは、貧しい人々や排除された人々に食料や教育、医療、仕事をもたらすことであり、彼らに責任ある自由をもたらすことなのです。まさにこれを出発点に、私たちは主の霊に導かれて確かな歩みができるよう、行くべき道を定めなければなりません。

 キリスト教信仰がカンボジアで発展するためには、この国の他のグループやリーダー、たとえば政府や非政府組織(NGO)、他の宗教団体との協力が不可欠の要素です。他の人々と一緒に、慈しみとゆるしの精神で、貧しい人々や排除されている人々のニーズに奉仕すること。これこそキリスト教信仰がカンボジアに和解と正義をうち建てるために果たすことのできる貢献です。
 カトリック教会それ自体は、カンボジア社会のなかでは小さな集団にすぎません。しかし、教会は若くて活力に満ちており、カンボジア社会に重要な貢献を果たす十分な力を秘めています。教会の団結心と信仰、深い社会的関心が、他の人々の働きと一つになるとき、大きな仕事が成し遂げられるでしょう。
 他方でカトリック教会は、カンボジア社会がかかえる緊急で深刻な問題、対立を招きかねない問題に直面しています。かなりの人数にのぼるベトナム出身の人々の存在です。この件について正確な統計がない理由はいろいろありますが、特に誰がベトナム人、あるいはベトナム系の人かを区別するのが簡単ではないからです。どこに線を引くかは、まさに選択次第なのです。最近住み着いたばかりの人もいれば、何世代にもわたってカンボジア領内で暮らしている人もいるからです。
 ベトナムのエスニシティ(民族性)を持つカトリック・コミュニティは、たいていの場合、何世代にもわたってカンボジアで暮らしてきましたが、数々の戦乱を避けて各地を転々としてきました。彼らはいまだにカンボジア社会にほとんど溶けこんでいません。彼らは100%のベトナム人でもなければ、カンボジアの市民権を100%認められているわけでもありません。彼らの立場はいまだにはっきりしていないのです。彼らはたいてい貧しく、生活のために一生懸命闘っています。子どもたちはたいがい教育を受ける機会に恵まれていません。彼らは多くの場合、トンレサップ湖の水上集落やメコン河の岸辺に、孤立して暮らしています。
 カンボジア教会内部でも、ベトナムに民族的起源を持つカトリック信者と他の信者とを橋渡しする最善の方法を見いだすためには、まだまだ多くの議論が必要です。歴史的にみて、カンボジアのカトリック教会ではベトナム人グループが、多数派の恵まれた立場にありました。そのため、カンボジアに民族的起源を持つ信者は、彼らに敵意を抱いてきました。私たちはまだ戦争から抜け出したばかりで、カンボジアとベトナムの間に起こった多くの強烈な悪夢の記憶は、いまでもとても鮮やかに残っています。だから、事態は困難なのです。この対立をキリスト教的に解決する魔法があるわけでもありません。ただ、共感とゆるしの心を持ち、私たちの心が対話に向けて開かれますようにと祈りながら、相互理解をめざして共に歩み続けるのみです。
 カンボジアで正義と和解をめざして働くことは、単なる社会一般に課せられた義務ではありません。それは、他のミッションと同様、カンボジアのカトリック教会の核心的なつとめですが、特にこの国の特別な歴史のために、この真に福音的なニードがいっそう求められるのです。

4.カンボジアの芸術と文化の振興                
 カンボジアには豊かな芸術や伝統、文化があります。舞踊や音楽、建築、詩は、全国民の遺産であり、歴史的アイデンティティの一部です。いま、私たちは典礼や他の信仰を表す手段をカンボジア的な仕方でおこなおうと、一生懸命に努力しています。それは、ただ地元の言葉を使うだけでなく、信仰のいのちがカンボジア人の生活のうちに根づくような道を探る試みなのです。
 信仰の土着化(インカルチュレーション)とは、単に典礼をカンボジア風にアレンジすることではなく、もっと深くて創造的でなければなりません。それは、カンボジアの人々が自分たちなりの仕方で、私たちみんなを愛され、私たちみんながご自分のよろこびや愛、やさしさにあずかるようにと望んでおられる神との関係を表現するものでなければなりません。

 私たちはいま、この課題に深く取り組んでいます。そのために、カンボジアのお祭りの仕方とカンボジアの重大な社会問題の両方から学んでいます。私たちはそれらの導きと助けによって、福音とそのメッセージがカンボジアの人々にとって身近なものとなる方法を見いだすだけでなく、カンボジアの人々が救いの神-正義とゆるしを与えられ、平和とよろこびをもたらされる神-を体験したときに、福音がその体験の宣言として用いられるような方法をも見いだすのです。
 私たちは、それが長い歴史的なプロセスで、何世代もかかってやっと実現されることを知っています。けれども、福音とカトリック教会がカンボジア的な仕方で土着化しない限り、キリスト教が仏教のようにカンボジア自身の宗教とは見なされないだろうということも知っています。仏教にしても、元々はインドから伝来した宗教ですが、カンボジアの伝統にすっかり溶けこんで、いまではカンボジア民族のアイデンティティの一部とみなされるまでになっているのです。

5.宗教間の対話の促進と参加               
 カンボジアでは、あらゆるレベルで社会的対話を促すことが根本的に重要です。カンボジアにはすでに、仏教やイスラム教が他の多くの在来宗教と結びつきながら圧倒的に存在しているという事実のゆえに、そうした社会的対話は望まなくても自然と生まれます。けれども、そうした対話を積極的かつ率直に、理解と情熱をもって、相手から学ぼうという姿勢でおこなおうとするならば、また別の結果が生じます。
 独裁主義と無意味な規則によって痛めつけられたカンボジア社会は、当然ながら対話と相互理解、多様性が認められる余地を熱心に求めています。私たちはまず、対話の場を開く必要があります。対話は公式の宗教的な場で行われるだけでは十分ではありません(実際、有意義で有益であるのですが)。たとえば社会的な分野やソーシャル・サービスの領域での協力といった取り組みを通して、生活の場でも対話がおこなわれなければなりません。カンボジアでは、神学者のアロイシウス・ピエリスが言うところの「共生」が必要です。それぞれの宗教が互いにチャレンジしあいながら、戦火の時代から立ち上がろうとしているカンボジア社会のもっとも重要なニーズに、もっとも適切に応えることが望まれています。
 カンボジアの人々に平和と和解をもたらすには、あらゆるレベルでの宗教間の尊敬に満ちた対話が欠かせません。けれども、それはほんの第一歩にすぎません。平和な社会を実現するためだけでなく、諸宗教が自ら生命を湧きあがらせるためにも、そうした対話が率直さと真摯な理解とをもって、生活のただなかでおこなわれることが大切なのです。
そして私たちにとっても、キリスト教信仰に基づく私たちのおこないが、カンボジア社会に「義の宿る新しい天と地」(二ペトロ3.13)をもたらすために、そして私たちが正義とよろこび、愛の神の子どもであることを、すべての人が実感するような社会を実現するために、対話が必要なのです。


キリストの希望のうちに生き、祈る理由

「主を喜び祝うことこそ、我々の力の源」
(ネヘミヤ8.10)


 結びに、希望についての三つのスケッチを紹介させてください。主と共に、すべての善意の人々が神の国を目指して共に歩む日を夢見ましょう。

1.第2回カンボジア対人地雷報告              
 2001年9月4日、バッタンバンにある障碍を持った子どものためのペドロ・アルペ・センターで、第2回「カンボジア・ランドマイン・モニター」報告が発表されました。2000年の新たな地雷犠牲者は800人でしたが、この10年間では最低でした。もちろん、この地雷という巧妙なワナによって引き起こされた、これら800人の犠牲者とその家族、コミュニティの苦しみは悲惨です。他方で、バッタンバン州だけで、すでに106ヶ所の地雷原から地雷が除去され、749ヘクタールの豊かな土地が開放されました。その結果、1576家族が多大な恩恵をこうむっただけでなく、病院、市場、パゴダ、水くみ、学校や通学路など、地域のインフラ開発も進みました。
 私たちはいま、これらの犠牲者の苦しみをやわらげるために働こうとしており、次回の報告書がよりいっそうの励みとなることを願っています。
2.平和の踊り手の村              
 プノンペンから30キロほどのところに、古典的なカンボジアの伝統舞踊にたずさわる25家族が住む、小さな村があります。彼らは難民キャンプでの流浪生活から帰国しました。彼らは芸術によって暮らしをたてており、そのことが帰国してから社会復帰する上で役立ちました。
 昨年、この村から40人の人々(大部分は子どもでした)が、スペインの3つのNGOの招きで、喜びとチャレンジに満ちた彼らの生のメッセージを、国境を越えて伝える旅に出ました。この意義深い旅を通じて、カンボジアの子どもたちはとても素朴な形で、喜びと色彩、生命に満ちた、前向きで希望にあふれたメッセージを伝えることができました。同時に、これらの子どもたちが貧しく、支援を必要としている一方で、どんなに才能豊かであるか、そして、ほんの少しの手段でこの世界の当たり前な関係を別のものへと変えることができるということも示すことかできました。この二重の意味を持つイベントは、子どもたちを迎えた人々に、芸術が重要な意味を持つ素朴な暮らしの価値を伝えることができました。この体験は、スペインの人々の消費主義的な価値観をかき乱し、たくさんの考える材料を与えました。国境や言葉、文化の違いをこえた友情の大切さを知った私たちは、よりよい相互理解に満ちた世界、すべての人に平和が訪れる世界を希求するのです。
3.あるカンボジア人の祈り                             
カンボジア仏教の大僧正で、平和運動指導者であるマハ・ゴサナンダ師は、私たちが希望を持ち続けるよう助けるために、仏教の伝統からとられた知恵に満ちたすばらしい詩をくださいました。

「カンボジアの苦悩は大いなるものだった。
その苦悩は大いなる共感を生みだす。
大いなる共感は惜しみない心を生みだす。
惜しみない心から立派な人が生まれる。
立派な人は円満な家庭をつくる。
円満な家庭は思いやりのある村をつくる。
思いやりのある村は平和な国をつくりだす。
平和な国は幸福な世界をつくる。
その世界で私たちはみな、
連帯と平和と幸福のうちに生きる。」


バッタンバン、2001年9月24日
(原文はスペイン語、日本語は英訳からの重訳,翻訳/イエズス会社会司牧センター)