連帯の経済学の諸原則①
(2002年8月29日、ワークショップでの講演より)

エドゥアルド・バレンシア・バスケス(エクアドル・カトリック大学)
  哲学史において、かつてソフィストと呼ばれる一派が、その熟練した優雅で真実味のある弁論で有名だった。だが、聴衆を信じ込ませる手練にみちた弁論の裏に、真理からの逸脱と歪曲が存在することが、ほどなく看破された。言いかえれば、言論の裏にある真実をあきらかにするためには、そこに使われている論法の歪曲を前もってみぬくことが大切だ。なぜなら、それこそが「ソフィズム」(詭弁)の意味するところ、つまり「意図的な真理の改変」だからだ。
 本論では、ネオ・リベラリズムのすべての逸脱を指摘するのではなく、問題の理解にとって重要なものだけを指摘したい。それによって、経済理論と倫理学の観点から、もっとも重大な逸脱を告発し、断罪しよう。

1.自由市場という詭弁          
  アダム・スミスの理論の背景にある主な理論づけとは、他のいかなるシステムよりも効率的に資源を配分するためには、売り手と買い手の数が制限されず、情報がすべての人に届けられ、外部のいかなる公共機関あるいは民間機関からの介入もなく、何より交易において同質的生産物が用いられるという条件が必要だ、ということであった。だが残念なことに、こうした条件がそろうことはまずありえないということが、近年明らかになっている。ジョアン・ロビンソンは、近代経済は独占へ-よくても独占的な競争へ-と向かう傾向があると指摘している。ジョセフ・スティグリッツは、情報の供給は非対称的であることを論証している。ジョン・ナッシュは、競争に参加するすべての人が同じ目標をめざすのでなければ、競争だけでは効率性は達成されない、と述べている。
2.消費者主権という詭弁          
   資源の配分決定をもっとも効果的にするためには、何事も何者も人々の決断を妨げないことが、必要不可欠の条件だ。だが、逆説的なことに、近代経済ではマーケティング技術が、人々の意識をコントロールする道具となっている。こうした状況は消費者主権ではなく生産者主権であり、相対的な価格形成のシステム全体をゆがめるものであることは明らかである。

3.資源の効率的配分という詭弁          
 もし、市場において消費者に、完全な事前の自由が存在しなかったら;もし、生産者が生産物の同質性を変えたら;もし、顧客への情報提供が非対称的に行われていたら;もし、零細な供給者が個々に競い合う状態が、独占状態もしくは独占的競争状態にとってかわられたら;そしてもし、上記の分析から導き出されたように、生産者と政府との間に、ミクロ経済の根本的な政策決定に介入するような、確固たる影響力の関係があるとすれば、市場はもはや自由市場理論の認識論的前提にしたがっては働かないこと、そして資源を効率的に配分できないことは明らかだ。

4.競争は進歩につながるという詭弁        
 もし、市場において消費者に、完全な事前の自由が存在しなかったら;もし、生産者が生産物の同質性を変えたら;もし、顧客への情報提供が非対称的に行われていたら;もし、零細な供給者が個々に競い合う状態が、独占状態もしくは独占的競争状態にとってかわられたら;そしてもし、上記の分析から導き出されたように、生産者と政府との間に、ミクロ経済の根本的な政策決定に介入するような、確固たる影響力の関係があるとすれば、市場はもはや自由市場理論の認識論的前提にしたがっては働かないこと、そして資源を効率的に配分できないことは明らかだ。

5.経済政策の第一目標は安定だという詭弁                                                 
 経済理論においては均衡の回復という概念が不可欠だが、この問題はこれまで常に、短期的・偶発的な問題とみなされてきた。それとは対照的に、発展途上国においては、経済の不安定性が構造的な問題となっており、ネオ・リベラリズムの経済学者によれば、この不安定性の是正こそが長期的な経済政策の課題となっている。インフレを克服して経済を安定させるために、長年にわたって「抗生物質」を投与してきたにもかかわらず、起こったことといえば、危機を生みだす病原菌の繁殖だった。こうして、不安定性は悪化している。大部分の発展途上国では、世界的な生産の縮小と失業の増大による、インフレと不況の同時進行が見られる。このような根本的な理由から、世界の貧困は現代のもっとも深刻な問題のシンボルの一つとみなされている。

6.人々は将来の消費を増やすために、現在の消費を控えるという詭弁        
 貯蓄行為とは、個人や企業が将来の消費を増やすために現在の消費を控えようとしてとる態度のことである。だが、現代においては不思議なことに、この貯蓄という経済学の基本原理が次第に姿を消しつつある。いまや、消費と反貯蓄の原理が支配的になっている。もし、金のない者が貯蓄せず、貯蓄できる者もしなければ、将来の消費の財源はどこからくるのか?

7.富める者の貯蓄は発展の原動力だという詭弁                                                    
 もっとも高い収入を得ている社会階層は、貯蓄しやすい環境にあると信じられてきた。だが実際には、この貯蓄という健全な目的は、違った使われ方をされている。大企業の経営者たちは資金を外国の口座にあずけており、安全性が十分には保証されていない国々の生産に投資するリスクをとるかわりに、投機にまわして所得を得ることを選択しているのだ。


8.経済成長は失業を解決するという詭弁        
 経済理論はこれまで常に、ある国で生産が増加すればするほど、資源-なかでも労働力-の需要がたかまると述べてきた。だが現代では、そうした主張は必ずしも自明ではない。国際市場で競争する力を持つためには、生産プロセスに技術革新をとりいれることが不可欠だが、それは往々にして労働力の需要を低下させる。成長の利益は通常、生産設備の所有権をたくさん持っている人にもたらされるものであり、こうした利益配分は独占的であるのがふつうだ。その結果、逆説的なことに、国々の経済が成長しても、それにふさわしいレベルの雇用を生みださないのである。


9.低開発は労働環境の非効率が原因という詭弁        
 有力な組織に属する企業家たちはいつも、民衆の「無知」と「怠惰」こそ低開発の原因だという。そうした理由で経済が高い生産性を持てないと言いたいらしい。確かに、貧しい人々のためのより強力な教育プログラムは、彼らの生産性を高めるのに役立つだろうが、一方で、インフォーマル・セクター*で働く人々や移民労働者の多大な貢献がなければ、貧しい国々の経済の大部分は崩壊するという現実も指摘しなければならない。インフレと不況が共存し、貧しい人々を直撃するこの時代に、民衆の大部分は生き延びるために同時に二つ三つの仕事をこなさなければならないのだ。
 *経済統計に現れない非公式・零細な経済活動。たとえば路上の物売りや靴磨きなど。

10.カントリー・リスクは投資金融や経済回復に悪影響をもたらすという詭弁        
 グローバリゼーションという枠の中で、国際経済の権力が各国政府から巨大銀行へとわたってから、主要な国際金融機関は「カントリー・リスク」という概念を使いはじめた。それによって、銀行が皮肉にも自ら進んで貸しこんだ債務を、貧しい国々が返済するにあたっての困難度を判定するのである。おかしなことに、当該国の国内銀行まで、顧客が返済義務を遂行するよう求めるために、この概念を採り入れているのだ。これらの国が債務危機に陥っているという前提に立って、地元の銀行家は生産者や消費者向けの融資で暴利をむさぼっている。そして、まさにそうした条件のために、借り手は返済できないのだ。こうして、債務不履行は広がり、経済は不況へと突入する。
 もし、「カントリー・リスク」という議論が成立する余地があるとすれば、より高い見返りを要求すべきは、預金を通して金融機関に投資している預金者であり、第三世界で起きているように、民間銀行が預金者や生産者、消費者にコストを負担させてマージンを増やすような事態は、明らかにおかしい。なぜ、私たちの社会が時とともに貧しくなる一方で、ごく少数の人々が富を信じられないほど増やしているのか、その理由をこれ以上説明する必要があるだろうか?

11.自由市場は公平を実現するという詭弁        
 自由市場は、資源の効率的な分配に最善の仕組みであるうえに、公平も実現することができる、という議論がある。なぜなら、長期的に見て、あらゆる消費者が自分たちのニーズを満足させることができ、あらゆる生産者が生産コストをカバーする値段で生産物を売ることができるからである(生産者が喜んで生産物を売るであろう限界の値段とは、利益は全くなくとも、生産コストだけはカバーできる値段だからだ)。こうして、市場で扱われる生産物全体が、企業家の間で「公平に分配される」というのだ。さらに、そこから導き出される結論として、生産資源の需要もピークに達するという。だが、残念ながら、教科書の外の現実はだいぶ違う。一方では、すでに述べたように、基本的な要件が満たされていないので、市場には正当な競争が起こりえない。他方、かりにそうした要件が満たされたとしても、消費者と生産者が参入する市場は、豊かな者が得をし貧しい者が損をするような、不平等な条件や富の獲得手段が存在する市場なので、平等は決して実現しない。
12.経済学は非倫理的学問であるという詭弁                                                  

 過去二世紀にわたって、経済学理論は倫理学を棚上げにすることを前提として成り立つという考えが、漠然と信じられてきたが、最近、多くの研究者が、それは正しくないと主張している。彼らの主張は、スコットランドの哲学者が唱えた、「共感」(sympathy)という概念に基づく価値論的な経済学の提案に端を発している。この哲学者によれば、この「共感」こそ、経済主体が市場における経済活動で不可欠な要素だという。だが、彼の理論で「暗黙のうちに述べられている倫理学」とは何であったかを議論することこそ、おそらくより重要なことだ。彼は、市場競争の結果として、企業家が最終的には自らの利益をけずり、その分を社会に還元するべきだと提案することで、実はより公正な社会を望んでいたのである。これこそ、アダム・スミスが自らの倫理的目標として見定めた経済正義という目標だ。
こうして、アダム・スミスの業績とは、実は、倫理的な性質を持った一つの科学の提案であったと結論づけられる。それはともかく、ネオ・リベラリズムとその主要な支持者である金融界の企業家が、いつも経済学を倫理学とは無関係な学問と解釈しているのは確かだ。この考え方が、あたかもアダム・スミスの『国富論』で述べられている、唯一にして最重要な理念であるかのように、中心に据えられているため、いまだに矛盾と混乱が存在していることも本当だ。だが、もし彼らが、スミスにとってはより重要な著書である『道徳感情論』の他の重要な概念を考慮に入れたなら、彼ら名高い金融家のかたよった解釈も、まるで違ったものになっただろう。スミスはこの本で、明白に経済学を道徳哲学の一部として位置づけているのである。(次号完結)。