ネオ・リベラリズム批判
安藤 勇(イエズス会社会司牧センター)
 
環境開発サミット(国連本部より)
 今年の8月末からヨハネスブルグで開催された環境開発サミットは、貧困と地球環境という世界のもっとも緊急な課題を、あらためて取り上げた。
 エクアドルのカトリック大学のエドゥアルド・バレンシア・バスケス教授は、イエズス会国際開発ネットワークがサミット期間中に現地で開催したワークショップの一つで、「連帯の経済学の諸原則」と題した講演をおこなった。この講演の特に後半部分は、日本をはじめ西側諸国で採用されてきたのとは異なる、オルターナティブなリベラル経済学について根拠の十分な観察を提示しているので、2回に分けて紹介したい。
 その前に、講演の前半部分を簡単にまとめておきたい。バレンシア氏は前半部で、ネオ・リベラリズム的な資本主義に対する批判の理論的根拠を構築している。彼によれば、現代人にとっての危機は主に、ネオ・リベラリズムが経済政策を完全に支配していることに起因するという。
 こんにちのネオ・リベラリズム支配は、どのように正当化することもできない。それは巨大多国籍企業の力と貪欲さの産物にすぎない。1989年のベルリンの壁崩壊に象徴されるソ連邦の崩壊は、東欧における共産主義体制の没落をもたらし(東アジアではまだ残っているが)、リベラルな資本主義の勝利を確信させた。だが、そのわずか10年後、90年代はじめから顕著になってきた資本主義の危機(日本はいまも危機を脱していない)とともに、幸福な時代は終わった。
 バレンシア教授は「経済学」を、その祖であるアダム・スミスが意図していたように、本来の位置である道徳学の枠内に復帰させようとしている。経済学は現在、実証科学のなかに位置づけられているため、いかなる倫理的立場からも自由であるかのようにふるまっている。経済学は人間的であることをやめ、単なる実証科学と化してしまった。自由市場では、人間の利益やニーズの充足が、財の需要と供給の関係による価格決定に影響を与える唯一の動機とされている。したがって、生産高、コスト、利益を計算することは容易だ。また、消費性向を算定することも可能だ。たぶん、自由市場という環境のなかでのみ、経済学は科学的であり、したがって生き延びることができる。
 その結果、種々の理念の中でも、正義・公平・連帯といった理念は、生産と消費という「観察可能な」現象ではないとして、拒絶されてきた。
 だがネオ・リベラルな経済モデルに対する批判が、その体制内からも生じてきた。その批判の焦点は、国家や銀行家、企業家の間の「親密な」関係であり、お金や成功を価値規準として信奉する風潮であり、行き過ぎた個人主義や競争の害悪である。もし、世界経済を自分たちだけで支配しようとしている権力集団が、自分たちのどす黒い個人的利益を満足させるためにグローバリゼーションを推し進めれば、それは容易に全体主義にかわるだろう。その結果は、最大のものが中規模や小規模のものを飲み込む、世界規模の独占だ。
 オルターナティブなビジョンを見いだすためには、他の諸科学の進展が経済学の進歩に貢献し、価値ある刷新をもたらしてきたという事実を忘れてはならない。エドゥアルド・バレンシア氏は物理学、心理学、生物学、哲学の進展について詳しく説明している。


 以上が、バレンシア氏の講演の前半の4章(Ⅰ.人類の危機にかんする議論、Ⅱ.経済学の科学性に対する批判、Ⅲ.グローバリゼーションとスター・ウォーズ、Ⅳ.経済学と関連する諸科学の進展)の要約である。全文を読みたい方は、当センターの英語のホームページ(http://www.kiwi-us.com/~selasj/)にアクセスしてほしい。