J. マシア(上智大学教授)
 この連載記事の読者から「男女の産み分け」について尋ねるハガキをいただいた。この問題はまさに、私が「生命の商品化」というタイトルで取り上げてきた主題と密接に関係している。


 考慮すべき問題は二つある。一つは、産み分けそれ自体が倫理的に誤っているかどうか。もう一つは、産み分けに用いられる方法が倫理的に誤っているがどうか。
 第一に、男女両性が等しく人間的尊厳をもっており、平等な扱いを受ける権利をもっていると認めるなら、私たちは男女産み分けを拒否すべきではあるが、治療上の理由といったようないくつかの例外的ケースも認めるべきだろう。第二に、用いられる方法について言えば、妊娠中絶を産み分けの方法として用いることは、特に拒否すべきだろう。
 最近、マス・メディアで、「着床前遺伝子診断」を男女産み分けの方法として用いることについての議論が盛んだ。体外受精された胚は、遺伝病をチェックするためにテストを受ける。この着床前診断に対しては、単に男女差別の観点からだけでなく、遺伝的に障碍をもった人々に対する差別の観点からも、異論が出されている。
 「精子選別」と呼ばれる方法が、男女産み分けの手段として一般的になってきている。望まれる性の胚を得るために、X遺伝子とY遺伝子の精子を選別するのだ。


 この方法は当初、治療上の理由で用いられた。たとえば、血友病は女の子より男の子に現れやすい。そこで、血友病の病歴をもつカップルが、男の子ではなく女の子を確実に産むことが望ましいとされたのだ。当時、ヨーロッパ生命倫理委員会に提出された「グローバー報告」は、こう述べている。「医療者が医学的な理由なしに男女産み分けを行うことは、認められるべきではない」(J.グローバー他・著『新たな生殖技術の倫理-ヨーロッパ委員会へのグローバー報告』北イリノイ大学出版、1989年)。だが、この男女産み分け法は、「家庭内の男の子と女の子のバランスをとる」というえん曲な表現のもと、医学的な理由がない場合にも用いられているのだ。
 言うまでもないが、倫理的観点からもっとも異論の多い男女産み分け法は、妊娠中絶だ。その理由について多くを語る必要もないが、残念なことにこの方法も産み分けの手段として用いられている。

  これはまさに「生命の商品化」、つまり生命を単なる商品として扱う態度の明らかな例だろう。もし、両親が胎児を、自分たちが望んでいた性ではないからといって中絶するなら、生まれる前の生命の尊厳は否定され、家族のもっとも基本的なきずなは破壊される。そればかりでなく、妊娠中絶が男女産み分けの方法として当たり前になっているという事実は、生命を単なる商品として扱う傾向が強くなっている、私たちの文化の根本的な弱点を示している。
 妊娠中絶一般の倫理的問題はおいておくとしても、男女産み分けと中絶の問題を差別の観点から考えてみたい。これから親になる人が男女産み分けの方法を用いたいと望むのは、しばしば男女差別(しかも、多くの場合は女性差別)の一表現なのだ。