大木 章次郎(イエズス会)
 
 『切れる』という現象についての話題でした。幼児が乳を求めて泣いていても、決めた時間がくるまではじっと耐えて待つ母親。「お母さん方が皆このように強い母親であれば、『切れる若者』にはならないはずなのですが」と、鹿児島から来訪された小児科のお医者さまは述懐しておられました。
 「テレビ、CD、ガム、アイスクリーム、携帯(電話)、ドリンク等々。四六時中、何かを与えていないといけない刺激中毒です。この刺激が切れると禁断状態になり、自分のコントロールができなくなるのです。授乳期からの習慣付けが大切なのですが」と言われます。
 「幼児、子ども、17歳のことだけではありません。生涯を通じて多種多様の中毒があり、禁断状態におちる人はいくらでもいます。個人だけでなく集団でも、この現象が起こりえるのです」とも。


ネパールのポカラという街で、障害児訓練センターを始めて満23年になります。入ってきた5人の子どもたちと一緒に、ゼロからのスタートという学校づくりに励みました。体育、教科、芸能科など、 そして庭造りなどの作業にも、子供たちはよろこんで積極的に参加してきました。用事などで私がいなくても、現地雇用の先生ひとりに心配なく、すっかり任せることができました。純情で素朴で素直な子供たちでした。
 いま、毎日25人ほどの障害児たちが通ってきます。私を含め10人の教師で指導にあたっていますが、問題続発の日々になっています。素直でない子どもたちが、とても増えてきました。
  かつては、子どもがぐずっても何もきいてもらえない貧しい家庭ばかりでした。わがままを言っても飴ひとつもらえない現実がありました。むしろ、親の手伝いに追いまわされる毎日があたりまえでした。
 現在も世界の最貧国のひとつに数えられるネパールです。しかし、それでも子どもが泣き喚いていればビスケットを与えてしまうほどには、生活レベルの向上がありました。素直でがまんづよい子どもたちは、どんどん減っています。そして、親に教養があるとみなされる「中流家庭」以上の子どもたちほど、誤った愛情と経済力にスポイルされたわがままが多いようです。
 豊かさのマイナス面を、実感しています。


  日本からのお客様で、性善説と性悪説を知らない大学生がいるのに驚いています。しかし、もっと大きな問題は、人間を理解し、社会を考え、人生と世界の方向付けを解明していく根本に、性善説の立場をとるのか、性悪説から考えていくのか、はっきりしていない人々が、現代の「指導者」になっているということでしょう。
 
  すべての人は、死を迎えなければならないのに、「人命以上に崇高なものはない」などの、かってな仮説で教育にあたり、経済を操作し、社会を誘導し、国際問題を論じています。
 「人命」の代わりに、権力、富、名誉、家族、親族、民族、階級、国益、省益、企業利益、あるいは党や党益を最高の価値として考える人々が、いくらでも見つけられます。人間の、人生の、そして社会の基本を知らないのです。


 旧聞に属することですが、上智大学では、全学生の必須科目として「人間学」の修得を課することにしたと伺いました。
 かつて、栄光学園に奉職していた当時、故ヘルベーグ神父、故富田神父とともにカトリック系中高校の社会倫理の教科書『偉大なる人間』の編纂にお手伝いをしたことがあります。それはスコラ哲学のテオディチェア(自然哲学)とアントロポロジア(人間学)を、わかりやすいかたちにまとめ直したものでした。「フィロソフィア・ペレンニス」(久遠の哲学)と呼ばれ、ギリシャのアリストテレスなどから、聖トマス・アクィナスの「クィンクエ・ヴィエ」(五つの道・方法)などの流れを汲んだ、「人間とは何か」、そして「宇宙万物を主宰する超越者はいるのだろうか」ということの究明です。
 この根本命題の理解がなければ、人命を論じ、人生を論じ、社会を、世界を論じるどのような論議も、所詮、それは、人知の推論の域から抜け出せない単なる水掛け論に終始するに違いありません。
 かつて、国連総会で基本的人権問題が討議され、国連宣言とするべく採決が行われたとき、ソビエトを核とする共産圏からの唯物無神論哲学に基づく提案は却下され、採択された最終宣言案の骨子となったのは、フランスのカトリック哲学者ガブリエル・マルセル博士らの「フィロソフィア・ペレンニス」による提案でした。
 障害者、婦人、子どもの人権保護、世界資源の全人類的利用活用、自然環境の保全から戦争、平和、人道、正義、経済の問題までの『現代的良識』は、「弱肉強食が当然の自然界」にあって「唯物的人間観、無神論的世界観」では、まったく不自然な流れであり、不合理な主張に過ぎないという結論になるはずです。
 人間の霊性、霊魂の不滅を前提としない道徳論では「援助交際」についてのカウンセリングも成り立たないというのも、当然でしょう。切れた少年が「殺人はどうしていけないのか」と反論してきたとき、進化論にだけ基盤を置いた人間観しかもたない裁判官は、少年を説得・納得させられるだけの理論を展開できるでしょうか。


 ネパールへ来る前、長い間、中学1年生から、前述の『偉大なる人間』を使って倫理の基本を教え、この基礎の上で、高校3年生まで、実践的社会倫理の授業を担当してきました。
 この基礎があれば、人生のことから、純潔、正義、そして経済、政治、戦争までも、理論的に扱うことができます。中絶も、離婚も、アヘン戦争も、白豪主義、アパルトヘイト、ABCD包囲陣なども、理解させ、納得させ、批判する目を開かせることができます。
神にかたどった霊魂を戴く人間の道と、自然界の法則、弱肉強食とは、まったく相容れないことの説明ができます。弱肉強食そのものの資本主義や、グローバリゼイションなどの非倫理性にも、着目させることができます。
 ネパールに来られた人は、ここに住む人々と、その社会環境の貧しさに驚きます。そして、世界の、また人類の数多くの問題の根源に「貧困」があると考えます。富の分配の不平等、すなわち、貧富の格差に気が付き、問題の源泉は正義に反する現状にあると帰結します。
 先ほどのフットボール・ワールドカップでも、TVで観戦しながら、ある人々は、アフリカの選手に対するヨーロッパ人選手の不遜・非道な態度を指摘していました。人種的偏見、不当な優越観、差別、南北問題等々が、現代世界の癌であると言います。
 テロの非難は正しくても、そのきっかけとなった深い理由が何であったかを反省することなく、テロに対する戦争を居丈高に宣言し、あたかも正義の発動のように恣意的に強行する発想は、パレスチナ人に対するイスラエル政府の非道ぶりと共に、この類に含まれるべきでしょう。
 「世界中でいちばん貧しい人々が、この国にはたくさんいます」と、マザー・テレサはアメリカの空港で発言されました。持っているべきものを持たない人は、貧しい人です。一番大切なものを持たない人は、いちばん貧しい人です。一番大切なもの、神を知らず、神の愛を知らず、神の愛のうちに生きる人生を持っていない人が、どれほどたくさんいることでしょうか。
 個人、家庭、社会、世界、そして人類の無数の問題、悲惨な出来事、生き地獄のような苦しみ・悩み。しかし、それらは皆、ただの一面の現象に過ぎないのではないでしょうか。神から離れ、神を忘れ、神を無視した人類が担っていくべき十字架であり、また、罰でもあるのではないでしょうか。


 トーマス・モアの名著「ユートピア」を『理想郷』と訳した人は、素晴らしいセンスの持ち主だと思います。語源のギリシャ語では「ユー」とは「ウ」、「不存在」の意味であり、「トピア」は「トポス」、「ところ・場所」を意味しています。モアが描写した理想郷は、じつは地上には存在し得ないものであると、彼自身、確信していたのです。
 私たちキリスト者も、地上に神の国の実現はないと知っています。しかし、天上の神の国に召されるときまで、この地上の人生の間に、少しでも神の思し召しに近い社会、神の国の正義を反映した社会の実現に、尽力するよう招かれていることも、確信しています。
そのために『結果』の改善に取り組むだけでなく、このような結果をもたらした源泉、『神から離れた現世』を神に立ち戻らせる基本に、まず努力を集中するべきではないでしょうか。「まず、神の国と、その義を求めよ」(マタイ6.33)
 お米をもらいに来る人がいる。トタン屋根からの雨漏りに、家の片隅に一塊になって一夜を明かさなければならない家族がある。汚いぼろにくるまれた赤ん坊が、湿っぽい土間に放り出されて泣いている。病に臥せっている老婆の顔には、ハエが群がっている。濁ったどぶの水でうがいをしている。
 はだしで学校に来る子ども。公立の学校の半数以上の生徒たちは弁当を持ってこない。月謝を払っていないから、教室に入れてもらえない。試験料を持っていかないと、期末試験が受けられない。ノートが買えない。鉛筆をください。消しゴムをください。
 「君の成績では進級できないぞ。補習グループに来なさい。1科目400ルーピーだ。君は数学と英語に来ないとだめだ」。月収3000ルーピーの家庭に800ルーピーの出費がどれほど苦しいものであるかなど、まったく配慮しない教師たち(1ルーピー=1.6円)。
 医者にかかることなど、村では考えられない贅沢だからと、ポカラに住みながらも、医師とは無関係に過ごしている病人。薬を呑むよりは安上がりだからと、魔術師に頼るグループ。もらった薬は、すぐに売り飛ばしてしまう患者。初診料15ルーピーの国立病院では、いいかげんな処置がほとんど。お金の払えそうな患者には 「ここではじゅうぶんに診てあげられない。あす、うちのクリニックにいらっしゃい」。クリニックの初診料は300~500ルーピー。病院へ出る前に15人、そして夕方、他の15人の診察。このような内職のできる都市以外に、ネパール人の医者はいない。低いカーストの患者には問診だけ、という医師もいる。
 「わしの息子に掃除などさせるな」と、怒鳴りこんでくる上級カーストの父兄。自分の飲んだコップを洗って返さなければならない低カーストのお客さん。飲み水を所望されても断らなければいけない不可触カースト。
 軍隊と武装警官の銃弾で、毎日、数人から数十人の『テロリスト』が殺戮されています。憲法停止の非常事態宣言のもと、この『作戦』に対する批判は、すべて封じ込められています。
 いっぽう、流血の作戦現場をよそに、デウバ首相の方針に満足しない与党党首、元首相のコイララは、現職の首相を党の指導部から除籍するなど、権力闘争に終始しています。地位、実力、権力に対する執着に、国民はあきれるばかりです。この地位、権力が、莫大な不正収入の基盤になっているからです。
 銀行や郵便局で、水道局や電気局の窓口で「さん」付けで呼んでくれるなら、警官や軍人が威張り散らさないなら、道路や橋の工事の安全にもっと責任をもってくれるなら、誰が首相であろうと、また、どの党が政権を担当しようと、歓迎できるデモクラシーだと、国民は考えています。


 聖パウロとともに「マラナ・タ(主よ、きてください)」(1コリ16.23)を繰り返しながら、ポカラで微力を尽くしている毎日です。

関連サイトへのリンク
ポカラの会 (大木神父のホームページ)
駐日ネパール王国大使館