J. マシア(上智大学教授) | |||
『胚をこえて』。S.ホランドが幹細胞をめぐる議論について書いた自らのエッセイにつけた題名は、含蓄に富んでいる。彼女はこのテーマについて論文集を編さんしている(『ヒト胚性幹細胞<ES細胞>に関する議論』MIT出版、ケンブリッジ:マサチューセッツ、2001年)。 この問題は難しい。二つの極端な立場から答えが示される。ある人々は、初期の(受精後2週間以内の)胚は、単なる細胞の塊にすぎないという。他方で、それはすでに尊厳と権利を持った一人の人間だと考える人もいる。だが、ホランドの主張は、そのような胚をめぐる論議をこえて、より広い社会的な背景-つまり、女性、特に貧しい女性や白人以外の女性に対する抑圧や支配という問題-について考察しようというものだ。「胚について多くの議論がなされる一方で、幹細胞研究が女性や貧しい人々に、ヘルスケアへのアクセスや資源の分配という面でどんな影響をおよぼすかについては、ほとんど語られていない」 彼女はまた、胚研究に関する倫理的論議が、女性、特に貧しい女性のニーズについて議論してこなかったことに注目する。彼女は、米国政府が胚研究への政府支出を禁止する一方で、民間企業による投資を野放しにしていることを強く批判している。こうした政策は、以下のようなペア-民間企業と政府、男性と女性、着床前の胚と女性、持てる者と持たざる者-のうち、支配的な力を持つ前者を優先する世界観の反映なのだ。 |
白人で高い教育を受けた女性の卵子は、非白人で高い教育を受けていない貧しい女性の卵子よりも価値が高いとされるだろう。こうした考察は、健康保険制度の問題やヘルスケアをめぐる財政問題という、より広い観点から見るとき、いっそう重要となる。実際、米国では1998年時点で4300万人が健康保険に加入しておらず、そのうち58%がヒスパニックや黒人である。 たしかに、日本のヘルスケアや健康保険制度は米国とは異なっているかもしれないが、それでももう一人のフェミニストの著作家、S.シャーウィンの主張を引用しておくのは有益だと思う。彼女はこう書いている。 「それゆえ研究は、実験の被験者への影響ばかりでなく、現存の抑圧と支配との関わりにおいてもまた評価されるべきである」(スーザン・シャーウィン著、岡田雅勝・服部健司・松岡悦子訳、『もう患者でいるのはよそう-フェミニスト倫理とヘルスケア』勁草書房、1998年、176ページ) |
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