阿部 慶太(フランシスコ会)

 過去に何度かこの紙面で報告してきましたが、今年7月、大阪市生野区の『生野オモニハッキョ』(母親学校の意味)は25周年を迎えます。この25周年は、在日韓国人(以下「在日」)への識字活動と多くの在日外国人の居住する地域での諸活動の歩みでもあります。日本初の在日のための識字活動であるオモニハッキョの四半世紀と地域活動の関連などについて報告したいと思います。


 1977年7月、大阪市生野区桃谷の日本基督教団聖和教会で、オモニハッキョの前身である『生野識字学校』が始まりました。この開設の発端は、同年の春に生野地域問題懇談会で、在日一世のオモニから、「生野区内に文字を学ぶ場がないため、字を学ぶことのできない人がたくさんいる」という問題提起がなされたことによります。直ちに、数人のオモニと10人ほどのスタッフが、大阪聖和教会の礼拝堂を教室にして授業を始めました。その後、口コミでオモニの数は増え、教室が足りないほどになり、最盛期にはオモニ80人以上、スタッフも30人以上の大所帯になりました。
 しかし、その活動が在日社会やマスコミなどから評価と注目を集め、多方面から人々が関わることによって、その運営や方針を巡る意見などの違いから、スタッフ間の対立がオモニを巻き込むようになり、ハッキョの存続そのものが脅かされた時代もありました。時代的にも、指紋押捺制度反対運動や民族差別に反対する運動が激しく、それらの運動に関わる人も多かったので、そうした対立が起こったのも当然だといえます。当時から生野の地域に多くの活動家や人材が集まり、そうした人材の中から地域活動に転じる人も出たのには、こうした背景があります。
 この間オモニの数は減少し、10人ほどのオモニと数人のスタッフだけとなりました。その中で、再び原点にもどって文字を学ぶ活動が再開され、10周年のころには十数名のボランティアと40人前後のオモニが学ぶ場へと再興されました。
 20周年の1997年当時は、48人のオモニと20人前後のボランティアが生野や他の区から参加し、25周年を迎える現在も、ほぼ同数のメンバーで活動しています。


 オモニハッキョが生野区で担ってきたものは、識字活動としての役割です。生野区は人口約15万人のうち4万人以上の在日が居住しています。1990年代の資料によると、15歳以上の未就学者の比率が高く、その多くが在日の女性です。
 在日一世・二世の50~80代のオモニは、日本に強制連行その他の理由で定住した後、教育を受ける機会がなく、生活に追われ今日に至ったり、義務教育制度の導入後も民族差別を受けて不登校を続けたり、貧困のために就学できなかったというケースが多いようです。文字を学ぶきっかけは個々に違いがあるものの、字を学ぶチャンスが訪れたのが高齢になってからというオモニが全体の2/3を占めています。残りの1/3はニューカマー(新しく来た)のオモニで、97年前後から年々増加しています。これらのオモニの場合、在日との結婚などで韓国から日本にきて定住する人もいますが、日本語主体の在日社会で不便を感じ、在日社会に溶けこむために教室に来ています。
また、仕事が終わってから教室に駆けつけるオモニが多いのも特徴です。中には、80代の働くオモニもいます。
 女性に読み書きできない人が多いのは、過去の母国の儒教思想の影響もあります。「女に学問は必要ない」という理由で父親が学校に行かせてくれなかったというオモニも多く、97年以降増えてきた、結婚などで韓国から来たオモニが、母国で義務教育を修了して、新たに日本語を学んでいるケースとは異なります。
 さて、オモニたちは文字を読み書きできないことから、電車・バスの利用、病院、役所での手続きなど、不自由どころか精神的なプレッシャーや悔しささえ感じてきましたが、文字を学ぶことを通じて、行動範囲や視野の広がりと共に、自分の気持ちを文字で表現できる喜びも獲得してきました。また、オモニハッキョのスタッフは、オモニたちを通名(日本名)ではなく本名で呼ぶようにしているため、学ぶことはもちろん本名で過ごす時間も、自分を取り戻すことにつながっているといえます。
 また、ここで学ぶオモニたちには、想像を絶する力強さや、つらい過去から文字の獲得を通して解放されてゆく様子を見ることができます。オモニたちは強制連行されて、あるいは連行された両親を追って日本にきた後、祖国や名前、家族を失い、日本名で生活していても日本人と同じ権利のないまま余生を送らなければならない人が多いのです。普通、それだけ多くのものを失っている時点で絶望するでしょうが、オモニたちは自分たちを侵略した国の言葉を学び、残りの人生のために努力しています。たくましさを感じると共に、頭が下がります。
 また、文字を学ぶことを通して、さらに働きが広がるオモニもいます。たとえば、文字を学ぶ以前は参加を遠慮していた民団(大韓民国居留民団)の活動に参加し、役員をするまでになったり、民族教育促進協議会の集会に参加したり、指紋押捺裁判への支援など、文字を学ぶことが抑圧された立場の人々の立ち上がりにもつながっています。
 「識字は人間解放に向けた唯一の手段ではないがあらゆる社会変革にとっての基本的条件である」というペルセポリス宣言(1975年)のように、識字活動としてのオモニハッキョは生野の地域社会を変えてゆく役割の一端を担いました。
 1977年、聖和教会の礼拝堂で、数人のオモニとスタッフで始まったオモニハッキョは地域に定着し、これを受けて京都、川崎などの在日が多く居住する地域に、次々とオモニハッキョが誕生していったのです。(次号に続く)