J. マシア(上智大学教授)
 科学雑誌『サイエンス』1999年12月10日号は、ゲノム(遺伝子の総体)がきわめて小さい寄生菌(遺伝子数470個)を用いた実験についての記事を掲載した。実験にあたった科学者たちは、生命ではない化学物質を生命へと変える試みの一つとして、実験体から生命に必須でない遺伝子をノックアウト(破壊)していく実験をした。翌日の新聞は、この実験を大衆受けする表現で紹介しようと、「生命のレシピ(作り方)」という見出しを使った。

 マスコミが科学者の報告を引用して、実験室で新たな形態の生命を創造する可能性についてニュースを流すとき、二つの極端な反応がみられる。一方では、こう主張する人々がいる。「我々は神を演ずるべきではない。自然をみだりにいじる権利は、我々にはない」。他方では、こう主張する人々もいる。「こうした実験が進めば、宗教の出番はなくなるだろう」
 どちらの反応も大げさだ。たしかに、生命をDNAから切り離して語ることはできない。だが一方で、生命が単なるDNA以上の存在であることもたしかだ。私たちは「生命とは何か」という問題を、生物学的な観点だけでなく、社会・文化・心理学・倫理学・宗教の観点からも考察しなければならない。

 ところで、前述の記事にある研究プロジェクトはセレラ・ジェノミクス社のJ.クレイグ・ベンターがスポンサーとなっていた。セレラ社はここ数年、私たちが幹細胞に関する最近の議論についての記事でみてきたように、加熱するバイオ・テクノロジー研究の競争に参加してきた。実際、このシリーズで強調してきたように、巨額の金銭的利害がバイオ・テクノロジー研究とその応用に影響を及ぼしている。
 20年以上も前に米国で、遺伝子操作で生まれた石油を食べるバクテリアに特許が与えられるかどうかをめぐって、裁判があった。当時、米国カトリック司教協議会、全米教会協議会(プロテスタント)、アメリカ・シナゴーグ評議会(ユダヤ教)が共同声明を発表した。その中で、3団体は生命に関する一部の実験を認めながらも、強い警告を付している。かれらはこう述べている。

 「新たな形態の生命は、疾病を治療したり、遺伝的欠陥を直したり、油膜を飲み込んだりすることによって、人間生活を向上させる可能性を持っている。その一方で、それらは予測できない結果をもたらしたり、時には問題よりも治療法の方が悪いこともありうる。生産されるのが新しい形態の生命である場合、その利用と分配を決定するに当たって、利益よりも広い規準が適用されなければならない。新たな生命形態の実験と所有権は、社会的規制なしに進められてはならない」(『オリジンズ』1980年10月7日、98-99ページ)


 バイオ・テクノロジーが倫理的な規準のもとで進められれば、世界中の何億という人々を救うことができる。たとえば、バクテリアの遺伝子を操作して糖尿病患者のためにインスリンを生産させたり、農作物の遺伝子を改変して病害虫や気候変動に対する抵抗力を強めたり、といったことだ。
 人工生命は将来、人間生活を向上させる新たなステップとなりうる。だが、以下の3つの問題-安全性、公正、文化-にきちんと答えずに、楽観的すぎる見方をとることはできない。
①人間生活に対する安全性をどのように確保し、リスクをどのように避けるか。
②バイオ・テクノロジー研究による生産物を、市場のワナに陥ることなく公正に分配するためには、どうしたらよいか。
③このような進展(生命を一つの商品とみなす傾向も含めて)は、私たちの生命観や世界観にどのような影響を与えるだろうか。