柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)  

 4月15日からフィリピンのマニラで、グローバル化を研究するイエズス会の国際ネットワークの会議が開かれ、当センターからも安藤勇所長が参加する。いずれ詳しく報告するが、本号ではグローバル化の基本について考えてみたい。


 グローバルという言葉は昔から使われてきたが、今日的な意味での「グローバル化」(グローバリゼーション)が登場したのは、冷戦構造が崩壊した1990年代だ。それは、単純に言えば「ヒト・モノ・カネ・情報」が国境を越えて自由に行き来することだ。ただし、それなら第二次大戦後の多国籍企業の急増もそうだし、さらにさかのぼって16世紀の大航海時代もそうだった。近代はたしかに「国際化」(インターナショナリゼーション)の時代だった。それでは国際化とグローバル化の違いは何だろう。
  第一は自由主義市場経済の支配だ。80年代末に共産圏が崩壊し、90年代に第三世界の対外債務が激増して、西側先進国に対抗できる政治勢力は消滅した。こうしてG7(先進7カ国)サミットやIMF(国際通貨基金)/世界銀行、WTO(世界貿易機関)などが推進する自由主義市場経済が、世界で唯一の経済原理となった。
 第二はグローバル・スタンダードの出現だ。徹底した自由市場主義のもと、世界がコンピュータと情報回線でつながれ単一市場と化した今、ある分野で事実上の標準(デファクト・スタンダード)を握った企業が世界市場を支配するようになった。かくして、世界中どこでもコンピュータのOSはウィンドウズ、といったグローバル・スタンダード(世界標準)化が進んだ。
 第三は世界の均質化だ。グローバル・スタンダード化は、消費サービスを通して世界各国の生活や文化に浸透していった。世界中どこの都市でもインターネット、マクドナルド、セブンイレブン、ハリウッド映画、CNN、MTVなどの共通なサービスを享受できるようになり、若者を引きつけていった。こうして世界の文化や生活が次第に均質化してきたのだ。
 このような、市場原理によるグローバル化(コーポレート・グローバリゼーション)は、さまざまな歪みをもたらすようになった。
 たとえば、コンピュータ・ネットワークで世界の金融・株式市場が一つに結ばれたため、ある市場での暴落が瞬時に世界に拡大したり、一瞬にして巨額の損失が発生するようになったこと。
 農作物の種子や生物の遺伝子配列、新たな治療薬など、生命にかかわる人類の共通遺産にまで特許権や知的所有権が適用され、一部の企業によって独占されるようになったこと。
 メディアやコンピュータ、インターネットにアクセスできる者と、そうでない者との間に巨大な政治力・経済力の格差が生じてきたこと。
 衣食住から娯楽に至るまで、生活と文化が世界規模で均質化し、地域固有の産業や文化、価値観が崩壊しつつあること。
 極論すれば、これまでは経済取引の対象とされなかったものも含めて、あらゆるものが経済的価値の尺度で図られ、価値の低いものや効率の悪いものは消し去られるということだ。

 こうしたグローバル化の被害を最も大きく受けるのは発展途上国や体制移行国(旧共産圏諸国)だ。かれらはIMF/世界銀行から融資を受けるかわりに、自由市場経済の導入を義務づけられ、グローバル化のただなかに投げ込まれる。しかもこれら後発国は、産業基盤も人的資源も市場経済のノウハウも乏しいまま、WTOが推進する自由貿易体制の土俵で、先進国と競争しなければならない。
資本蓄積はおろか、多額の対外債務をかかえて、マイナスからの出発だ。これで、果たして自由で平等な競争といえるだろうか。
 一方で、日本は明治以来100年かけて産業化を進めてきた。その間、植民地化されることもなく、鎖国時代に蓄えてきた産業基盤や人的資源を生かして、欧米とは異なる独自の資本主義社会の発展に成功してきた(そのせいで、日本はグローバル化に乗り遅れたとの意見もあるが)。こうした日本の経済発展は、現代の発展途上国とは背景が違うので、そのまま適用できないが、発展途上国に性急にグローバル化を強要することの善し悪しを考える参考となる。

 このようなグローバル化の弊害に対して、1999年のシアトルでのWTO会議以降、世界中で反グローバル化デモが盛んに行われるようになった。IMFや世界銀行の総会、WTO閣僚会議、G7やEU(ヨーロッパ連合)のサミットなどグローバル化を主導する政府・国際機関だけでなく、グローバル化の恩恵をこうむるマイクロソフト、マクドナルド、ナイキなど個別の多国籍企業も、運動の標的とされた。
 こうしたデモには、失業に抗議する先進国の労働組合から、環境団体や消費者団体、発展途上国と連帯するNGO、途上国の農民運動、政府やIMF/世界銀行の首脳に卵をぶつける過激な活動家まで、多種多様な人々が参加している。従来は課題ごとに活動してきたNGOや市民運動が、「グローバル化の流れを変えなければ解決はあり得ない」という認識で一致しているのだ。
 時には数万人規模にのぼるこれらのデモを可能にしたのは、皮肉なことにインターネットだ。ホームページでデモを呼びかけ、eメールで情報を交換して、ヨーロッパ中から、あるいは米国中から、参加者が集まってくる。反グローバル化運動もまた、グローバル化しているのだ。

 グローバル化が推進されるとき、地域社会が衰退する。途上国の若者たちはグローバル化の波に乗って成功しようと、農村から都市へ、途上国から先進国へと脱出を試みる。マクドナルドやセブンイレブンは、地元の食堂や商店を圧倒する。中国で大量生産されるユニクロの服は日本の繊維産業を圧迫し、中国から大量に空輸される野菜は日本の農家を押しつぶす。
 だが、こうしたグローバル化の果てに、お金に換算できない文化は残っているだろうか。貧しい人々が助け合い、支え合うコミュニティは残っているだろうか。人類の果てしない成長欲に搾取され続けてきた自然は残っているだろうか。人間はもっと身近なコミュニティで、等身大の価値観をもって、自然や資源の循環サイクルのなかで生きていくべきではないか。
 こんな考え方や生き方が世界各地で実践されはじめている。ヨーロッパでは、「ファーストフード」に対抗して、伝統的な食文化を再評価する「スローフード」運動が始まっている。日本でも、非営利市民活動に融資する「市民バンク」がオープンしている。そして、特定の地域でしか通用しない独自の通貨を流通させる、「地域通貨」の試みが日本で数十、世界では3千以上の地域で行われているという。
 日本での地域通貨運動に大きな影響を与えたドイツの作家ミヒャエル・エンデによれば、現代社会の金融システムには以下の問題がある。①等価交換の手段にすぎないお金が、それ自体商品として売買されている。②資本主義下の金融システムは無限の成長を強制している。③無限の成長を前提とする金融システムと有限な自然とは調和しない。-このような金融システムは、第三世界(と先進国)の貧しい人々や自然を容赦なく搾取し続けるだろう、とエンデは語っている。
 これに対して地域通貨は、①「通貨」といっても利息を生まず、純粋にメンバー間のモノやサービスの交換手段である。②経済成長ではなくメンバーのニーズに応えることを主目的とする。③資源を投入して生産を無限に拡大させるのではなく、メンバー同士の交流やコミュニティ内資源の循環によってコミュニティの自立と強化を図る。こうしてみると、地域通貨は見事なまでにグローバル化のアンチテーゼとなっている。まだ規模も小さく、「子どもの遊び」程度にしか思われていない地域通貨の試みは、ある意味でエンデが言うように、「人類の生存を賭けた、『お金』のシステムの変革」への第一歩なのだ。


 グローバル化は後戻りできない、問題はそれとどうつきあうかだ-と言われている。だが、私たちキリスト者に求められているのは、ビジネス雑誌が書きたてるように「いかに勝ち組に入るか」ではない。「いかにして、貧困と圧迫がテロリストを生みだすことのない世界をつくるか」こそが求められている。経済だけでなく、人間的・宗教的価値観もグローバル化されなければならない。さもなければ、グローバル化は貧困と抑圧、矛盾と差別を世界規模で拡大させるだけに終わってしまうだろう。