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壱岐 太(栄光学園中高等学校教諭)
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今年の5~6月にかけて、地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL)の国際大使であるトゥン・チャンナレット氏とカンボジア・バタンバン教区のキケ司教が来日し、各地で講演を行うことになっています。私の勤務校でも全校生徒を対象としたチャンナレット氏の講演会が計画されています。 私は、今春の「カンボジア・スタディーツアー」(3月20日~28日)に参加いたしました。本来ならここでツアーの報告、感想等を述べるべきところですが、今回はお二人の訪問前に予備知識として知っておくとよさそうな事柄をまとめ、ツアーの報告にかえさせていただきたいと思います。 以下のものは、私が、自分の勤務校で行う事前学習のためにつくった教材です。チャンナレット氏やキケ司教を招く他の学校や団体で、事前学習等を行う際の参考になるかもしれません。事前に読む時間がない場合には、質問と、わくの中に書いてある答えだけを読んでいただいても概略はわかるようにしました。 ただし、にわか勉強でつくったものなので、色々と不備があるかも知れません。お気づきの点があれば、訂正やご批判の連絡をいただければ幸いです。また、各方面で教材や資料をつくる際に、一部を利用したい、手直しをして利用したいという方には、文書ファイルをお送りいたします。 |
● 〒247-0071 鎌倉市玉縄4-1-1 栄光学園 壱岐宛 又は ● f-iki@fan.hi-ho.ne.jp までご請求下さい。(word文書・一太郎文書・テキスト文書のいずれがよいかお知らせ下さい。記事の訂正やご批判も上記のいずれかにお願いします。)
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地雷は「貧者の兵器」ともよばれるとても「安い」兵器(1個3ドルから30ドル)で、また誰にでも埋められるため、途上国の反政府ゲリラでも簡単に使用できる。 地雷の爆発力はそれほど大きくなく、被害者を死亡させるよりも負傷させることを目的としている。つまり、負傷者の搬送・手当(死体は放置できても、負傷者は放置できない)のために、敵の進行を遅らせる、戦闘要員を減らす、また、敵の戦意を低下させることなどを狙った兵器である。 地雷は、兵士であれ民間人であれ、大人であれ子供であれ、その上を通る人を無差別に殺傷する。しかも、地雷は戦争中だけでなく、戦争が終わった後も半永久的に人々を殺傷し続ける。従って戦争が終わっても、その地に地雷が埋められている限り平和な生活はもどってこない。 |
地雷による被害者を出している国は、圧倒的に途上国が多い。しかし、地雷生産国は、ほとんどの場合、別の国である(アメリカ・ロシア・中国など)。他国で生産された兵器によって、戦争終了後も多くの人々が死傷し、その撤去に必要な資金も自分たちでまかなうことができず、他国の援助に頼らざるを得ないのである。 世界的な地雷廃絶運動により、地雷生産国は54カ国から14カ国に減少した。現在の地雷生産国は、アメリカ、ロシア、中国、インド、パキスタン、エジプト、イラン、イラク、キューバ、ミャンマー、韓国、北朝鮮、ベトナム、シンガポールである。これらの国々は、対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)に加入していない。 |
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カンボジアでは、約85%の人々が農村に住んでいて、全国の46.2%の村では、地雷による何らかの問題があると考えられている(シスター・デニース…Jesuit
Service Cambodia=カンボジア・イエズス会サービスの話)。戦争が終わって村に帰ってきても、地雷によって人々の生活がおびやかされ続けている。 地雷に関する知識がないため、不用意に地雷に触れてしまうケース(特に子供が多い)もあるが、地雷が埋まっているかも知れないとわかっていながら、水くみ、たきぎ取り、畑仕事など、家族の生活のため、危険を承知で地雷原に入っていく人も少なくない。 |
農村で被害を受けた人の多くは、街の病院に運ばれるまで、非常に長い時間を必要とする。病院や医師の数が少ないだけでなく、通信や道路などの整備が十分でないことが、その原因となっている。地雷を踏んでから病院に運ばれるまでの平均時間は約12時間、3日以上かかる場合が全体の16%にものぼる。従って病院に到着する前に死亡するケースも多く、特に子供は85%が病院到着前に死亡している。(ICRC=赤十字国際委員会医療データベース)また、運良く病院に到着しても、多くの場合、障害を受けた部分を切断するしか命が助かる方法が残っていないことが多い。また、細かい地雷の破片が体に食い込んで後遺症に悩まされることや、処置の遅れから、感染症にかかることも多い。 | ||||
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現在、世界の90カ国に地雷や不発弾がうまっていて、そのうち地雷は、6000万個~7000万個にものぼると考えられている。特に、アフガニスタン・インド・アンゴラ・カンボジア・ミャンマーなどでの被害が目立っている。 2000年における世界の対人地雷及び不発弾の死傷者数は、概算で2万人から1万5000人と考えられている。これは世界のどこかで約26分~35分に1人が地雷で死傷しているという計算になるが、これでも、年間2万6000人という従来の統計に比べると、かなり減少した。世界的な地雷廃絶に向けての動きが成果をあげていると言える。 現在、約100ヶ国の武器庫に約2億3000万~2億4500万個の対人地雷が蓄えられている。多い国は中国(1億1000万)、ロシア(6千万~7千万)、アメリカ(1120万)、ウクライナ(640万)、パキスタン(600万)、インド(400万~500万)、およびベラルーシ(最大約450万)である。 |
日本(自衛隊)は、従来約100万個の地雷を保有していたが、1998年9月30日にオタワ条約を批准して以来、地雷の破壊作業を続けている。(2001年3月現在、76万個が残っている)。 地雷除去作業員も被害にあっており、地雷を1000個~2000個除去するたびに1名の犠牲者が出ている(1996年 赤十字国際委員会資料)。 カンボジアでは新たに地雷が埋められることはなくなっており、除去作業も進んできたため、地雷被害者は減少傾向にある(96年には3046人の地雷及び不発弾被害者が出ていたが、99年には1049人、2000年には802人) ただし、カンボジアで最も多くの被害者を出しているバタンバン州など一部の州では、むしろ増加傾向にある。これは、この地域に埋められている地雷が多いことと同時に、難民状態であった人々が村に帰り、危険な土地で生活する人が増えたことが影響していると考えられる。 |
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カンボジアで最初に対人地雷が使われたのは、ベトナム戦争と言われている。この時、南ベトナムの解放戦線を支援するための補給路(ホーチミン・ルート)を守るため、北ベトナム軍がカンボジア領内の、ベトナムとの国境線近くに地雷を埋めた。これに対抗してアメリカ軍も、空爆を行うと同時に、大量の地雷をばらまいた。 つまり、カンボジアでは、隣国の戦争に巻き込まれ、地雷が埋められるようになったのである。 1970年、ベトナム戦争を有利に戦うため、カンボジアに親米政権をつくりたかったアメリカの支援によって、ロン・ノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク殿下(前国王・国家元首)を追放した。以後、カンボジアは内戦となり、地雷の使用はますます拡大した。 ベトナム戦争が終わりアメリカ軍が撤退すると、ロン・ノル政権は支援者を失い、1975年、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)がロン・ノル政権を倒した。クメール・ルージュは、農業を中心とした自力での国土開発を行い、極端な民族主義的共産社会の実現を目指した。都市住民の農村への強制移住や強制労働、通貨の廃止、外国文化の影響の徹底的排除など極端な政策が断行された。旧支配階級・知識人・富裕層・反対者など、わずか4年間で100万人以上が処刑された。 この結果、カンボジアでは行政経験豊富な官僚・医師・教師の大半が殺され、現在でも深刻な人材不足が問題になっている。また、親類の中に必ず処刑者がいると言われているほどのつらい経験は、国民の心に深い傷を残し、現在においても、人間同士がなかなかお互いを信頼できないという、実に悲しい現実がある。 1978年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻した。79年1月には首都プノンペンが陥落、クメール・ルージュはタイ国境付近へ撤退し、ベトナムに支援されたヘン・サムリン政権がカンボジアの大半を実効支配した。 |
以後このヘン・サムリン政権と反ベトナム三派連合(クメール・ルージュ、シアヌーク派、ソン・サン派)との内戦が続き、タイ国境には大量の難民が押し寄せた。 クメール・ルージュは撤退途中、タイ国境線上に膨大な数の地雷を埋め、ベトナムもクメール・ルージュの反攻を阻止するため、海岸地帯からタイ国境沿いに、ラオス国境付近に至る広大な地域に、「K5」と呼ばれる地雷ベルトを築いた。また、住民と反ベトナム勢力との接触を阻止するため、村の境界線や田んぼのあぜ道など、人々の生活圏にも多くの地雷を埋めた。 80年代後半になると和平へ向けて、国際社会による調停が進行し、1991にはヘン・サムリン政権と三派連合との間に「パリ和平協定」が結ばれ、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構,代表明石康)が設置された。 UNTACによって復興支援や難民の帰還が進められ、93年には総選挙が実施された(クメール・ルージュは参加せず)。シアヌーク殿下の息子であるフンシンペック党のラナリットを第一首相、ヘン・サムリン政権の人民党のフン・センを第二首相とする連立政権が発足し、シアヌーク国王を国家元首とする新生「カンボジア王国」が誕生した。 新政権誕生後も、反攻を試みるクメール・ルージュと政府軍との衝突は続き、互いの侵入を防ぐため、双方とも多くの地雷を埋めた。 1997年フン・セン派、ラナリット両派の部隊が衝突。ラナリットは解任され、連立政権は崩壊した。翌年の総選挙では人民党が勝利し、フン・センは首相に就任。 90年代後半になると、クメール・ルージュからの投降者が増え、98年にはポル・ポトが病死し、組織的抵抗はなくなった。 98年以降、新たな地雷敷設は行われていないといわれている。 |
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従来は、「新たな地雷が散布されないという条件があったとしても、全世界の地雷を撤去するためには、1100年以上もの年月を要する。」ということが、さかんに強調されていた。 HALO TRUSTは、カンボジアではあと10年くらいで主な場所での作業が完了すると考えている。もちろん、人があまり入り込まない山の奥などを含めた全ての地雷を撤去するためには、さらに多くの年月が必要である。 地雷廃絶は、千年以上もかかる実現不可能なプロジェクトではなく、資金協力等必要な支援があれば、実現可能なものである。 地雷撤去作業は、炎天下、重い防弾ベストとヘルメットをつけた作業員が、慎重に一つ一つ手作業で行う。ちょっとしたミスが死につながりかねない、危険な作業である。 地雷探知には金属探知器を用いるが、金属の使用が極端に少ないプラスチック製の地雷も多く作業は難しい。 |
また、金属探知器が、釘や金属片、土中の鉄分に反応することも多く、その度に確認が必要なため、作業には時間がかかる。 地雷はたいへん軽いものが多く、洪水が発生すると、いったん撤去された土地に再び地雷が流されていってしまうこともある。 カンボジアでは草の伸びが早く、地雷撤去作業の50%の時間を草刈りに費やしてしまう。 カンボジア政府が運営している地雷除去団体CMAC(=国立カンボジア地雷活動センター)は、海外からの支援資金の不正流用疑惑や作業の信頼性に対する疑問、政府・軍関係者や富裕者の土地を優先的に撤去するやりかたへの反発などから、海外援助資金が滞り、予算不足に陥っている。国家予算の半分を海外援助でまかなっているこの国において、残念ながら不正や汚職が恒常化している。援助資金や物資が、現場に届く前に私的に流用されることも少なくない。 |
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地雷被害者に対しては、治療・手術以外にも多くの支援が必要とされている。例えば、貧困による生活危機を解消するための食料援助や住居建設、義肢・装具や車いすの支給・調整(義肢一本の価格は100~150ドル、成人の場合は2年に1回の交換が必要)、心のケア、技能・職業訓練、経済的自立への支援プロジェクト(融資、地域共同体による相互扶助体制の確立など)、教育や栄養・衛生指導、地雷回避教育、障害者のための法律整備などやらなければいけないことは数限りなくある。これらの事業は、多くの場合、各国政府や支援団体からの資金援助に頼らざるを得ない。また、実際の現場において、政府や国際機関だけでなく、NGOが重要な役割を果たしている場合が多い。カンボジアイエズス会サービス(Jesuit Service Cambodia)でも、イエズス会員やシスター、カンボジア人スタッフ(チャンナレットさんもその1人)が協力して上記のような支援活動を展開している。 | 地雷撤去作業が終わった土地が、元の持ち主のもとにもどらず、政府・軍の高官や富裕な商人のものになってしまうことも少なくない。政府関係者や州知事がわいろの見返りに土地の権利を簡単に移してしまうという話もある。 地雷被害者が観光地で物乞いを行っているケースをよく見かけるが、政府はこのような人々を外国人の目にさらすことを好まず、農村へ強制移住させることもある。彼らの生活基盤は極めて弱いため、極度の貧困状態に陥ることが多く、NGOなどによる支援の手が差し伸べられていない村は危機的な状態となっている。 クメール・ルージュ時代に行われた大量虐殺のつらい記憶により、人を信用できなくなってしまったカンボジア人も多く、彼らに和解と協力の輪を広げるにはまだ時間がかかる。 |
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1992年、アメリカ・ヨーロッパのいくつかのNGOが集まり、「地雷の使用・生産・備蓄・移転・売却の全面禁止をうたった国際条約」を成立させるための各国の運動を結集する団体として、「地雷廃絶国際キャンペーン=International
Campaign to Ban Landmines=ICBL」が発足した。兵器をなくすことや国家間の条約を一般市民がつくらせた事は、これが初めてである。ICBLは現在、世界の70カ国、約1300の団体が参加する国際運動に発展している。日本でも、ICBLの構成団体の一つとして、1997年に「地雷廃絶日本キャンペーン=JCBL」が発足し、2001年5月現在で、55の市民団体と約400人の個人会員がこの運動を支えている。 対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)では、条約を批准した国は、発効後180日以内に国連事務総長に地雷破壊の実行計画を提出し、4年以内に貯蔵されている対人地雷を破壊し、10年以内に国内に埋められている対人地雷を破壊することが義務づけられている。オタワ条約は、1999年に発効し効力のある国際法となった。 Landmine Monitor2001によると条約批准国は119で、署名したがまだ批准していない国が22となっている。またLandmine Monitor2001のリポート以後、19の国が批准または批准に同意した。日本は、1998年、45番目に条約を批准した。 オタワ条約にはアメリカ、ロシア、中国、インドといった大国が署名も批准もしていない。また、条約には罰則規定が無く、内戦に適用することも不可能である。 |
しかし、条約批准国の増加にともない、地雷の使用や地雷犠牲者数の減少、大規模な地雷取り引きの停止、地雷除去作業や備蓄地雷破壊の進展(条約参加国のうち28カ国で破壊が完了)、各国の資金協力の増大など様々な前進が報告されている。 ICBLは、ランドマイン・モニター(Landmine Monitor)という年次報告をまとめている。これは、オタワ条約で定められている条項を、各批准国が守っているかどうかを各国のNGOが監視し、その結果や各国の地雷使用・廃絶の状況などをまとめたレポートで、冊子やインターネットで公開されている。このレポートは、条約発効から5年目の2004年まで、毎年作成されることになっている。 アメリカは条約に署名しない理由として、北朝鮮と韓国の間の軍事境界線に地雷が必要だからと言っている。アメリカは2006年までに、地雷に代わる兵器が開発できたなら条約に署名すると言っている。一方で、現在の軍事技術水準から見て、地雷は必要ないという意見もある。 アフガニスタンへの空爆でもさかんに使用されたクラスター爆弾は、地雷と同じように無差別な殺傷能力を持つ兵器として、ICBLでも問題視されている。各々のクラスター爆弾には200個余りの子弾が入っているが、約7パーセントから30パーセントは爆発せず地雷化する。また、クラスター爆弾の黄色い子弾は、アフガニスタン住民への人道支援として投下された食料パックとほぼ同じ大きさ、同じ色であった。 |
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日本は、1997年に対人地雷の生産をやめ、条約発行後、保有している地雷の破壊を進めている。(2003年2月に完了予定)。ただし、除去訓練などのため、その後も15000個の地雷を保有し続けるとしており、この数は世界で最も多い。 破壊のために使われた予算は、99年は約4億2000万円、2000年は約8億2000万円である。 在日米軍基地には、相当数の(計130万を超えると見られる)対人地雷が備蓄されている。 日本は、地雷対策活動資金として、1993~99年の間に5104万ドルを拠出した。これは、アメリカ、ノルウェー、イギリス、スウェーデン、ドイツに次ぐ額である。2000年は約1187万ドルで、そのうち地雷撤去費用が89%、犠牲者支援が10%である。 |
日本の支援は、地雷撤去が中心であるが、内容としては、ブルドーザー、車両、ポンプ、発電器、工作機械など機械類の支給も多く、これにより、受注した日本のメーカーや、仲介した商社が利益を得ている。又、立派な大型機械を送っても、現地では調整や修理ができず、放置されていることも少なくない。 カンボジアを含め援助を受けている国では、政府高官らによる支援資金・物資の横流しが恒常化しているが、援助する側の日本政府はそれらをなかば黙認し、厳密に監視する態度を取っていない。 |
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