日本教会の外国人司教
アドルフォ・ニコラス、SJ
(CTIC/東京カトリック国際センター・目黒)
1.東京カトリック国際センター
 12年ほど前に東京カトリック国際センター(CTIC)が亀戸に設置された当初の目的は、外国人の社会司牧だった。だが、何事もそうであるように、CTICの場合も、考察や長期計画、注意深いフォローアップが必要な活動よりも、緊急の直接的な活動が優先されるようになった。こうしてCTICは、生活上の問題や法律・入国手続きにまつわる問題、結婚問題など、外国人労働者の差し迫った問題を解決するために、すばらしい支援活動をおこなってきた。
 だが、外国人のコミュニティが大きくなるにつれて、長期的な司牧ケアとフォローアップの緊急性・重要性がますます明白になり、東京大司教区は新しいCTICセンターを目黒にオープンすることにした。新しいセンターの主な目的は司牧活動であり、当然ながら、これまでの一般的な活動によっては満たされないニーズにこたえなければならない。そこで私たちはトレーニング・コースの開催や典礼の刷新、拘留されている人や重病の人に対する司牧ケアなどをおこなっている。私たちは小教区の司祭や他の関係者、そして外国人信徒と対話しながら、小教区のいきいきとした司牧プログラムづくりや、外国人司牧という幅広い分野における調整役として貢献したいと考えている。また、浦和教区や横浜教区で同様の活動をおこなっている姉妹機関との連携もつよめている。
 在日外国人たちはとても忙しく、時間や移動手段をやりくりするのもむずかしいため、東京教区の地理的な広さがハンディキャップとなっている。そこで、東京教区は千葉にあらたに小規模なCTICセンターを開くことにきめた。千葉地域は東京教区のなかでも外国人労働者が多く、神父や信徒がかれらのために長年にわたってすばらしい活動をおこなってきた。あたらしいセンターは2002年4月に活動を開始する予定だ。


2.在日外国人の司牧状況
 日本で暮らす外国人の状況がいかに複雑で不安定であるかを理解するのはむずかしいことではない。外国人が日本で直面する経済的・政治的・社会的ニーズや問題、困難については多くの文章が書かれてきた。それらはよく知られているので、ここでは当然の前提として触れないことにして、いわゆる「司牧的な」状況に焦点をしぼることにする。その際、緊急性という視点を越えて、外国人の個人的な現実-すなわち家族や祖国、文化、家を「離れなければならなかった」人々、すべてを賭けて、あらたな未来を築こうという夢を追い求める、かくも多くの外国人たちの個人生活(それが一時的な出稼ぎであれ、恒常的な移民であれ)を、長期的な観点からながめてみたい。
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 第一の、そしてもっとも明白な事実は、かれらが「祖国の文化から切り離されている」という状況だ。それは、祖国でかれらが一緒に育った食べ物や祭り、伝統的なダンスを失ったというだけのことではない。文化とは「一つの共有される意味や価値のパターンであり、それはシンボルや神話、儀礼のネットワークのうちに具現される。文化は、特定の集団が生活上の困難に適応するために闘うなかから生み出される。文化はまた、秩序ある、正しい、礼儀にかなった感じ方考え方ふるまい方について、集団のメンバーを教育するものである」。一般の市民にとって、恒久的に、あるいはかなり長期間にわたって祖国の文化から離れて暮らすことは、生き方やふるまい方、隣人とのコミュニケーションの仕方を知るすべを失うという深い喪失感をかかえながら、人格的な混乱のうちに生きることである。

 多くの外国人にとって、この喪失感がいっそう深刻なのは、それが一種の「宗教的な喪失感」を伴うからだ。宗教は、かれらがもともと住んでいた土地のさまざまな文化システムに、色どりや深み、広がりを与えてきた。文化と宗教は手をたずさえて、人々やその共同体に意味を与え、意義づけや癒し、帰属感や個人的・社会的統合の源泉となってきた。このことから、人々が祖国にいたときはそれほど熱心に教会に通わなかったのに、日本にきてからは日曜のミサに熱心に参加するようになった理由が容易に理解される。それは、多くの外国人にとって精神と魂の健全さを保つきずなであり、破られることのない約束であり、あらゆる困難にも負けずに、自分の周囲をとりまく闇と混乱をうちやぶることができるという希望なのである。
 このニーズが何よりも差し迫っているのは、日本で仕事をさがしている外国人が、人間的にも社会的にも「自分の価値が低下している」と感じているからだ。日本にきた外国人の多くは、社会的な地位の喪失や極端な自己評価の低下に悩まされている。かれらが日本で得る仕事は、もともと持っていた資格や教育、能力を大幅に下回ったものである。かれらはしばしは軽んじられており、よりよい仕事、やりがいのある仕事に移れるように相談にのり、斡旋し、助ける価値もない人のように扱われることが多い。ここから、言いようのない寂しさが生まれる。すでに自分をつまらない存在と感じているかれらは、いっそう自分を卑下するようになる。かれらのうちに苦痛に満ちた不安が生まれ、自分の子どもに対してさえ、尊厳とプライドをもってふるまい、話しかけることもできなくなるのだ。


 これまで述べてきたことよりもさらに、研究し、深刻に受け止めなければならないのは、出稼ぎ(移民)が人間的・道徳的価値観に与える影響だ。ここで考えたいのは、何百万という人々に日々「生きるか死ぬか」の決断を強いるような非人間的な状況をもたらす、貧困、不安、失業、社会的・政治的不安などの圧倒的な現実だ。これらの現実が人々の心、考え方、価値観、そして信仰そのものにどんな影響を与えるかを、緊急に調査し研究しなければならない。かれらは、生き延びるために何かしようと決断するやいなや、いわゆる「詐欺的なこと」(ニセのパスポートや偽名、年齢詐称)や「不道徳なこと」(ビザをとるために結婚することや、はっきりした見通しもなく深い仲になること)とみなされる方法をとることを強いられる。
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こうした外国人に実際に会ってみると、かれらの中に純粋さやデリケートな同情・連帯感、すばらしい霊的感受性が見いだされるのは、不思議としか言いようがない。それらの美徳と、かれらがつくウソ、かれらがやってきた仕事とは、どうしても結びつかない。その間には何があるのだろう? この事実は、私たちの型にはまった見方や考え方をどんな風に変えるのだろう? 聖霊はいったいどこで、どんな風に働いているのだろう? 私たちは過去にも、聖書の時代にまでさかのぼって、こうした人々の実例をたくさん知っている。けれども、これほどまでにたくさんの(「圧倒的」といってよいほどの)実例に遭遇したことはなかった。この現実は、私たちの司牧に関する意識と仕事に何を語りかけているのだろうか?


 いかなる社会にもつきものではあるが、外国人がおかれているストレスや不安、不安定さのゆえにいっそう深刻な問題がたくさんある。そうした問題の最たるものは、結婚や家庭、教育の問題である。結婚が、人間としての成熟度や対人コミュニケーション、他の人と共に成長する能力を試す最高の試金石だとすれば、どうしてこんなに多くの国際結婚が失敗に終わるか理解しやすい。結婚や家庭生活のための人間的・文化的・社会的その他の面での準備不足。パートナーの選択や新しい家族づくりの計画、新しい共同生活づくりにおける識別の欠如。日本の文化的伝統や教育制度、日本社会のチャンスと制約などについての無知。これらの準備不足は、異文化結婚を、想像しうるもっとも困難な冒険の一つとしている。

 上記の諸点をはじめとして、他の多くのよりマイナーな(しかし、より顕在的な)問題に対する司牧的対応は、きわめて明白だ。こうした諸問題の迷路を共に歩み、助け、支え、識別してほしいという人々のニーズはきわめて大きく、教会の門とキリスト者すべての心に扉を開くよう訴えている。これらの人々を放置しておくことは、単に放置するだけでなく、あらたな「お客さん」をどん欲に取り込む「暴力的なマーケット」へと追いやることに他ならない。私がここで言いたいのは死の商人、欲望の商人、愚かさを商う商人である。かれらは人の弱さや痛みを販売戦略の対象とする。その商売の範囲は、薬物やアルコールの密売に始まり、ギャングの人集めまで、怪しげな新興宗教に人々を引っ張り込む誤った心理操作もそこに含まれるだろう。


3.日本教会が直面するチャレンジ

  こんにち、グローバル化とそれに伴う移民、難民を迎えて、日本の教会と社会全体は多くのチャレンジに直面している。最初に、私たちの日常的なものの見方や行動の仕方に対するいくつかのチャレンジを、変化/移行という言葉で短くまとめてみよう。


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 私たちが実行するようチャレンジされている第一の変化/移行とは、とりあえず善意から外国人を受け入れる一方で、小教区の活動には小さな変更を加えるだけの態度から、かれらを実際的かつ全面的に受け入れて、小教区の組織や活動を全面的に見直す態度への移行だ。
 これは第二の
変化/移行に導く。つまり、外国人が依然(しぶしぶ受け入れられるにせよ、大目に見られるにせよ、親切にされるにせよ、歓迎されるにせよ、あるいは丁重に迎えられるにせよ)「お客様」あつかいされている現状から、教会のふつうのメンバーとなり、かれら自身もその自覚をもてるような状態への移行だ。「お客様」は限られたスペースと時間、最低限の(手抜きされた)サービス・メニューしか与えられない。ふつうのメンバーはスペースと時間をフルに与えられ、教会のあらゆる活動とプログラムに参加する可能性を与えられ、責任ある仕事を任せるに足る者とみなされる。
 これはさらに大きな
変化/移行の一部分となる。つまり、外国人のコミュニティを、日本人のコミュニティと並立するものとして敬意を持って、しかし受動的に受け入れる態度から、どんな集団も疎外感を感じず、将来的には統合へと向かうよう促す、真にダイナミックな異文化間の相互作用への移行だ。
 それは同時に、善意に満ちて優しげで、ほとんど表には出さないが内心には偏見を持っているような関係から、心と心の対話へ-つまり、日本人も外国人も一緒に、より深い体験や動機を発見できるような真の対話へと
移行/変化することでもある。
 私たちはまた、入国書類や入国許可、その他の法的手続きで問題をかかえる多くの外国人たちの状況を、狭い道徳的な見方で見るのでなく、外国人がもともと暮らしていた国の困難な状況や、かれらが生き残るため、あるいは自由を守るために限られた選択肢のなかで日本に来なければならなかった背景を、広い公正な見方で見るように移行/変化しなければならない。


 そして、おそらく最も広汎な移行/変化とは、一部の例外をのぞいて基本的には日本人の信者に奉仕する日本教会のあり方から、人類全体に奉仕する日本教会へ-つまり、日本にやってきた外国人のコミュニティとして私たちの前に現れた、より広い世界に向けて開かれた教会、ともに分かち合う教会への移行だろう。
 言葉を換えれば、私たちは「役務としての教会」、すなわち信徒のニーズに応えるために、秩序正しく有能で、組織化された教会から、「預言者としての教会」、すなわち隣人とともに福音を生き、それによって今度は日本社会をあらたな人類家族の到来に導く教会へと、勇気をもってリスクの多い移行/変化を成し遂げるようにとチャレンジされているのだ。
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4.日本教会が直面するチャレンジ

 ものの見方の変化は、あらたなプログラムを伴わなければならない。このあらたなプログラムとは、ビジョンを具体化し、先に述べた移行/変化を現実に働かせるためのものである。そうしたプログラムをいくつか列挙してみたい。
 4.1 外国人・日本人を含めたすべての信者のための、総合的な司牧プログラム。このプログラムは現実のニーズと向き合い、それらのニーズを含めた状況全体に効果的に対応するものでなければならない。その例として、コミュニティづくり、生活と秘跡の相互作用と成長、信仰の育成、聖霊のもとでの生活、社会的・専門的識別などが考えられる。
くつか列挙してみたい。
 4.2 外国からやってくる信者が、数々の問題を乗り越えて、日本の教会と社会へと真に統合される日まで、三世代にわたって最善の奉仕の道を探る包括的な司牧プラン
 4.3 外国人の個人的・宗教的アイデンティティが、二つの文化にまたがっていかに発展するかについて、かれらと継続的に対話し、考察すること。
 4.4 外国人を再編成された東京教区(大司教の書簡『新しい一歩』を参照)へと真に統合すること、かれらが可能な限りいつでもどこでも、あらゆるレベルで全面的に参加できるよう迎え入れること。
 4.5 「大人のためのカトリック教理」を用いて、(日曜のミサなどで)よく練り上げた有機的な説教をおこない、日本のような近代的で多様で、自由な社会において、外国人コミュニティが成熟した信仰生活を送るための助けとすること。
 4.6 日常生活や人間関係から、より複雑な文化やコミュニティづくり、紛争解決に至るまで、幅広い技術を訓練する具体的なプログラム。
 4.7 教会を築いていくにあたり、キリスト以外にいかなるものをも究極の土台とせず、「ただ人間であるという事実」だけに基づいてコミュニティを築いていくような信徒の集まりのうちに、あらゆる民族集団を段階的に統合していくこと(たとえ、それが三世代かかるとしても)。



再びCTICについて
 ここで、改めてCTICについて述べるなら、このセンターの活動は、上記のようなチャレンジを引き受けることではない。そうしたチャレンジは全教会に向けられたものであり、小教区やその連合体など、信者の共同体が存在する場にこそ、このチャレンジに応答する責任が生ずるのだ。
 センターの活動がもっともよく機能するためには、小教区を支援して専門技術を提供し、ときには調整や協力をおこないながら、常に小教区に奉仕するような方法が必要だ。
 さらに、これまでも、そしてこれからも多くの外国人コミュニティと密接な友好・協力関係を保ちながら、積極的かつ賢明に活動している教会内外の人々と、共同で考察を続けることは、私たちの大切な任務の一つだろう。
 私たちの活動が有名になる必要はない。なぜなら、このセンターの活動にではなく、人々が実際に暮らす場にこそ、真の生活と成長があるからだ。かれらの生活を助け、貢献することこそ私たちのよろこびだ。この目的を達成するために、私たちの活動に、みなさんから人的・霊的・物的・知的支援をいただければ幸いだ。
 日本に暮らす外国人は、これからも私たちの福音の読み方にあらたな風を吹き込み、私たちの眼前に、人間生活の根本的な諸問題や、もっとも純粋な希望とよろこびの源を提示し続けるだろう。


東京、2002年1月



 
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