再生医療の光と影
J. マシア(上智大学教授)
 「臓器の修復」」とか「組織の再生」といった言葉が、最近の医療におけるキーワードとなっているが、それは同時に新たな生命倫理の問題の表れでもある。特にデリケートなのは、幹細胞を治療目的で用いる場合の問題である。幹細胞とは、自己複製するだけでなく、種々の分化した細胞をも再生させる能力を持っている細胞であり、いくつかの種類の組織や器官へと分化させることが可能だ。この幹細胞については30年以上も前から研究が進んでいたが、1998年に研究は新たな段階に入った。つまり、ヒトの胚から幹細胞をつくりだす方法が発見されたのだ。

 幹細胞を分離するためにはヒトの胚を破壊しなければならないため、ここ数年、米国では熱心な議論がたたかわされてきた。2001年8月9日、ブッシュ大統領は、胚性幹細胞研究への連邦政府の予算支出を認める決定を下したが、対象となるのは、すでに得られた幹細胞列を用いる研究に限られている。
 日本では2000年11月に国会で可決された「ヒトに関するクローン技術などの規制に関する法律」にもとづいて、2001年9月25日に文部科学省が「ヒトES細胞の樹立および使用に関する指針」を著した。その指針と一緒に出された「解説資料」には、「将来の可能性としては、患者の体細胞の核を除核卵に移植し、患者と同一の遺伝子の遺伝子構造を有するヒトクローン胚を作製しそこからヒトES細胞を樹立することにより、免疫拒絶反応のない移植医療・細胞治療を行うことも想定される」と書いてあるが、11月26日毎日新聞の夕刊で発表されたように、米国で初めてその可能性が実現した。
 教皇庁立生命アカデミーは、2000年8月25日に、幹細胞を樹立するために生きているヒトの胚を用いること、及び、幹細胞を得るためにクローン技術を用いてヒトの胚を作製することに反対する宣言を発表した。この宣言は、同じ目標を道徳的に容認できる方法で達成するために、成人幹細胞を用いるよう勧めている。(この宣言全文は、インターネットのバチカンのサイトに掲載されているほか、『神学ダイジェスト』2001年夏号に邦訳が掲載されている)
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 この新技術にはあいまいさが存在する。胚の研究と利用は、人々を助け、その苦痛を和らげることを目的としているが、その一方で、研究者や病院、製薬会社の利益追求がその原動力となっていることも確かだ。研究者が幹細胞の医学的利用法を研究するにあたって多大なインセンティブ(誘因)となっているのは、利益を追求する製薬会社に彼らの知見を売ることができるという現実だ。こうして、「エスカレート」が容易に予想される。胚細胞の供給にあたって、余剰の胚に限って利用してよいという条件は、やがて、クローン技術を用いて研究用のヒト胚細胞を作製するというところまで、許可条件が拡大されうる。
 確かに、幹細胞研究者たちが掲げる見通しは、多くの臨床的な恩恵の可能性を期待させる。だが、胚細胞の研究は、こうした恩恵を実現するための唯一の道ではない。他にもさまざまな代替案が示されてきた。たとえば、胚以外の成人幹細胞の利用である。いずれにせよ、市場の関心がどれだけのスピードで動いているかを知れば、次のような問いを避けて通ることはできない。「すばらしき新世界」へと突き進む競走に、私たちはどこでブレーキをかけるのか? 生命の商品化はどこまで進むのか?

 幹細胞研究は私たちに、初期の胚をどう位置づけるかという問題を突きつける。
この問題に対する答えは、中絶の問題と同様に、二つの極端の立場から導かれる。ある人々は、初期の胚とは単なる細胞塊に他ならない、と主張する。他の人々は、それはすでに尊厳も権利も備えた一人の人間である、と主張する。確かに厳密に言えば、初期の胚はすでに一人の人間であるとは言い難いが、それが単なる物体でも所有権の対象でもないことも、認めざるをえない。仮に5日目の胚(この子宮への着床を控えた胚を、学術的には「胚盤胞」という)が人間としての地位を得られないとしても、それは確かに一人の人間への道をたどりつつあるのであって、単なる物質的な生成物ではない。初期の胚の破壊を殺人とまでは言えないが、この破壊は一つの道徳的問題を提示する。つまり、初期の胚は、人間生命への発展途上の形態の一つであり、それが何であるかによってではなく、それが何になりうるかによって、敬意をもって扱われなければならない。


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 だが、一人の人間の生命がいつ始まるのかという問題は、本論の主な目的ではない。大切なのは、科学者や投資家が及ぼす政治的圧力の影響の下で、政府が現在、設けようとしている基準に対して、一般市民がもっと積極的に関心を持ち、情報を得ることだ。生命倫理に関する決断において、経済的な理由が及ぼす強い影響力に、制限を設ける必要がある。技術に対して過度の信頼が寄せられている一方で、連帯は十分に考慮されていない。著名な女性のカトリック倫理学者、L.S.カーヒルは、こう書いている。「バイオテクノロジーの社会的役割に関する意志決定への、より広範な市民のより注意深い参加は、医学界と経済界が結びつきを強めつつある現代において、生命を癒し、人間的なものとするという医学の伝統的な目標を保持する上で、絶対的に不可欠である」(『アメリカ』誌、2001-Ⅲ-26)
 胚の位置づけの問題に加えて、正義の問題についても考える必要があることを強調しておくことも重要だ。たとえば、誰がその研究から利益を得るのだろうか? 現在の保健医療体制において疎外されている人々は、恩恵を被るのだろうか?(米国では4640万人が健康保険に加入しておらず、基本的な保健医療を継続して受けられない状態にある。4000万人が貧困のうちに暮らしており、その5人に1人は子どもである)
 さらに、私たちの生命観や技術との関係を見直す必要がある。私たちは生命を軽んじるようになっていないだろうか? 生命の商品化に賛成するようになっていないだろうか? 新たな法による規制は、初期の人間の生命や生殖の過程そのものに対して払われるべき敬意を、(「科学的かつ合法的に」)余計に損なうだけではないか? この連載の1回目と2回目で指摘したように、初期の人間の生命も生殖の過程も、ますます商品化され、技術による管理に従わされている。7
 その上、研究者、行政と市場(株式市場や製薬会社など)-言い換えれば技術、医学、政治とビジネス-の間の関係というデリケートな問題もある。これは、日本で特に関心の的となる問題に違いない。最近、医療行為が原因で引き起こされた病気(薬害エイズやヤコブ病など)を思い出すとよい。私たちは、人間の健康を商品化しようとする企業の圧力に、屈しようとしているのか? 近年の研究の進展や発展は、「進歩」なのだろうか、それとも退歩なのだろうか?
 最後にフェミニストの学者の意見を紹介したい。S.ホランドはこう述べている。「彼らは、ES(胚性幹)細胞研究が人々の苦痛を和らげるのに役立つだろう、との見通しを述べる。誰の苦痛を? 誰を犠牲にして? そのような治療法は、豊かで保険によくカバーされている人以外には、法外な値段のものとなってしまうだろう。貧しい人々(その多くが女性だ)、有色人種の大部分はそうした治療法から閉め出される一方で、彼女たちの卵子は利益を求めて商品化されるという事態も起こりうる」(『ヒト胚性幹細胞に関する議論』83ページ)



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