柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)        
 イエズス会社会司牧センターに事務局をおく市民団体ジャパ・ベトナム(日本ベトナム民間支援グループ)は昨年、創立10周年を迎えました。その記念、というわけでもありませんが、私も昨年はじめてジャパ・ベトナムのツアーに、半分だけ参加しました。そして今年は8月3日~22日の足かけ20日間、北は中越国境から南はメコン・デルタまで、ジャパ・ベトナムの支援先18ヶ所をくまなく訪れてきました。そんな駆け足の旅で思ったことを書き連ねてみたいと思います。

 昨年は初参加ということもあって、私もお客さんの気分でのんびり過ごしました。今年は安藤神父が前半しか参加できないこともあり、スタッフとして緊張感をもって参加しました。
 そこで改めて実感したのは、ジャパ・ベトナムが10年間に築いてきたネットワークです。ベトナムは世界でも数少ない共産主義国で、外国人が自由に旅することはまだまだ困難です。まして、私たちは観光旅行ではなく、外国人がめったにこない農村や、都市のスラムばかりを訪れるのですから、普通以上の困難がついてまわります。そんなツアーを無事に進めるためには、1泊1500~2000円のなじみのホテル、時には2泊3日で数百キロも走ってくれる貸し切りのミニ・バスと運転手、3日間で6ヶ所も支援先をまわるようなハード日程を調整してくれる現地のコーディネーター、そして私たちを温かく歓迎し、食事や寝床を提供してくれる支援先の人々など、多くの人の力を借りなければなりません。
 もちろん、私たちの側にもたくさんの人の力が必要です。ジャパ・ベトナムの顔として支援先の人々から信頼を得ている安藤神父。安藤神父に負けないくらい現地の人々から親しまれ、また10年間ずっとツアーのさまざまな世話を一手に引き受けてきたスタッフの小野浩美さん。そして96年からツアーに同行して通訳を引き受けている高山親さん・竹内麟太郎さん兄弟。
 現地に駐在する人もなく、日本にさえ専従スタッフのいないジャパ・ベトナムが10年もツアーを続けられたのは、このようにたくさんの人が手弁当で協力してきたからでした。

 さて、旅のスケジュールですが、20日間にベトナムの8つの省の、合計18ヶ所を訪ねるという、大変にハードなものです。前半はハノイ、後半はホーチミンのホテルを拠点に、地方へ1泊2日ないし2泊3日で出かけます。地方への移動距離は片道150~200キロ、中越国境のカオバン省などはハノイから片道275キロ、7時間も車に乗りづめです。20日間で、車の移動距離は合計2千キロもいったでしょうか。とにかく1日の半分は車に乗っていたような気がします。運動不足でお腹もすかなくなりがちでした。
 こんなにハードなスケジュールをこなすのも、とにかく支援先の人に会いたいからです。支援の要請があれば、結局は断るにしても、できるだけ現地を見ておきたい。支援したプロジェクトは必ず翌年も訪ねて、成果を見ておきたい。当たり前のことと思われるでしょうが、毎年20件もの申請が寄せられ、年に1~2ヶ所は新しい支援先が増えていくジャパ・ベトナムの現状では、この当たり前のことも実行するのが困難なのです。20日間で18ヶ所、フリーの日が2日だけという今年のスケジュールが限界だと思います。それでも支援先の人々の笑顔が見たくて、また旅を続けるのです


 ここ数年、日本ではたいへんなベトナム・ブームです。テレビをつけると、特に若い女性向けにベトナムの食や民芸品を紹介する番組が盛んに流れます。ベトナム行きの飛行機は日本人旅行客で満員で、臨時便も飛ぶほどです。ホーチミン市内には日本人向けの雑貨屋もオープンし、日本語の通じる店が増えています。
 確かにベトナムという国は日本人になじみやすいところなのかもしれません。食事には箸を使うし、どんなごちそうでも最後にご飯がなければ終わらないところも似ています。農村の風景など、ヤシの木がなければ日本だといっても分からないかもしれません。特に、カオバンの山中で棚田を見たときは、ある種の懐かしささえ覚えました。のんびりした田舎に行けば行くほど、一昔前の日本を思わせて親近感がわきます。
 その一方で、もちろん違いも感じます。私が一番戸惑うのは交通事情。大都市の一部の道路を除いて交通信号がないのです。大量の自転車やオートバイが、車線も無視して好き勝手に往来する道路を歩行者がわたるのは、ある種の冒険といえるでしょう。地方の幹線道路では、バスやトラック、乗り合いのミニバスが、やっぱり車線を無視して派手な追い越し合いを演じています。当然、クラクションは鳴りっぱなし。ベトナムの人たちは慣れているから平気なのでしょうが、乗っている私たちが肝を冷やす場面は何度となくありました。このことだけでベトナム人の国民性を論じるつもりはありませんが、「日本からベトナムに行って一番注意することは」と聞かれたら、真っ先に「道路の渡り方」を挙げたいと思います。
 そのことと関係するかもしれませんが、ベトナムの人には「自分のことは自分で」という精神が強いように思います。支援先から寄せられる申請を見ていると、特にそのことを実感します。橋をつくるのでも学校(といっても教室が2つ3つのものです)を建てるにしても、設計図と材料の見積を送ってきて、作業は自分たちでやるから材料費だけ支援してほしいというのがほとんどです。政府があてにならないからということもあるのでしょうが、日本もちょっと前まで、何でも行政任せにせず、共同体による「まちづくり」をしていたと聞いています。
 日本の都会で便利な毎日をおくり、釘一本満足にうてなくなっている私にとって、ベトナムの人たちのたくましさは大きな刺激です。
 先ほど書いたように、ジャパ・ベトナムには年平均20件、総額5~10万ドルの申請が寄せられています。今年も、ツアーで聞き取ったかぎりでも25件、5万ドル以上の要請がありました。他方でジャパ・ベトナムの会員数は300人あまり、年間予算は300万円程度です。つまり、申請の半分は断らなければなりません。これが私たちの最大の悩みです。
 申請1件あたりの金額は以前に比べて小さくなっており、3,000~5,000ドルが大部分なのですが、その分件数が多くなり、選ぶのに苦労しています。以前から支援している場所は、それだけ親しくなっているわけですから、できるだけ支援を続けたいのですが、その一方で毎年1~2ヶ所は新たに魅力的な支援先も現れます。私はこれまで現場を見ずに、書類だけを見て支援先を決める話し合いに参加してきましたが、昨年、そして今年とツアーに参加して、現場を見れば見るほど難しさを実感しています。
 どの支援先もやりたいことはいっぱいあり、これで十分ということはありません。橋だって井戸だって、道路だって診療所だって、奨学金だってスラム住民の起業資金だって、多すぎて困ることなどありません。また、どこに支援してもお金は決してむだには使われません。どこが他より困っているとか、どこが他より信頼できるとか、見れば見るほど判断できなくなります。不謹慎ですが、申請書を一斉に宙に飛ばして、遠くにいった順に決めたいくらいです。

 一方で、支援先の自立の希望も見えています。たとえば、ゲアン省での養豚プロジェクト、ビントゥアン省での牛銀行などです。これらはいずれも、初回の支援で種豚・種牛を購入して各家庭で飼育し、子が増えるごとにそれを市場で売ったり他の家庭に分配していくというものです。
つまり、1回の支援で、村人が自助努力によって継続的に収入を得られるようになるのです。ホーチミンのストリートチルドレンを支援している方が、「農村で食べられなくなって都市に流入してくるストリートチルドレンが増えている。ジャパ・ベトナムが農村で収入向上プログラムを支援しているのはとても大切なことだ」と語っていました。人口の7~8割が農村に住むというベトナムで、農村への支援の重要性を改めて感じました。
 2度の訪問だけでは、まだまだベトナムのことを分かったとはいえません。ベトナムを大好きになったかと聞かれても、正直よく分かりません。ただ、支援先の人たちとは、また来年も会いたいと思います。そして今年の支援がどんな実を結ぶか確かめたいと思います。感傷的かもしれませんが、支援先の人たちと同じ夢を見てみたいと、旅を終えた今、心から思っています。