J. マシア(上智大学教授) | ||||
だが、私の意見では、これらの問題の背後にある大きな倫理的問題は、生命がますます単なる商品とみなされるようになっているという事実である。 |
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配偶子、特に卵母細胞が不足しているといわれる。そのため、さまざまな方法で卵子の提供が勧められている。たとえば、治療や不妊手術を無料にするかわりに予備の卵子を提供してもらう、といったことがしばしば行われる。時には、輸卵管結紮(けっさつ/妊娠しないように輸卵管を縛ること)の際に卵子を採取することもある。 だが、「不足」、「予備の」、「入札」、「売買」といった言葉の使い方に注目してみよう。こうした言葉の使い方こそがまさに、生命を単なる商品とみなす考え方を示していないだろうか? 提供者は単に自分の体の生成物を売っているのではなく、自分自身の遺伝材料を売っているのだということを考慮しなければならない。 |
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一言で言えば、子どももまた単なる商品とみなされる危険がある、ということだ。子どもとは本来、自然の生みだす奇跡であり、親は子どもをあるがままに、無条件に愛すべきだ。一人ひとりの人間が、値段がつけられないほど大切で、昔から言うように「かけがえのない」存在なのだ。この表現が現代では忘れられていないだろうか? 遺伝子や子ども、生命を金銭的価値に置き換えるのは、もう止めるべきではないだろうか? 米国で1988年に行われた調査によると、人工授精を行った医者の72%が、被提供者の指定にしたがって提供者の選別をおこなったと回答している。身長を指定した人は90%、体型が82%、知能指数が57%、運動能力などの専門能力が45%だったという(米国議会技術評価局、『米国における人工授精の実施状況:1987年度調査より』ワシントンD.C.政府印刷局、1988年、40-73ページ) もう一つ付け加えるなら、世の中には世話しなければならない孤児や、望まれずに生まれて養子縁組を待っている子どもが大勢いるのだ。本当に家庭を必要としている子どもを引き取って育てるかわりに、卵子や精子に何万ドルも支払う理由とは、いったい何なのか? 最後に二人の生命倫理学者の言葉を紹介したい。 ポール・ローリツェンはこう述べている。「ひとたび出産が性行為と切り離されてしまえば、出産というプロセスを、産出者が産出したものに権利を持つような産出行為とみなすことにもなりかねない。 |
こうした状況においては、目的を手段に優先させることが難しくなる。ある人の目標を達成するにあたって効率的であることだけが、意志決定の基準となってしまいがちだ」(「親であるとは、どれほどのことか?」『ヘイスティング・センター・レポート』20号、1990年3-4月、38-46ページ) G.C.メイレンダーはこう述べている。「我々は、子孫の『質の管理』が、子どもたちを我々がうみだす生産物としてではなく、我々自身と同じ尊厳をもった存在とみなす、人間の平等性に向けた取り組みであると言えるかどうか疑うようになる。…出産のことを単なる生殖(reproduction)とみなし、それを神の創造への協力(procreation)とはみなさないという出産観の変遷は、人間の生命についての新しい考え方へと導く。おそらくもっとも危険なのは、子どもを、それをうみだす者(親)と等しい尊厳をもった存在と考えることが困難になるかもしれないということだろう」(『身体、魂と生命倫理』ノートルダム大学出版、1995年、80-88ページ) |
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