J. マシア(上智大学教授)
 遺伝材料の他者への提供/寄贈(donation)は、少なからぬ倫理的問題を生みだした。たとえば次のようなことである。生まれてくる赤ちゃんの性質を自由に選ぶのは倫理的か? 配偶子(精子や卵子)を提供して対価を受けとるのは倫理的か?誰が生まれてくる子どもの親とみなされるべきか? 生まれてくる子どもの福祉にどんな影響がありうるか? 人体の一部(臓器など)やその生成物(血液など)に対価を払うことは倫理的に認められるか? 配偶子の提供に応じるのは経済的な動機をもった社会の貧しい人々である可能性が高いと思われるが、このように配偶子の提供が搾取的になってしまってよいのだろうか?
 だが、私の意見では、これらの問題の背後にある大きな倫理的問題は、生命がますます単なる商品とみなされるようになっているという事実である。
 米国では年間3万人を超える赤ちゃんがAID(非配偶者間人工授精)で生まれている。卵子の提供はさらに複雑で、提供者にとってリスクも多く、決して好ましいものではないが、これも以前より一般化している。英国のヒト受精・胎生局(1990年のヒト受精・胎生法に基づいて設置された組織で、新たな人工生殖技術の開発を監視し規制する)によれば、利他的な配偶子の提供は勧められるべきであり、提供者は費やした時間や不便に対する最低限の補償以上にいかなる対価も受けとるべきではない。
その理由は、対価を支払うことによって、提供者に不適切な動機(つまり金銭的な利益だけを求めるといったようなこと)を促しかねないからだ。英国では、精子の提供者には約15ポンド(約2万7千円)が支払われる。スペインでは、精子の提供者には1万ペセタ(約6,600円)、卵子の提供者には10万ペセタ(66,000円)が支払われる。
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 近年、インターネットの発達によって、ウェブ上での配偶子の売買が広まっており、提供者は誰でも参加できる市場でもっとも高い落札者に商品を売ることができる。実際、卵子や精子を売ったり「寄贈」したりすることが商売になりつつある。スーパーモデルの卵子や精子を15万ドルも出して買う人もいる。ある精子銀行では、提供者を知能指数135以上の科学者だけに限っている。健康で若い、アイビーリーグの精子提供者は、精子の「寄贈」に対して最高5万ドルまで支払われる。こうした新しい流行から、買い手の側は市場で最高の遺伝子を手に入れようと競い合い、売り手の側はもっとも高い値段で売ろうとする風潮が生まれてくる。
 配偶子、特に卵母細胞が不足しているといわれる。そのため、さまざまな方法で卵子の提供が勧められている。たとえば、治療や不妊手術を無料にするかわりに予備の卵子を提供してもらう、といったことがしばしば行われる。時には、輸卵管結紮(けっさつ/妊娠しないように輸卵管を縛ること)の際に卵子を採取することもある。
 だが、「不足」、「予備の」、「入札」、「売買」といった言葉の使い方に注目してみよう。こうした言葉の使い方こそがまさに、生命を単なる商品とみなす考え方を示していないだろうか? 提供者は単に自分の体の生成物を売っているのではなく、自分自身の遺伝材料を売っているのだということを考慮しなければならない。
 もう一つの問題はこうだ。子孫の性質を強化するために配偶子提供者を選んでもよいのだろうか? 被提供者が頭のいい、あるいは美しい提供者を選ぶことは大いにありうる。実際、より優れた性質を選ぶことはこれまでの精子提供の目的の一つであった。親の中には、より賢くて魅力的な子どもをうみだす方法を探している人もいる。移植のための臓器売買について多くの倫理的問題が議論されたように、配偶子売買の倫理についても大いに関心が寄せられてきた。もし、配偶子の購入者が結果に満足できなかったらどうなるだろう? 誰が責任をとるのか? その親は子どもにどんな態度をとるだろう? スーパーモデルの配偶子から生まれた子どもが、それほど可愛くなかったりスタイルがよくなかったとしたら、親は困るだろうか? 科学者の精子から生まれた子どもが知的障害をもっていたり、知能指数が平均を下回っていたりしたら、親は裏切られたと感じて補償を求めるだろうか? たとえ、ある人が遺伝子的に平均より賢くなる素質をもっていたとしても、実際にはそれほど賢くならない場合もあることを忘れてはならない。物を言うのは「素質」だけでなく、環境も大切なのだ。
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 一言で言えば、子どももまた単なる商品とみなされる危険がある、ということだ。子どもとは本来、自然の生みだす奇跡であり、親は子どもをあるがままに、無条件に愛すべきだ。一人ひとりの人間が、値段がつけられないほど大切で、昔から言うように「かけがえのない」存在なのだ。この表現が現代では忘れられていないだろうか? 遺伝子や子ども、生命を金銭的価値に置き換えるのは、もう止めるべきではないだろうか?
 米国で1988年に行われた調査によると、人工授精を行った医者の72%が、被提供者の指定にしたがって提供者の選別をおこなったと回答している。身長を指定した人は90%、体型が82%、知能指数が57%、運動能力などの専門能力が45%だったという(米国議会技術評価局、『米国における人工授精の実施状況:1987年度調査より』ワシントンD.C.政府印刷局、1988年、40-73ページ)
 もう一つ付け加えるなら、世の中には世話しなければならない孤児や、望まれずに生まれて養子縁組を待っている子どもが大勢いるのだ。本当に家庭を必要としている子どもを引き取って育てるかわりに、卵子や精子に何万ドルも支払う理由とは、いったい何なのか?
 最後に二人の生命倫理学者の言葉を紹介したい。
ポール・ローリツェンはこう述べている。「ひとたび出産が性行為と切り離されてしまえば、出産というプロセスを、産出者が産出したものに権利を持つような産出行為とみなすことにもなりかねない。
こうした状況においては、目的を手段に優先させることが難しくなる。ある人の目標を達成するにあたって効率的であることだけが、意志決定の基準となってしまいがちだ」(「親であるとは、どれほどのことか?」『ヘイスティング・センター・レポート』20号、1990年3-4月、38-46ページ)
 G.C.メイレンダーはこう述べている。「我々は、子孫の『質の管理』が、子どもたちを我々がうみだす生産物としてではなく、我々自身と同じ尊厳をもった存在とみなす、人間の平等性に向けた取り組みであると言えるかどうか疑うようになる。…出産のことを単なる生殖(reproduction)とみなし、それを神の創造への協力(procreation)とはみなさないという出産観の変遷は、人間の生命についての新しい考え方へと導く。おそらくもっとも危険なのは、子どもを、それをうみだす者(親)と等しい尊厳をもった存在と考えることが困難になるかもしれないということだろう」(『身体、魂と生命倫理』ノートルダム大学出版、1995年、80-88ページ)


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