「時間はコントロールできない」
川地 千代(イエズス会社会司牧センター)

 今年8月末から、私は初めてフィリピン、ミンダナオ島カガヤン・デ・オロにあるSEARSOLIN(South East Asia Rural Social Leadership Institute 東南アジア農村指導者養成所)を訪ねる機会を得た。それは、NGO活動推進センターと立正佼成会一食平和基金の主催するフィリピン研修に参加して、その内の数日間をSEARSOLINで過ごすことができたからである。研修全体の報告書は、主催者からのものを待つとして、個人的に楽しみにしていたSEARSOLINとそこでの滞在について、少し報告したいと思う。

 ミンダナオ島は、イスラム教徒の多い島であるが、キリスト教がおもに教育を通して宣教されたため、島北部のカガヤン・デ・オロのあたりは、現在カトリック教徒が比較的多い地域になっている。1940年代には、サビエル大学学長は日本軍に捕まえられ、大学やカテドラルも日本軍に利用された歴史がある。その時、道路を日本軍が作ったと言う。
 SEARSOLINは、カガヤン・デ・オロにある、イエズス会の教育機関の一つである、サビエル大学農学部の国際的な研修センターである。これは、カトリック教会の第二バチカン公会議の流れを受けて、1964年にドイツの教会からの支援を得て、アジア、アフリカ、太平洋の国々から広く学生を受け入れて始められた。授業は、月~土曜日の7ヶ月間のコースで、農村地域のリーダーを養成するようプログラムされている。学生は、農業技術や共同組合による人々の組織化などについて、様々な科目を学び、同時に現場で実習をしながら身につける。皆、共同生活をしている。すでに、2000人近い卒業生は、人的資源の開発を目指して、貧しい人たちと一緒に働いている。
 まず、SEARSOLIN副所長のラケルさんの話をもとに、SEARSOLINの理念と、どういう卒業生を育てたいのか(プロファイル)をまとめてみる。
●SEARSOLINの理念は、
人を理解する。人は神からのものであり、皆平 等という哲学がある。
土地、資源はすべて神からのものである。
働くことによって、①・②を実現して行く。
人的資源開発を、知識・技術・姿勢をもって、卒業生に各地で実践していってほしい。

●5つの“C”に表現される卒業生のあってほしい姿は、
Conscience”良心・善悪の判断力を持つ。
Competence”マネージメントや人々を組織化できる必要な能力、適性技術を身につける。
Compassion”貧しい人々への同情・あわれみ・慈悲・思いやりを持つ。
Commitment”NGOsや開発の仕事に献身・専念・コミットする。
Culture”周りのいろんな文化の中に、人は存在していることを理解する。

 今日では、人々が求めるものはもっと物質的になっていて、これら5つの“C”を求めることは一層むずかしくなっている。SEARSOLINでの7ヶ月間の研修で、物よりも自分を顧みる内に、お互いに家族・コミュニティーであることに気付いていく。これまでも、各国から学生が集い、敵対関係にある国の学生同士も、体験していく内に打ち解けることができた。
p -1-
 新しい時代の要請に沿って、社会経済やジェンダーのコースを開設した。3年毎に卒業生の総会を開き、SEARSOLINをより良くするためにどうしたらよいのかを考える。今のところ、社会開発の重要性を確認し、アジア、アフリカの中でも東チモールやミャンマーなどの新しい国からの学生受け入れに力を入れようとしている。ベトナム、カンボジア、ラオスなどでは、言葉の壁もあり、おもに卒業生を通して現地で研修をし、それをSEARSOLINが支援している。
 私たちの研修ツアー日程はかなりハードで、SEARSOLINへ着いた日は、皆疲れていた。それを知って、サビエル大学のコミュニケーション学部のトレルさんは、臨機応変にその後のSEARSOLIN学生と一緒に受ける「異文化コミュニケーション」授業の内容を考えてくれた。全員が参加して、一つの人間の輪を作ったり、様々な色の毛糸を交差させる開発教育のアクティビティをした。異文化を持つ私たちが、互いを認め合うことは難しいこと、理解し合うには忍耐が必要なこと、多様性の素晴らしいことなどを自然に気付かせてくれた。その夜は、SEARSOLINの学生たちと交流する、ご馳走とホスピタリティーいっぱいのウエルカム・パーティーが開かれた。学生たちの国籍は様々だった。ミャンマー(ビルマ)、ベトナム、トンガ、インドネシア、ラオス、カンボジア、タイ、…そして、日本からも一人の女性がいた。
 また他の機会には、前所長のレデスマ司教から平和セミナーの取り組みについてや、メルカド所長から開発の中での共同組合について、その他の講師からも話を聞くことができた
 さて、SEARSOLINからジプニーで40分くらいのところにある、ミドキワンという村を訪ねた。そこでは、SEARSOLINが住民と一緒に、農村地域開発を実践している。フィリピンでは農地改革によって、土地の分配がかなり進んでいる。そして地域住民自身がその獲得した土地を開発しようと、SEARSOLINと共に取り組んでいた。
 朝、ミドキワンに到着すると、その日は日曜日だったので、村人たちと一緒に教会でミサをした。一緒に出かけたSEARSOLIN学生の一人が司祭で、司式した。それが終わると、お互いに紹介しあって、メリエンダをした。フィリピンに行って驚いたのが、午前と午後のメリエンダの充実振りだ。もちろん、住民の誰もがそんなにメリエンダをとれないだろうが、私たちへのホスピタリティーの表われなのだ。
 その後、そのまま教会を会場にして、ラケルさんから午後の作業について、次のような説明があった。各自の畑にどんな作物を植えて、どう利用したいのかを、実際にわかりやすく箱庭のように、土を広げた上に枝などを使って、まず、畑の模型を作ってみる。次に、畑の調査、問題点、収入の見通しなどについても考えてみる。そして住民・SEARSOLIN学生・私たちが、それぞれ4つのグループに分かれてやってみることになった。
p -2-

畑のモデル作り、ミドキワンの教会で(左端ラケルさん)
 その作業に入る前に、広場で行われているバスケットボールのゲームを、是非、見に来てほしいと誘われて、観戦した。近い内にこの地域の本戦があり、色分けされたどのチームも、熱が入っていた。二人のレフェリーも毅然として格好良かったし、広場の隅で、マイクを使っての実況振りも板についたものだった。大いに楽しませてもらい、お弁当を食べ、いよいよ畑での軽作業に向かった。
 私のグループは、アルマンドさんの畑で、村の女性二人も一緒だった。初めに、畑のモデルを作ってみた。その後、アルマンドさんたちはバナナの葉っぱを上手く裂いて、苗を入れるための小さな植木鉢状のものを器用に作り出した。さっき、ラケルさんは、箱庭を作ったら、その次にはそれをスケッチして、畑の広さを調査して…と手順を説明したのだが、いきなり作業が始まってしまった。それで、日本から行った3人は、彼らとは別に、畑の広さを測ることをした。しかし、後になってみると、一緒に作業する機会を提供してくれたアルマンドさんたちと、その軽作業をただ一緒にすれば良かったなあ、と申し訳なく思った。
 10歳くらいの彼の息子さんもよく手伝って、バナナの葉っぱを取ってきて、丁度いい具合に裂いたり、苗に水をやったりしていた。働き者の父親の姿をいつも見ているのだろう。
 午後3時頃になると、にわかに暗い雲が垂れ込めてきた。今にも夕立が来そうで、大急ぎで仕事を終いにし、小走りして村の一軒まで戻ると、ざーっと強い雨が降り出した。雨宿りは3時間にも及んだ。家の前にある大きな池では、水牛が気持ち良さそうに水に浸かっていた。軒下には大勢が集まり、その家の家族や子どもたち、家畜の豚・やぎ・鶏・ひよこ、犬も、ひしめき合って雨宿りした。作業よりも、泥まみれの家畜たちでズボンは泥んこになった。
 小止みになったとき、泊まらせてもらう5家族のホスト・ファミリーの家に、3人くらいずつ分かれた。薪を使ったかまどで何種類もの料理を作って、夕食をご馳走してくれた。近所の女性も、夕食の支度を手伝っていた。後から聞くと、野菜などの食材はすべて、SEARSOLINから持参したものだった。食卓は狭いので、まず、客である私たち日本人3人と、SEARSOLIN関係者カルメンさんと家族の年長者たちの、6~7人で囲んでいただいた。美味しく、豪華な夕食でもてなしてくれた。それから、若い人たちや子どもたちが食べた。
 食後、私たちは他のホスト・ファミリー宅も互いに訪ね合った。一軒だけは、雨水で道がすっかり浸かってしまって行けなかった。真っ暗で、ぬかるんだ道を歩くとき、移動にジプニーを運転してくれたボボさんが、車から家にたどり着くまで、車のライトで照らしてくれた。
p -3-
 私たちのホストファミリーのベビーさんの家は、新しく、外にあるトイレもきれいだった。3人が横になるといっぱいになる、一部屋を私たちに空けてくれた。自分たちはそれと同じくらいの広さに、子どもたちと一緒にぎゅう詰めで寝ていた。カルメンさんとベビーさんは、入り口を入ったところの部屋で休んだ。後で聞くと、トイレのない家に泊まった人たちもいた。また、例のバスケットボール・チームの男の子たちも泊めることになった家族は、自分たちはその晩、外で寝たのだと言う。一晩中かなり強い雨が降り続いていたのに、どうやって寝たのだろう。そう言えば、私たちのところも、男性は家の中で寝てはいなかったように思う。
 翌朝には晴れ上がり、共同の水汲み場まで顔を洗いに行った。歯を磨く者、洗濯をする者、水を汲む者、とまちまちだ。また、心づくしの朝食をいただいて、次の訪問先へとジプニーで向かった。
 ミドキワンで、住民たちの生活は貧しかった。しかし、彼らの時間と溢れるホスピタリティー、笑顔、涙、楽しさ、優しさ、ご馳走、…を、たっぷりとシェアーしてもらった。

ホストファミリーのベビーさん(左上)たちと、ミドキワンで
 とても短い滞在だったので、私の目に、そのように映ったものが、果してそうなのかは疑問の余地がある。それを踏まえた上で、多様性と感じたことを、幾つか挙げてみたい。フィリピンでは想像していたより、日本人には馴染みにくい“階級”のようなものが存在しているように感じた。裕福な人々と貧しい人々の差は歴然としていた。ミンダナオ島はビサヤ語だし、ルソン島マニラはタガログ語、当然ながら言語だけではなく、生活振りもかなり多様だった。都市部と農村部も、…枚挙にいとまがない。
 また、韓国人の卒業生がシェアーしてくれたことがある。SEARSOLINでは多様な学生たちの共同生活で、最初の2ヶ月くらいはハネムーン状態で仲がいい。が、その後喧嘩が生まれる。しかし、それをポジティブに受けとめて、解決していく姿勢をSEARSOLINで育めた、と。
 フィリピンで、「時間はコントロールできない」と、考えられているのも新鮮だった。とても深い意味があるようにも思う。新たな視界が開かれた気がした。例えば、ミドキワンで、私たちはタスクに追われたのに、村人たちは、一緒にゆったりと過ごす時間を提供してくれた。
 ツアー仲間たちも、実に多様な人材で、私の財産になった。
 日本で、また日常に戻り、周りの様々なコミュニティーには、まだ私の気付いていない、異文化や多様性がいっぱいあることだろう。安易に、ことの良し悪しをつけるより、そのコミュニティーでは、何を優先させているだろうかと、まず、問いかけるようにしてみたい。  
p -END-