ヒトゲノム解読は何のため?
J. マシヤ(上智大学教授) 
  これから社会司牧通信に生命倫理についてのエッセイを連載するにあたって、シリーズのタイトルを「生命の商品化」と名づけた。「生命の商品化」とは、生命を単なる取引の対象や商品の一つへと変えている社会の流れ、つまり、生命を一定の値段で売買できる商品としか見ない風潮のことである。こうした功利主義的な生命観の背景には、先端技術が引き起こした多くの問題がある。
 生命の問題とは、教皇ヨハネ・パウロ2世がたびたび述べているように、社会的・文化的問題である。いくつかの大学のカリキュラムでは、医療倫理や経済倫理、政治倫理が、あたかも別々の教科や学問ででもあるかのように、バラバラに取り扱われている。だが実際には、この3つの分野の研究や教育は密接に結びついている。生命の問題は同時に社会経済・社会政治・社会文化の問題である。現代という技術の時代の危機とは、生命の危機であると同時に文化の危機でもある。
 その一例として、ヒト・ゲノム*の解読に関する最近の研究プロジェクトを見てみたい。

 ヒト・ゲノム・プロジェクトは多くの遺伝病の原因に関する情報を提供すると同時に、診断のための正確な遺伝子テストの実施を可能にすると期待されている。だが一方で、そうした遺伝病を治療するための治療学的方法は、それほどの進展が期待できない。もし、判断の基準が経済的なコストの問題だけであるとすれば、出生前診断をして胎児に疾病の可能性があるという否定的な結果が出た場合、妊娠中絶をするケースが増えることは明らかだろう。
 こうした経済的な功利主義からの理由に加えて、それらの判断に影響を及ぼす文化的な見方にも変化が生じている。先進工業国に暮らす多くの人々には、遺伝子工学を用いて、できるだけ「完璧な子ども」を-あるいは、フランス語で言えば「アンファン・ア・ラ・カルト」(お好みの赤ちゃん)を-持とうとする傾向も見てとれる。
 政治的問題もある。つまり、新たな技術の助けを借りて、政府の行政官が問題ある判断を下す可能性もある。たとえば、アメリカ連邦議会技術評価局は、20年ほど前に当時の最新技術の発展について、こう報告している。「遺伝子の性質を特定し改変する新しい技術は、社会制御の方法(social control、たとえば隔離対策や隔離施設)のかわりに、科学技術的な方法による制御(technological controlたとえば、遺伝子治療による操作など)によって、いくつかの優生学的目標を実現可能としている」(連邦議会、技術評価局、『我々の遺伝子地図を描く』、1988年)



 この記述はナチスの優性政策の背後にあった功利主義的な論拠を想い起こさせる。だが、ナチス以前にすでに、人々の間に優生学的なメンタリティが広まっていたことを、私たちは思い出す必要がある。実際、20世紀初頭、米国やイギリス、ドイツで優生学の大きなうねりが起こった。知能障害やアルコール依存症、てんかんなどの病気の人々を強制的に不妊手術する多くの法律が成立した。1927年、アメリカ連邦最高裁は、知能障害の人々に対する強制的な不妊手術は合憲であるという判決を下したが、その背景には功利主義的な考え方の影響がうかがわれる。こうした優生学的メンタリティは今も多くの人に残っている。日本文化にも、日本の政治家の規範にも、そうした優生学的メンタリティが存在していることに、私たちは気づいているだろうか?
 ヒト・ゲノム・プロジェクトの主要な倫理的問題の一つは、研究を推し進める原動力の背後にある「利潤追求の動機」である。実際、解読された情報によって病気の治療法を研究するのは製薬会社であり、研究者は有用性の見込めるあらゆる遺伝子情報を可能なかぎり特許出願し、製薬会社に売り込もうとするだろう。日本も、こうしたゲノム解読競争で米国やイギリスに遅れまいと必死だ。昨年、国会でさしたる議論もないままに成立した、クローン技術の利用に関する法律も、この問題と関係がある。この問題については次回に触れる。
*ゲノム/生物の遺伝子の基本セット [戻る]