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岩田 鐡夫 | ||||
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私は、当日午後5時30分に出発会場(渋谷宮下公園近くの東京都児童館)に着き、炊き出しを手伝い(?)ました。結局はなべ洗いくらいしかできなかったが、できあがった、その雑炊はとても、とてもおいしかったです。7時から集会が始まり、沖縄に向かう渋谷の仲間(野宿者)のアピールや、わざわざ大阪釜ケ崎から東京から行脚するために来た仲間のあいさつなどが続き、ようやく1泊目の大森・平和の森公園に向けて出発したのは8時30分過ぎになってしまいました。小雨が降り続いている中、車と電車組の先発隊を除くと、リーダーの「大将」と呼ばれて仲間から慕われているKさんから私まで9人が徒歩行脚(あんぎゃ)組です。今日の徒歩行脚組の隊長をつとめるのはYさん。彼は名古屋までで、その後農業に従事するそうで、野宿者のためにお米等を寄付してくれる農家に恩返ししたい気持ちからだとそっと教えてくれました(とてもやさしい気持ちなのです)。 渋谷から山手通りに抜けて目黒、五反田、大崎、品川へ、第一京浜に入り、大森の目的地に着いたたのは、午前1時過ぎ、先発隊と大田の仲間が出迎えてくれて、準備した炊き込みご飯と味噌汁を食べながら思い思いの自己紹介があった。渋谷、大田、大阪釜ケ崎の仲間に賛同グループとして「四ツ谷おにぎり仲間」もちょっぴり交流できました。私も仲間と泊らせてもらい、早朝、所用のため失礼させていただきましたが初めての野宿の体験でした。 |
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サミット前後、迎賓館も近いこの場所で、まさに野宿者の方の排除を目的としたものであると思わざるを得ませんでした。私は早速、千代田区のホームページの「区政に一言」を通して「人権侵害であるので撤去するように」申し入れました。 |
その回答がなんと「サラリーマンや学生のお弁当を食べることや散歩する人の休憩を優先する」と言わんばかりのものでした。この小さなベンチを通して「いかに底辺の人の人権が無視されているか」「このように人権を無視されている側の人々と関わると行政という権力に立ち向かわなくてはならない」ことなど大きなことに気づきました。ですから逆にこの小さな「横たわり防止板」の撤去を通して、野宿者の方の人権を大切にするように訴えていきたいと思いました。 びっくりしたのは全身、特に手足が象の皮のように酷くザラザラになり赤く爛(ただ)れてしまって、強烈に痛そうです。その後、足の裏にたまった膿が破けて飛び出してしまったほどです。肝臓からきていると本人は言っていました。 彼は、「今はお盆休みなので明けたら救急車を呼んで病院に行く」と言っていましたが、この2週間、病院へは行けませんでした。それは「お酒」が原因です。お酒を飲んでいると病院は受け付けてくれません。彼が一番良く知っていることなのです。 |
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痛いときは救急車を呼んで病院へ行こうと思うのでしょうが、痛みを我慢するため飲んでしまう悪循環なのです。もっともお酒が大好きで止められないのですが。素面(しらふ)のときに病院へ連れていこうと毎朝、ミサの前に立ち寄ると、もうすでに仲間と酒盛りです。新宿の野宿者人権センターの方にも説得してもらったのですがやはりダメでした。 彼はもう30年近くも四ツ谷周辺にいて仲間も多く、もとは腕の良い肉切り職人だったのが自慢です。気に入らないと私にも「酒代をくれないお前はもう来なくていい」などと言います。頑固で我が侭(わがまま)なのに、なぜか気になる存在で、「今日の具合はどう?」と声をかけに行かずにはいられないものがあります。そして8月26日の土曜日にはイエズス会のブラザー・シケ(私たちグループの良き理解者でアドバイザー)が私に付き合ってくれて、病院へ行くように説得してくれました。その時にはダメでしたが、翌日ブラザーから「病院へ救急車で連れていき入院させた」という連絡がありました。 「さすがブラザー・シケはすごい!」って思いました。彼には「中風の人を戸板に乗せてイエスのところに連れていく」ような熱意がありました。私たちはお酒を飲んでしまうのでダメとか、会社があるので昼間は連れていけないとかと思って、世間的な限界を感じて、なかば諦めかけていました。ブラザーの考えは「彼は病気だから病院へ連れて行く」という単純なものでした。このことを通して神様が私にホットでシンプルな信仰を呼びかけていると感じました。 |
そして寒さ厳しい冬を迎えるのはまだ早い10月末にその彼がいつも住んでいた路上で亡くなりました。新宿の簡易宿泊所生活から好きで四ツ谷に舞い戻ってきての矢先ことでした。 追悼会には大勢集まり、野宿の仲間と私たちが同じ食卓を囲み彼を偲びました。私たちの教会に一番近い場所での野宿者の路上死ではなかったでしょうか。とても悲しい出来事でしたが、これによって四ツ谷の野宿者同志や私たち訪問班、そしておにぎり作成班のコミュニティ的なものの種が生まれました。 |
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そして昨年11月18日に日比谷公園をまず実態・ニーズ調査するところまでこぎつけました。調査には16名ほどの方が参加してくれました。 その中で「野宿をしていて困ったことは辛いことは」の質問には圧倒的に食事、雨の時というのが多かったが、「さびしさ」という答えもあり、私たち一同「ドッキリ」胸に染みました。また仕事が欲しいという切実な意見も出ていました。65才以上の人も多く、生活保護の問題になると一様に面倒くさいからという否定的な答えが多かった印象でした。 しかしこの調査からすぐにパトロールという機運は生まれませんでした。ミーティングを開きながら少しづつ理解を深めてもらうつもりでした。また年末にかけてあるボランティアグループが行った東京駅パトロールに参加して、この地区は高齢化が進んでいて、しっかりした支援団体もなく、テント住まいも少なく、炊き出しや福祉の情報にも取り残されている状態でした。駅などが閉まってしまう真夜中まで、駅や「東京フォーラム」のビルにいて、その後、寒さをしのぐためにひたすら歩いたり、銀座に残飯を探しにいき、そして再び駅が開く4時に戻ってきて店が開く9時まで寝て、昼間は図書館か日比谷公園などのベンチで過ごす流浪の生活をしています。その状況を見て、日比谷・東京駅までエリアを広げることを個人的に決断しました。 |
年末年始のパトロールを東京駅も含め実施したことを機会に、強引にエリアを広げることにしました。訪問班や作成班の中でまだその時期ではないという意見も多かったのですが、この時期を逃しては日比谷・有楽町・東京駅のエリア拡大は実現しなかったことも事実であったように思います。 「あの人が可哀想なのはわかるけど、あの人のためにフツウの人が入院するベッドがないのは困るでしょ」。ちなみに「フツウの人って誰」って聞いたら「そうりゃ、ホームレスじゃないフツウの人ですよ」といわれた。とても厳しい話です。これをきっかけに野宿者の福祉行動のサポートを真剣に考えるようになりました。 私は会社勤めで平日のサポート行動はできませんが、日曜日に入院中や簡易宿泊所等に入所中の野宿者を訪問することにしました。また最近は福祉事務所に出向いて、野宿者の病院への手続きや生活保護の手続き、自立支援センターへの入所手続きのサポートに参加してくれる方も増えてきたのはうれしいことのひとつです。 |
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最初のアパートは保証人がいても高齢という理由で断られましたが、2番目に探したアパートが借りられることになりました。私が保証人になり契約も成立し、一人暮らしではありますが屋根の下で、畳の上の暮らしが始まりました。保証人の私を、金銭的な面問題、法律的な問題が起きたときにサポートしてくれるのが「もやい」の保証人提供事業なのです。 |
先日も日比谷公園にいったとき、30年もそこにいるホームレスのNさんは、「おにぎりもとてもうれしいが、毎週きてくれて話をしてくれるその気持ちがうれしい」と言っていた。そのことを聞いて私もうれしくなり勇気をいただたきました。これからも自分はなにもしてあげられないけれど、彼らと一緒にいることを大切に考えていきたいと思っています。 今は、このように、「いのち」をかけたい厳しい気持ちと「気楽に」という気持ちが交錯しています。 |
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また小さな「おにぎり」を通して、野宿者、カトリック信徒、ブラザーやシスター、学生、看護婦さん、お医者さんなど、それぞれおにぎり作成、野宿者の訪問、医療や福祉のサポートに関わっていくコミュニティができあがってきました。これは大きな恵みだと思います。
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