柴田 幸範(イエズス会社会司牧センター)
 2001年1月のヘレン・プレジャン講演会から始まったいのちの絵画展2001キャンペーンは、6月末の東京での連続イベントで山場を迎えました。それらのイベントに参加した感想を簡単にご報告したいと思います。


●いのちの絵画展
6月27日~7月4日
上智大学カトリックセンター
 死刑囚の描いた絵70点が展示されました。筆記具に制限があり、黒や赤のボールペンだけで恐ろしく細密な線画を描いた人もいます。また、紙の大きさも制限されているため、十数枚に分けて縦横1メートル以上の大作を仕上げた人もいます。テーマもキリストや聖母子、仏画といった宗教的なものから、死刑房の風景や食べ物といった日常的なものまで、さまざまです。ただ、共通しているのは、絵から立ち上る異様な迫力です。この迫力はどこから来るのでしょう。
 死刑囚の毎日は孤独で空しいものです。死刑判決が確定すると、「死刑囚の心情の安定」を理由に、面接や文通が極度に制限されます。また、判決が確定していても、実際に死刑が執行されるまでは「未決囚」扱いのため、労働してお金を稼ぐこともできません。一番恐ろしいのは、いつ死刑が執行されるか分からず、一日一日を死への恐怖と闘いながら過ごさなければならないということです。こうした想像もつかない過酷な毎日を表現するには、言葉よりも絵が雄弁なのでしょう。死刑囚の絵から立ち上る迫力とは、そうした一人独りの死刑囚の叫びではないのでしょうか。
 私はまだ、一人の死刑囚とも会ったことがありません。これからも面会するかどうか分かりません。しかし、彼らの絵がある限り、そしてその絵を見てしまった以上は、もはや彼らのことを忘れることはできないでしょう。



●新谷のり子コンサート
6月28日
幼きイエス会
 新谷のり子さんは1969年にデビューしました。永山則夫さんが連続射殺事件を起こしたのはその前年。そして1997年に永山さんから弁護士を通して新谷さんに身元引き受けの依頼がきた直後に、死刑が執行されます。こうした不思議な縁から、新谷さんはコンサートで永山さんのこと、死刑のことを語り続けています。
 死刑に限らず、新谷さんの唄には強いメッセージがあります。彼女のデビュー曲『フランシーヌの場合』は、ベトナム戦争とナイジェリア内戦に抗議して焼身自殺した女性のことを歌った唄です。『ある日の新聞に』という曲は障害者の女性が作詞したもので、障害者の息子を老親が殺害したという事件に触発されて書いた詩です。『ベイルート1982年』は中東紛争下で生きる子どもたちの唄です。そして『1969年9月3日』は死刑囚・永山則夫さんの日記の抜粋。『コンドルは飛んで行く』は、その永山さんが晩年に著書の印税をすべて捧げて支援しようとした、ペルーの貧しい子どもたちに想いを馳せた唄です。
 私は新谷さんの今回のコンサートにこんなメッセージを感じました。「人を動かすのは憎しみではなく愛の力だ。どんな人でも愛の力で生まれかわることができるのだ」。それはヘレン・プレジャンさんが語っていたのと同じことです。150名あまりの聴衆も新谷さんの力強いメッセージに励まされていたようでした。



●死刑制度を問う
-諸宗教の祈りの集い-
6月29日
 カトリック麹町(聖イグナチオ)教会仏教やキリスト教などから、180名あまりが参加した祈りの集いは、和楽器の笛の音でおごそかにはじまりました。祭壇の前には死刑囚の描いた絵が置かれ、二十数個のカップ・ローソクが輝いています。前日にヨーロッパでの死刑廃止国際会議から帰国した二人の証言者-無実の元死刑囚・免田栄さんと、弟さんを殺害されながら犯人の死刑に反対している原田正治さん-による証言は、死刑が何も解決しないどころか、憎しみを再生産することを静かに訴えていました。瞑想、歌、朗読、共同祈願、決意表明と続くプログラムを通して、死刑廃止への想いが参加者に静かに広がっていくように感じました。

 「凶悪犯罪には厳罰で応えよう!」「被害者の無念を晴らすためには死刑しかない」という世論の声は、ときに加害者ばかりか被害者やその家族のプライバシーさえ踏みにじる、無遠慮な大声です。今回の祈りの集いはそれとは正反対に、静けさのなかにも思いやりと強さを秘めたものであったと思います。

 



●シンポジウム・いのちのと死を見つめる
「死刑、その核心にとどまる」
6月30日
上智大学講堂
 カトリックセンターが主催したシンポジウムでは、最初に4人のパネリストが発題しました。渥美東洋さんは法学者の立場から、死刑の法的意味と世界の死刑廃止の流れを説明しました。原田正治さんは被害者遺族の立場から、加害者に「生きて償ってほしい」と思うに至った過程を話しました。加賀乙彦さんは精神科医として多くの死刑囚に会った経験から、死刑囚の過酷な精神状態について証言しました。映像プロデューサーの坂上香さんは、アメリカで広がっている被害者・遺族の共助組織や、コミュニティによる犯罪予防・更生運動について報告しました。それぞれの方の鋭い切り口の発題に、250人あまりの聴衆は熱心に耳を傾けていました。
 後半の議論では、「コミュニティが犯罪の予防や更生に力を発揮するようになれば、死刑は自然に消滅する」という渥美さんと、「死刑そのものが反道徳的であり、死刑をまず廃止することこそ、コミュニティが犯罪によく対抗していく出発点だ」という加賀さん・坂上さんの間で議論が沸騰しました。ただ、「犯罪抑止のためには、法律や刑罰の力以上に、コミュニティの再生が重要だ」という基本認識では一致していたように思います。ここで再び、新谷さんの(そしてプレジャンさんの)「死刑ではなく愛こそが人間を癒し、変えるのだ」というメッセージが思い出されます。

 こうして、東京での一連のイベントが終わり、予想以上に多くの人が共に死刑について考え、祈ってくださいました。しかし、世論の「凶悪犯罪には厳罰(死刑)を」という声は、逆に強くなっています。このような今こそ、「死刑によって、犯罪者のいのちを抹殺することによって、私たちの何が守られ、何が失われるのか」と、冷静に問わなければなりません。
 今年後半には、さらに各地でいのちの絵画展が開催されます。そして来年春にはプレジャンさんが再来日し、全国キャンペーンを行う計画も進んでいます。夏休みのひととき、改めてじっくりと死刑について、いのちについて考えてみたいと思っています。