イエズス会債務救済・開発事務局
ジュビリー2000(債務帳消し)キャンペーンの土台には、貧しい人々のための正義と関心の要請という確かな神学的原理があった。このような宗教的要請は、活動の動機だけでなく成果の振り返りも提供する。イエズス会債務救済・開発事務局(JDRAD)はイエズス会の諸団体と個人からなる国際的なネットワークであり、イエズス会神学的考察センター(JCTR)もそのメンバーであるが2000年の終わりにあたって、債務問題を神学的に考察する声明を作成した。

(この記事はイエズス会神学的考察センター[アフリカ・ザンビア]のJCTR BULLETIN No.47,First Quarter 2001から翻訳しました)
 「しかし、私たちはこう問わねばなりません。なぜ、債務問題解決の歩みはいまだにこれほど遅々としているのか? なぜ、こんなにも多くのためらいがあるのか? なぜ、すでに合意されているイニシアティブにさえ、必要な資金を振り向けるのが困難なのか? 優柔不断と遅延の代価を支払わされているのは貧しい人々なのです」(ヨハネ・パウロ2世、ジュビリー2000支持者への演説、ローマ、1999年9月)
 私たちJDRADは、新しい千年期の始まりこそ国際社会にとって、第三世界の債務問題という醜聞を終わらせるまたとない機会であると信じていました。他の多くの人々と同様、私たちも聖書の「ジュピリー」というビジョンに触発されていました。
 私たちは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの何百万、何千万という貧しい人々の暮らしやチャンスや尊厳が、不正で不当で不道徳な債務の返済によって、もはや犠牲にされることのない世界をめざして前進しようと訴えました。

 そして今、2000年が幕を閉じるにあたって、私たちはこれまでに実現したいくつかの前進、とりわけ、債務という静かな大虐殺をもう終わらせようという努力の中から生まれてきた、諸国民の国際的な連帯の面で実現した前進によって、励まされてきました。
 世界中のますます多くの人々が、債務がいかに多くの人々の貴重な生活をどんなに破壊しているかを知るようになり、ますます多くの人々が変革を推し進めようと仲間になりました。
 同時に、このジュビリーの年の終わりを迎えるにあたって、私たちが深い落胆で一杯であることも否定できません。国際社会のリーダーたちが約束したかくも多くの華々しい公約にもかかわらず、今日までに実現した債務削減額は、多くの人々が要求していた規模とくらべてきわめて少額にとどまっています。
 現在の債務救済枠組みであるHIPC(重債務貧困国)のもとでは、わずか11ヶ国しか債務救済を開始されておらず、これらの国々はこの救済策によっても返済額のおよそ1/3を減額されているに過ぎません。こうして、新たな千年期の最初に債務削減されるとみられていた大部分の国は、依然として債務返済義務に縛られています。
 約束されていた債務削減額と、債務返済のために今なお徴収され続けている額とのギャップは、ザンビアの惨状に悲劇的に現れています。長年待たれていたHIPC救済策は、ザンビア政府がHIPCの「恩恵」を受ける以前に支払っていた額よりも、今後数年間にわたって余計に支払わなければならないという結果に終わっているのです。
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 政界・財界のリーダーたちが、あらゆる政治・経済・宗教の違いを越えて支持されている、真に国際的な市民の運動の声を聞こうともせず、もっとも貧しい国々を債務の奴隷から解放するために適切な行動をとろうとしない、という私たちの不満は、この闘いにおける真の障害とは何なのかという問いへと向かわせます。教皇ヨハネ・パウロ2世とともに、こう問いましょう。なぜ、債務救済の歩みはこんなにも遅々として、こんなにも最小限なのでしょう?


 キリスト教信仰の観点から考察すれば、第三世界の債務という問題の意味は、「社会的罪」と名付けるとき、より正確に把握できると信じています。こんなにも資源の豊かな世界にあって、世界中に許しがたいほどの貧困を生み出し、維持し続ける第三世界の債務は、神のご意志に対する「構造的罪」です。
 キリスト教信仰はこう教えます。すなわち、イエスの神は、世界の財が全ての人々の基本的ニーズを満たすために用いられるよう望んでおられる神であること。神は私たちに、全ての人に人類家族の一員として侵しがたい平等な尊厳があることを認めるよう望んでおられること。神は、すべてのキリスト者が正義の推進の企てに参加するよう望んでおられること。
 地上の財がすべての人に行き渡るような方法で分配されていないとき、すべての人の平等な尊厳が、その尊厳を守るために最低限度必要な基本的人権をも否定するほどに否定されているとき、そして人々がより大いなる正義を求めて闘いなさいという招きを無視するとき、神が人間にかけられた夢を妨げようとする罪の力に直面しているのです。 
 私たちは、罪深くゆがんだ債務ゲームの力学を通して、罪が歴史の与えるさまざまな可能性を押しつぶしていくのを目撃しています。人的な被害や環境の変化とは一切かかわりなく、融資は絶対的に返済されねばならないという主張。国際金融機関(IFIs)が行った融資を、帳消しの対象から外して、ほとんど不可侵な融資へと祭り上げる偶像崇拝。国際的な債務ゲームの罪もない犠牲者たちに、彼ら自身に何の発言権もなく何の利益もないような債務の返済を強制するシステム。そして、融資の返済という原則は、たとえその融資がどんなに思慮を欠いて行われたものであっても、他のいかなる倫理原則にも優先するというイデオロギーなどです。
 私たちは第三世界の債務を、それが人間の生命を残酷かつ不必要に消耗させ、神のご計画を挫折させるという点において、罪深いものとみなすのです。
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 しかし、貧困の罪深さと債務の破壊性は、そこにかくも多くの人間が加担しているからこそ、はじめて「罪深い」のです。第三世界の債務は自然発生したものではありません。それは、人間が作り上げた政策の結果発生し、成長するのです。
 債務の引き起こすことが罪深いとするなら、私たちは同時に、うまくいかなかったHIPCイニシアティブのような人為的な政策や、その適用範囲の狭さと不熱心な実施状況、そして貧困削減のために効果的な債務帳消しに真剣に取り組むかわりに小手先で政策を変更する態度などのうちにも、罪の力の存在を見出さなければならないのではありませんか?
 第三世界の債務が引き起こす害について、ある個人を組織から切り離して罪を問うても、得るものは何もありません。しかし、もし、私たちが人類家族の一員として、とりわけ諸国家の市民として、ふさわしい力を持っている人々に対して債務がもたらす害悪を終わらせるよう要求するために、所属する団体や共同行動を通じて断固として取り組むなら、第三世界の債務の鎖が多くの人々の未来を縛っている呪縛を解くことができると、素直に認めなければなりません。

 構造的罪が生き続けるのは、私たちが生活のさまざまな局面で、さまざまな程度で罪に加担している(作為commisionであれ不作為ommisionであれ)からに他なりません。こうした罪への加担はおそらく、私たちがふつう罪を見出そうとする個人生活や、より内面的な生活とは違ったところで行われているのです。
 むしろ、構造的罪への加担が、国民として、市民社会の一員としての社会生活の領域で行われているからこそ、私たちの多くは、この債務問題という醜聞を終わらせるための共同作業に、いまだ十分に取り組めないでいるのです。


 イエスは私たちに、兄弟姉妹が日々十字架にかけられているときに、できる限り力を尽くそうとしないことは、罪に加担していることだと教えられます(マタイ25:31-46)。ジュビリー・キャンペーンの成果の一つは、G7(先進7ヶ国)やIFIs(国際金融機関)を集団として、債務問題の発生と継続の主要な責任をとらせようとしたことです。
 これらの組織のリーダーたちが行ってきた救済策に私たちが失望したとすれば、私たちは次のことを忘れるべきではありません。
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つまり、彼らは私たちの代表であり、彼らが不熱心な解決策しか講じようとしない原因のかなりの部分は、市民である私たちが、この債務危機を断固解決すべきものとみなすよう彼らに十分な圧力をかけてこなかったからなのです。
 私たちは、政治指導者であれ、市民であれ、現在進行している債務の状況について十分な知識を持っていないと、安易に主張することはできません。このジュビリー・キャンペーンが、債務問題が人々に及ぼす影響の本質的な事柄や、目下検討されている債務救済案が決定的に不十分であることを、人々に伝えるのに大成功した以上、私たちが無知を言い訳に自己弁護することは信頼を大幅に損なうことになります。
 あるいは、私たちは現在行われていることに対して全面的に同意していない、という理屈で無実を訴えることも、正しいこととはいえません。私たちの自由は意図的な行為のうちにだけ示されるのではなく、債務帳消しの運動に力を入れることに無関心であったり乗り気でなかったりすることも私たちの自由の表現なのです。私たちの兄弟姉妹が非常に困っているときに、その苦しみを救える立場にあるにもかかわらず、彼らの横を通り過ぎることは罪深いことなのです(ルカ10:25-37)。
 私たちは、歴史における罪の力と闘おうとしているすべての人とともに、個人的・社会的努力を結集するよう招かれていると信じています。
 世界中のかくも多くの人々に債務がもたらし続けている悲惨な現実は、私たちに罪のまさに社会的な側面を見せつけています。しかし、キリスト教的な罪の見方はまた、債務問題との闘いにおいて私たちを励ましてもいるのです。


 最後に私たちは、イエスの復活において神の恵みがすでに死に勝利しているのだから、ジュビリーも社会の分裂に勝利すると信じます。復活というほとんど想像不可能な、そして確かに予測不可能なできごとの力は、死をもたらす罪の勢力に反対の姿勢をとり続ける人々がいる限り、人類のうちで働き続けるのです。
 そうです、私たちは教皇ヨハネ・パウロ2世と共に、このジュビリーの年の終わりにあたって、「いったい、いつまで(待てばいいのか)?」という叫びに声を合わせて叫びます。同時に私たちは、私たちの共同の取り組みを刷新して、市民として、市民のネットワークとして、諸民族として、諸教会として、第三世界の債務という罪深い悲劇を終わらせるために、私たちにできることを確実に行うようつとめます。
JDRAD事務局
アイルランド、ダブリン
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