川地 千代(イエズス会社会司牧センター)
 今春3月31日~4月6日に、社会司牧センター主催のカンボジア・スタディ・ツアーに参加した。これは、教育関係者を対象に、今までに3回、毎年国内で開いてきた「ボランティア研修会」の延長で、初めての海外版である。よってこの度も、参加者のほとんどは教育関係者だった。カンボジアでの移動を考えて、参加者は9人だけで、現地ではJS(イエズス会サービス)で働いている堀内紘子さんが調整・案内・通訳をしてくれた。有意義だったのは勿論のこと、非常にタイト・スケジュールであったにもかかわらず、楽しめ、是非また訪ねたいと思えるツアーになった。経験豊かで問題意識の高い参加者、好意的に協力を惜しまぬJSスタッフによって、とても良い雰囲気でツアーは支えられたように思う。
 ツアー参加者には事前に、カンボジアと言う国の歴史や社会状況、地雷、カンボジアJSの様々な活動について、資料を読んでもらった。加えて、東京近郊の人には顔合わせを兼ねて説明会を開き、ビデオも見ながら事前学習を重ねた。

いよいよ3月31日朝、皆何やら大きな荷物をかかえて成田空港に集合。実は、カンボジアの子ども達への古着ズボンが、その大半を占めている。みかん箱で10箱はあったのを全部、手分けして運んでもらえることになったからだ。また、急な求めにもかかわらず、きれいな古着を送ってくださった方々へも、ご協力を感謝申し上げる。これから出会う各地の子ども達に届けられる。そして出発。バンコクで福岡からの参加者と合流し、乗り継いで20時前にプノンペンに到着。東京を出た時はみぞれ混じりだったのに、こちらは夜でも蒸し暑い。JSのワゴン車で、紘子さんとベトナム経由の一人の参加者、そして運転してくれるモニさんが出迎えてくれる。ホテルへ直行し、そこで軽く打ち合わせをして就寝。エアコンもお湯のシャワーも使えて快適。
シスター・デニース(左から3人目)と

4月1日は、プノンペンのJS事務所で責任者のシスター・デニースから、カンボジアの大まかな様子や、JSの色々な取り組みについて話をシスター・デニース(左から3人目)と聞く。人口の50%は15歳以下、学校があるのは46%の村だけ、学校も教師も育てる必要、5歳以下の半分は栄養不足など。そして、このJSは1980年、タイ国境でのカンボジア難民キャンプ支援に始まり、その後、人々と共にカンボジアに戻る選択をして、平和、和解、将来を実現するために活動を続けている。何をするにしてもその根源は愛で、人々と共にいることだ、ときっぱりと語る。


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トゥオル・スレンで
  それから、事務所の向かい側にある、いろんな障害を持つ子どもの家を訪問。テレビのアニメ番組を皆で食い入るように見ている。移動して、マザー・テレサの会のシスターがやっている末期のAIDSや結核患者の家を訪問。午後は、ポル・ポト時代の負の遺産で、現在、ジェノサイド(集団大虐殺)博物館になっている「TUOL SLENG(元クメール・ルージュ S-21刑務所)」を見学。元は高校の建物で、今、私達が立っているこの場で拷問・大虐殺が繰り返されたのだ。目を覆わんばかりの生々しい跡に、鉛のおもりを飲みこんだように気持ちは重くなり、打ちのめされる。
 ちょっとコーヒー・ブレイクをして、日曜日でもあり、床に座って1時間半近くかかるミサに参加。聖堂いっぱいの参加者の70%はベトナム人だと言う。

 4月2日早朝、バタンバンへ旧いプロペラ機で移動。以前はイエズス会のカンボジア地域の責任者で、昨夏からこの教区の司教になったキケさんから話を聞く。バタンバン教区の状況や、5つの優先課題について話してもらう。ゴム草履姿のキケさんに、ここから学校に通う子ども達の寮などのある敷地を案内してもらう。貧しい人々を優先しているので、司教館が建つのはいつのことになるやら。この日は、年1回の青年達のシノドス(集会)があり、教区の各地から集まった100人近い青年たちの熱気がムンムン。彼らはカトリックばかりではない。キケさんは優先課題として、自分達の文化を大切にして、まず自分のアイデンティティをしっかり持ってほしい、そして、すべての人、貧しい人に、キリストの経験・神の経験をしてほしい、と言う。つまり、歩けなかった人が歩けるようになり、貧しく教育のチャンスのなかった人が、学校や大学に行くことができれば、希望を見出せる。
タ・プーン村で、キケさん(中央の男性)と
 昼食後、私達がダンシング・ロードと名付けた、しっかりつかまっていないと振り落とされそうな赤土のデコボコ道を1時間半走ると、カトリックの人達のタ・プーン村に着く。難民キャンプから帰還し、ようやく1992年にこの辺ぴな地に、定住が許された。身振り付きの歌で迎えてくれた子ども達は、元気で屈託のない笑顔だ。カテキスタの女性がよく組織している様子で、クリスチャン・コミュニティの相互扶助が機能しているようだ。夫が逃げてしまったと言う、幼い子どもを抱えた女性は、食べていくために、毎日遠くまで魚をとりに行く。貧しく、家を建てるのにお金がない。それでその半分を共同体が用立ててくれた、など。灼熱の太陽の下、村の一軒一軒を丁寧に回るキケさんと一緒に訪ねる。人懐っこい子ども達がくっ付いて来る。電気がないので明るい内にと教会前で、すごいご馳走が振舞われる。そして再び、とても居眠りなどしていられないダンシング・ロードをひた走る。
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電気修理
 4月3日早朝、またプノンペンに戻り、JSが運営している職業訓練校「鳩のセンター」を訪問。土地などは政府のもので、役人も事務所で働いている。ミシン縫製、クメール風のマリア像や家具の木工、溶接、電気、バイクの修理、コンピューター、などがあり、それらの複数の技術を駆使して、主に地雷被災者のための車椅子が、月に80台作られている。どれも商品として売れるまでに、技術が習熟しなければならない。ほとんどが学校に行った経験がなく、コンパスで円を描くのも初めてで難しいのだと言う。他には、卒業生のフォロー・アップをする人や農村地域に出かけて、井戸・土管・道路・堤防・運河の工事、おとなの識字教育、小ローンなどを担当する人、農業指導者もいる。

ミシンの訓練
 現在、各地から集まった若い男女84人が10のコテージに分かれ、自炊しながら共同生活をして、職業訓練を受けている。訓練生のほとんどは地雷被災者で、両足を失った女性はロッキングチェアーのように背中で押してかけられるよう工夫されたミシンを、使う。昼食後、訓練生のコテージを訪ねて、楽しく交流。その後は、そこにもう少し残る者、マーケットで買物する者に分かれて過ごす。私は後者。夕食は、美しいトンレサップ・メコン川に臨む中華レストランでする。天井にはヤモリがいっぱい這う。

 4月4日、今日も早朝の飛行機で移動し、シエムレアプへ。8時に現地JSスタッフとミーティングをし、終日、4グループに分かれて、彼らの活動に同行させてもらう。農村などの地域開発や識字教育に2人、地雷被災者の村へ2人、小ローンを取扱う活動へ1人、それぞれバイクの後ろに乗って出かけ、その他はトラックに乗って、貧しい村や学校を訪ねる。
識字学校

 私が選んだのは、スレイ・モンと言うリーダーの女性に付いて、ルーラル・デベロップメントと呼ばれるグループで、もう一人の参加者と、辺ぴな地域の極貧の村人達を訪ねる。まず、昨年12月にJSによって作られたばかりの2つの村の識字学校を訪問。午前中のクラスで、前の黒板に書かれた単語を一人の子が指して読むのに合わせ、全員が大きな声で復唱して、野菜などの言葉をクメール語で覚えている。この村の先生は算数はできないそうだ。もう一つの村の先生は隣村から通っていて、各自のノート代わりの黒板に答えを書かせて算数を教えている。教師の人材もないのだ。村で文字が読めるのはたったの数人、書けるとなると僅かにその半分だそうだ。それにしてもクメール語は難しそう。狭い教室にいっぱいの子ども達は、勉強ができることで嬉しそう。
 途中、道端の草の上で昼の弁当を食べる。私は暑さのせいで半分しか食べられない。その残りをスレイ・モンが持っていくと言う。そして、貧しい村々を巡る。6~7人はいる家族を訪ねたとき、彼女は余分に買っておいたもう1個の弁当と一緒に、私の残りも手渡す。彼らは朝から何も食べていそうにない。胸が詰まる。また他の家では、お腹の大きなお母さんがいて、赤ん坊もいた。スレイ・モンは粉ミルクをバッグから取り出して、作り方を教える。井戸水とは言え、このあたりの水は30分煮沸しないと安全ではないと言う。しかし、そのために燃やす薪などない。だからお腹をこわす。それでも脱水症状のために、飲ませるしかない。何軒も何軒も訪ねる。あまりの悲惨さにカメラを向けられなくなる。子ども達に笑顔はまったくなく、栄養失調が甚だしくてお腹が出たり、髪が茶色くなった子、熱のある子、知能障害で11歳と言うのに3歳位の背丈しかない子。見るからに病気で赤い目をして、生活の苦しさをスレイ・モンに切々と訴える女性。目頭が熱くなる。居たたまれない。スレイ・モンは親身に耳を傾ける。そしてほんの少額のリエル紙幣を彼女に握らせる。したくとも仕事は何もない。季節に米の農作業に雇われればラッキーで、それ以外、朝起きてから寝るまで、ただごろごろとしているしか術がない。1日1日がサバイバルだ。子どもが何処からか、木の実を採ってきてしゃぶっている。行く先々で、小ローンの貸付や回収もやる。できることは何でもこなす。
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粉ミルクをあげるスレイ・モン(左端)
 猛暑、土煙がもうもうと立つ中、終日、バイクでしか入って行けない道を、命がけでバイクにまたがっていた上、村人達の想像を絶した貧しさを目の当たりにして言葉を失い、疲労困憊。スレイ・モンは週に5日、こうして村を回っている。脱帽だ。

 カンボジアで垣間見た、JSスタッフの取組みで、一体何が変わると言うのだろう。全体を見れば所詮、大海の一滴。しかし、その一滴でサバイブできる(生き延びられる)具体的な「その人」を私は目撃した。プノンペン、バタンバン、そしてシエムレアプで「その人」を見た。家から出掛けることのできなかった人が、義足や車椅子でぐーんと行動範囲を広げられる。ミシンや木工・バイク修理の技術を身につけることで生計が立てられる。小ローンで小さな事業が始められ、何もできないと諦めていた生活に可能性が生まれる。文字が読み書きできるようになることで仕事にありつけるかもしれない。1缶の粉ミルクで一人のその赤ちゃんが何日間か栄養を補給できる。困窮に耳を傾けることで少しは慰められ、訪ねられることで見捨てられてはいないと幾ばくかの安心を得る。
 誰でも本来持っている可能性が発揮され、少しでも自立できるようになれば、生きていく希望が持てる。将来を考えることができる。キリストが、まさに私達にしてくれたこと。
 あれから2ヶ月が経とうとしている。ツアーで体験したことは、そんなに簡単に整理できそうもない。私の脳裏に焼き付いているのは、具体的に自分の目で見た「その人」だ。とりわけ、JSスタッフとしてひたむきに働く「その人」、そして、貧困や障害で苦しみ、生き延びる「その人」だ。「その人」は、何かにつけて私に問いかけ、確かな視座に立つよう促す。

 4月5日、カンボジア最終日、アンコール・トム、アンコール・ワット、タ・プロームを見学。クメール文化の粋に圧倒され、もうひとつのカンボジアの顔を堪能。

 翌朝4月6日、成田及び福岡に無事到着。感謝。その足で学校へ向かった先生もあり。
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