今年の2月号で、安藤勇が「新しい世紀に向かって」と題する一文を寄せたところ、お二人の読者からご感想・ご意見の手紙をいただきました。簡単にご紹介したいと思います。

一人目はイエズス会のアルバレス神父です。そのご意見は、
  1. ①日本の教会は信徒を共働者として重視していないと言うが、自分の体験ではそんなことはない、
  2. 日本の教会は外国人労働者を受け入れていないと言うが、自分の知っている限りではどこでも受け入れている、
  3. NGOが唯一の希望と言うが、多くのカトリック信者が預言者的希望をあかししている。
というものです。

二人目は関東在住の信徒の方で、ご自分が通っている小教区で、司祭の投げやりな態度に信徒が深く傷ついていると訴えます。「共同体は小教区(でなければならない)となぜ思わなければならないのか」「マタイ25章31-46(あなたは私が飢えているときに食べさせ…)を具体的に生き、主日のミサで共に主の食卓を囲み、子供たちに信仰のゆずりをなし、共に奉仕の業に励む時、教会という名の建物はなくとも、立派な信仰共同体でしょう」と書いています。

 お二人の対照的な経験をされた方からのご意見を興味深く読ませていただき、日本では圧倒的に少数派のカトリック教会とはいえ、45万人近くもいれば一様ではないのだと痛感しました。


 確かに、信徒・聖職者の中には市民運動でも先頭に立って、預言者的なあかしをされている方が大勢いらっしゃいます。私たちも度々その方々と出会って力をいただいています。その一方で、今年のカリタス・ジャパンの四旬節キャンペーン資料「叫びとはなにか」で紹介されているように、日本中のすべての教会で弱い立場の人々が受け入れられているとは言い切れないし、教会の中で辛い目にあっている人がいるのも事実です。教会が完全ではないと謙虚に認めなければ、教会の「外」に向かって、社会問題でどうこう言うことはできないように思われます。

 日本のカトリック教会のあり方をいたずらに攻撃したり弁護したりするのでなく、時のしるしを福音の光に照らして読むとき、私たちに何が問われているかを考えたいと思います。
(柴田)