J. マシア(上智大学教授/神学・生命倫理)
000年2月24日の週刊文春は『19才監禁処女は<袋詰め>にされていた』という大見出しの記事を掲載し、小見出しで「これでも犯人に人権か」という背筋が寒くなるような言葉をつけ加えていた。加害者には人権がないという極端な考え方をまねく表現である。あるいはそこまでいかなくても、「加害者ばかりでなく、被害者の人権も考えよ」という理由で、加害者への重すぎる罰を正当化する考え方をまねきかねない。しかし、加害者もまた被害者であることに、われわれは気づいているであろうか。そして、加害者の死を求める被害者もまた、加害者になるということにも気づいているであろうか。本文では、聖書に基づいて加害者の概念を捉えなおした上で、死刑制度廃止に関するキリスト者の立場を確認したい。

 聖書から学ぶように、神は人の死を望まず、悪人さえも生かしたい(エゼキエル18:23-32)。人類の始まりから、人間同士の殺し合いは残念ながらあったが、その悲惨な現状を描くカインとアベルの物語(創世記4:1-16)の中で印象的なしめくくりが
ある。
殺人者として罰を受け、追放されるカインに対して「主は、彼に出会うものが、誰も彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった」(創世記4:15)と言われているのだ。
 加害者は、被害者に対する加害者であると同時に、自分自身に対する加害者でもある。わたしたちがそれに気づくなら、彼らが回心するように願い、そのための機会と時間を与えたいと望むだろうが、死刑制度はそれを不可能にする(ルカ23:34「父よ、彼らを許してください。彼らは自分が何をしているか、わかっていないからです」)。
 被害者の遺族が加害者に対して愛情を感じたりすることは無理だろうが、加害者が自分の犯した罪を認め回心するように、遺族が祈ることができるようになれば、遺族自身も癒されよう(マタイ5:44「あなたたちを迫害する者のために祈れ」)。
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 われわれの誰も傍観者ではなく、みな何らかの形で加害者である。われわれの中にも犯罪者に通じるような憎しみの根があり、心底から解放され、癒される必要がある。だが、死刑を求めることによってそれが不可能になるし、社会全体も決して憎しみの根から解放されない(マタイ13:29「毒麦を抜き集める時、それらと一緒に良い麦も引き抜いてしまうかもしれない。刈り入れまで、双方とも一緒に成長させなさい」)。

 このような聖書の教えにもとづいて、日本カトリック司教団は、ミレニアム・メッセージである『いのちへのまなざし』において次のように述べている。「ゆるし難きをゆるし合っていくことから、真の人間の輝きが現れてきます。それは、十字架を前にして弟子たちに剣を放棄することを命じ、自分を十字架に釘付けるものたちのためにゆるしを願いつつ息を引き取ったキリストが歩んだ道です。多くの人々を引き寄せ、多くの人々の心に訴える力を持ち続けるキリストの魅力は、報復ではなく、いのちを賭けてゆるしの道を選択したことにあります」(69)。
 しかし、こうした観点に至るには、人類の歴史でも、そして教会の歴史でも時間がかかった。現代では考えられないようなこと、たとえば奴隷制度や戦争、そして死刑といったことがらは、過去には時代の限界のもとで止むを得なかったとしても、今日においては「いのちを擁護する」という一貫した立場から対応しなければならないことがあきらかになってきた。
 初代教会のキリスト者たちが、死刑を拒否していたことをわすれてはならない。だが、後にキリスト教がローマ帝国から国教として認められるようになると、教会は国家から特権と保護を与えられ、国家の代弁者になってしまう。古代のアウグスティヌスや中世のトマス・アクィナスも、そして16世紀の有名な人権擁護者トマス・モアでさえも、死刑廃止まではいかず、止むを得ず死刑を認めていた。
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 ともあれ、時代とともに教会の教え、特に具体的な倫理上の問題に関する教えがより正しく理解され、見直されることがある。この点で死刑問題をめぐっての教会の立場の変化は、教義の発展を研究する上でとても興味深い。たとえば、13世紀の公文書に現在とは全く違うような意見が見られる。当時、教皇イノチェンチオ3世がバルデンスの異端者に対して謝罪文を書かせたが、その中で国家権力が死刑判決を下す権利をもっていることを認めさせようとしているのだ。幸いなことに、20世紀半ばの第二ヴァチカン公会議が促した反省が、ミレニアムを機会に教皇ヨハネ・パウロ2世が教会の過ちを謝罪するという画期的なできごととして結実した。現代、教会は福音に基づいて、ますます人権の問題と人間の尊厳に敏感になり、死刑廃止運動を積極的に支持するようになってきたのである。

 1970年代後半から80年代にかけて、各国のカトリック司教団が死刑廃止を求める発言を行った。
 1978年、ヨーロッパ各国の「カトリック正義と平和委員会」の代表者たちが、カトリック教会に「死刑制度廃止」を主張するようにと求めた。
 日本カトリック司教団は1984年に、死刑に反対して、「現代人が死刑を含めて、戦争、その他のあらゆる人権の侵害に対して、以前より敏感になっているにもかかわらず、他方でいわゆる中絶の自由化を叫ぶのは、矛盾しているように思われてなりません」と述べている(『生命、神のたまもの』)。
 1988年に米国のバーナーディン枢機卿は『生命倫理への一貫したアプローチを求めて』という文書を出し、中絶、安楽死、死刑などをとりあげるとき、一貫した物差しをもつように訴えた。この意見は10年後にやっと、教皇の回勅の言葉に反映されるようになった。現教皇ヨハネ・パウロ2世は、一人一人の命の尊厳を訴えるにあたって、キリスト者は一貫した立場から「すべての命に対して、また誰の命に対しても」尊厳を認め、意図的な中絶だけではなく、死刑や戦争や差別などにも当然反対すべきであると述べて、「殺してはならない」という掟は「あらゆる命、しかも犯罪者やよこしまな攻撃者のいのちであっても」含むとしている(『いのちの福音』57)。
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 1992年のカテキズム(「カトリック要理」2266-2267)は死刑に触れているが、その表現は物足りない。「正当な理由なく攻撃する者に対して、血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきである。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからである」(『カテキズム』2267)。
 1995年にヨハネ・パウロ2世が出した回勅『いのちの福音』のほうが、よりはっきりした立場に立っている。その中で教皇はこう述べている。「死刑に反対する世論があきらかに強まってきました。現代社会は実際のところ、犯罪者に対して更正する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさせるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてをもっています」(27)…「こうして、公権は公的秩序を守り、ひとびとの安全を確保する目的をも満たします。同時にその一方で、犯罪者に生き方を改め更正するよう動機を与え、支援を提供します」(56)。
 その後も、死刑廃止に関する教皇の発言が注目されている。1998年のクリスマス・メッセージ、1999年1月25日のメキシコでの演説、1999年1月27日の米国のセント・ルイスでの演説などで、教皇は死刑廃止を強く訴えた。
 教皇は「死刑は残酷であり、何の役にも立たないものである」とはっきり言っている(ロッセルバトーレ・ロマーノ紙、1999年1月30日)。
 さらに、教皇は1999年12月12日に、サン・ピエトロ広場でお告げの祈りに集まっていた人々にむかって、「世界の全ての指導者たちが死刑廃止に同意するよう、改めて訴えたい」と語っている。
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被害者や遺族の立場を考えよう
 だが、大事な家族を殺された遺族の思いは、加害者を憎んでもなお癒されることなく、苦しみが増すばかりではないか。現実から立ち直れず事件を悔やみ続け、加害者を憎み続ける自分に疲れ、それでも赦すことのできない苦しみは、死刑では癒されないのではなかろうか。
加害者への報復感情は当然だ
 だが、報復して一時的な満足感をあじわい、気が済んだつもりでも、はたしてそれで人間は癒されるのだろうか。加害者に回心の機会を与え、加害者が罪を認め、心から悔恨と謝罪をし、被害者や遺族が加害者を赦したとき、はじめて双方ともに根本的に癒されるのではなかろうか。
被害者や遺族が加害者に愛情を感じるのは不可能だし、加害者に謝罪の気持ちがまったくない場合もある
 「赦す」とは加害者に愛情を感じることではなく、加害者のために祈ることである。加害者自身が罪の自覚を持ち、回心するように祈り、そして、被害者や遺族を含めたわれわれ皆が、憎しみの根から解き放たれるように祈ることである。
死刑は社会秩序を守る
だが、殺人に「死刑」という殺人を加えても、社会は決して癒されない。
死刑は見せしめ、犯罪の抑止力になる
 「死刑制度の存続が犯罪抑止になるという考え方に対しては、1989年に『死刑廃止条約』を総会において採択した(日本は反対、現在も未締約)国連において、死刑が犯罪抑止になっていないという報告が繰り返し提出されています」(『いのちへのまなざし』、67;1988年国連犯罪防止規約委員会「報告書」〔邦訳『死刑の現在』日本評論社、207頁〕)

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 ヨハネ・パウロ2世『いのちの福音』 (裏辻洋二訳、 1995年)

 「27.希望のしるしとなるものについていえば、世論の多くのレベルで、一つの新しい感性が広がりつつあることをあげるべきでしょう。これは、諸民族間の軋櫟を解消する手段として勃発する戦争に対して、かつてなかった強さで反対する新しい気運の高まりであり、また、武装した侵略者たちに立ち向かうにあたり、効力はあっても『非暴力的な』手段の発見を次第に志向するようになった感性です。同じ視点に立って、死刑は、社会にとっては『合法的な防御』の一種だと見なされるにしても、死刑に反対する世論が明らかに強まってきました。現代社会は実際のところ、犯罪者に対して更正する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさせるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてを持っています。」
 56.死刑の問題は、このような文脈で考察すべきです。この問題については、教会においても社会においても、非常に制限されたやり方で適用されるべきであるとか、あるいは完全に撤廃されるべきだと要求する傾向が勢いを増しています。人間の尊厳に合致し、最終的には人間と社会に対する神の計画に一致した、正義に基づいた刑罰体系という文脈で、この問題は検討されなければなりません。社会が課す刑罰の主要な目的は、『犯罪が引き起こした無秩序を正す』ところにあります。公権は、犯罪に見合った刑罰を犯罪者に課すことによって、個人的権利と社会的権利の侵害を正さなければななりません。その際、犯罪者が自らの自由の行使を回復することが条件となります。こうして、公権は公的秩序を守り、人々の安全を確保する目的をも満たします。同時にその一方で、犯罪者に生き方を改め更正するよう動機を与え、支援を提供します。」
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