安藤 勇 s.j.  
 新しい世紀を迎えて、さまざまなお祝いが催されています。わたしたちイエズス会社会司牧センターも、今年で設立20周年を迎えます。社会司牧通信は創刊100号を迎えます。これまでの年月に出会った多くの方々を深く心に刻み、社会司牧通信の編集・発行に寛大なご協力をいただいた皆さんに、心から感謝いたします。
 過去を振り返るにもいろいろなやり方がありますが、わたしにとってこの20年は、来るべき年月のために基礎を築くのに必要な準備期間だったと思われます。今後は、当センターの信徒職員や若いイエズス会員たちが、センターの仕事をさらに発展させてくれると確信しています。
 わたしたちはセンターの仕事において、可能なかぎり専門的であると同時に、カトリックの社会問題にかんする考え方に忠実であろうとつとめてきました。最も新しいイエズス会第34総会の要請や、1997年ナポリで開かれたイエズス会社会使徒職世界会議と『イエズス会社会使徒職の特徴』、総長の最近の手紙などさまざまな文書が、わたしたちの仕事に常に指針を与えてくれました。
 この20年の間に日本や東アジアで起こったさまざまなできごとや動きも、センターの方向性に大きな影響を及ぼしました。たとえば、70年代おわりから80年代はじめにかけての何十万というボート・ピープルの流出とその苦境。日本への外国人労働者の流入と、彼らが日本で今なお受けている冷たい処遇。市民団体の広がりとネットワーク化。政界・財界の汚職と近視眼的な政治ゲーム。阪神大震災の衝撃と、若者をはじめとした多くの市民の積極的なボランティア活動。ホームレスや失業者の増大。インターネットの可能性。
 さらに大きな社会の流れとしては、アジア諸国の民主化への動きと、引き続く人権侵害。グローバル化と多国籍企業。消費社会。経済・社会の再構築(リストラクチャリング)とネットワーク社会の出現などがありました。
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 わたしも、標準からみれば「年長者」のイエズス会員となってしまったので、自分の意見を率直に披露して、自由な意見交換のきっかけをつくるのがつとめだと思います。
 最初に指摘したいのは、「変化」が求められているということです。この「変化」が、組織のリストラにとどまらず、新たなオルターナティブ(代替案)を求める社会のニーズに応えるよう促すことをめざしてはじめて、そうした変化は健全でダイナミックなものといえます。よく「変化が必要だ。人手も資金も不足しているから」という声を聞きます。日本では、「リストラ」は人員削減や営業規模の縮小、合併などを指す表現としてよく使われます。その真の目的はビジネスの利益向上です。この場合、優先されるのは大きな組織です。これは宗教組織でも共通することです。
 組織変革の動機は、人々によりよく奉仕するということでなければなりません。どんな分野の仕事をしていても、最大の関心事は、わたしたちが働いている相手、奉仕している相手であるべきであり、組織が(たとえそれがどんなに重要に思われても)最大の関心であってはなりません。
 あらためて日本におけるキリスト者の役割を考えるとき、明確なビジョンが必要です。それは何も新しく発明する必要はなくて、すでに目の前にあるのです-現代社会を福音の視点から見さえすれば。これこそ、第二バチカン公会議、とりわけ『現代世界憲章』が明らかにしている姿勢です。イエズス会をはじめ教会グループは、この立場をさらに進めています。イエズス会にとって、信仰への奉仕と正義の推進が、現代社会におけるイエズス会員のアイデンティティを包み込むキーワードとなっています。コルベンバハ総長がおっしゃっているように、「第32総会から34総会に至る間に、貧しい人々の選択はわたしたちの優先課題としてはっきりしてきました。イエズス会員の誰もそれを否定することはできません」。
 日本におけるイエズス会の、10年後、20年後のミッション-特に社会分野での-を考えるとき、以下のような要素が不可欠でしょう。


 地域教会と世界教会の新たなあり方が求められています。それは当然、信徒に焦点を合わせます。
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日本教会は、あまりに神父中心、修道者中心です。信徒は社会でプロフェッショナルとして責任を果たしているのに、教会の仕事に参加する段になると、重要な仕事やチャンスを与えられることはめったにありません。信徒は共動者ではなく、単なる雇い人とみなされています。信徒の多くは社会問題や政治問題についてのカトリック教会の豊かな教えを知りません。教会指導者がそうした教会のメッセージを公に知らせていなかったり、社会問題・政治問題について発言する自信に欠けていたりするからなのでしょう。
 日本教会について考えるとき、わたしたち自身のメンタリティも根本的に変える必要があります。日本の教会には外国人もたくさんいます。こうした状況はもはや目新しいものではなく、今後10年以上も続くに違いありません。若くて活力に満ちた外国人労働者は、日本の教会にとって恵みですが、彼らはしばしば日本で恐怖に怯えながら暮らしています。彼らの多くは物質的にも恵まれず、差別に遭っています。教会は、外国人労働者にとって避難所、心のオアシスとなっています。彼らは教会で同胞と集まり、祖国と同じやり方でミサを行うことができるのです。なのに多くの教会はいまだに外国人の受け入れを拒んだり、冷たい態度をとったり、まるで外国人をお客さんか二流の信者のように扱っています。外国人労働者は、法的地位はどうあれ、すでに8年も10年も、日本社会で暮らしているのに。
 教会のあり方にかんするもう一つの問題は、修道会同士の協力の必要性です。それはとりわけ教育分野で顕著です。社会の新たなニーズに応えるためには、キリスト教の教育事業を豊かにし、教会や日本社会に積極的に貢献できるような、修道会間の新たな協力計画が求められています。たとえば、わたしたちのセンターが取り組んでいるボランティア教育です。複数の学校が学校の外でフィールドワークする必要性を認識し、教員と生徒のためのボランティア・プログラムをつくることをめざしています。キリスト教大学は、大学の外のオープンな場で人間的・キリスト教的価値を提示することによって、日本社会に貴重な貢献ができます。たとえば経済や政治、社会のもっとも弱い立場の人々の法的権利、環境問題など、現代社会の諸問題に取り組み、明確な立場をとることによって、そうした貢献をなし得るのです。
 わたしたちのセンターでは5年前から複数のミッション・スクールに働きかけて、ボランティア精神-「他の人のための人間」(men for others)となること-に関する先生たちのワークショップを開くという、ささやかな取り組みを行ってきました。ただし、学校側から公式の支援が得られないため、ここ当分はストップしています。
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  社会活動をしていると、しばしば他のキリスト教の教派の方々と一緒に働く機会があります。ときには超教派の祈りの集いを開くこともあります。人間の尊厳の促進のため、平和のため、差別や貧困の根絶のために共に働くことは当たり前のことになっています。他の教派に属している人たちも、こうした協力に好意的です。同じような体験をされた方も多いと思います。にもかかわらず、日本社会がキリスト教に抱くイメージは、バラバラに分裂しているというイメージです。キリストがわたしたちキリスト者に求められた一致を実現するためには、まだまだ努力が必要です。結局わたしたちは同じイエス・キリストを信じ、愛し、同じ福音から力とインスピレーションを得ているのです。どうしてそんなに分裂しているのでしょう?

 わたしたちが、どんな大きさの組織であれ、その内側に閉じこもってあたりを見回していれば、自分たちの努力や働きに満足するでしょう。けれども、外にいる人々はわたしたちのことなど知らず、わたしたちは日本社会という大海の一滴にすぎません。日本のキリスト者にもっとも必要な基本姿勢とは、自らの小ささ、無力さを自覚することだと思います。
わたしたちが福音宣教を喜びをもって続けるうえでの真の力の源は、キリストご自身です。イエスご自身が選ばれた、種とパン種、地の塩と世の光というシンボルは、日本社会に対する態度を固める助けとなります。福音に埋め込まれている活力とダイナミズムは、驚くべき変革をもたらすのです。
  思うに、わたしたちは社会の傍観者であることをやめて、人々に深く根をおろし、その暮らしや問題、苦しみを理解する必要があります。社会のもっとも弱い立場にある人々は、信頼して心を打ち明けられる相手をさがしています。わたしたちキリスト者の役割は、諸問題の根を探究し、日本社会をできるだけ客観的に把握することです。キリスト教的価値はたびたび、普通の日本人がっもている成功とか競争、消費、物質的快適さといったメンタリティと真っ向から対立します。わたしたちは本当に、福音と矛盾するような価値観に「ノー」と言える方法、オルターナティブを提示しているでしょうか? わたしたちは政府の経済政策や教育政策、経済界の腐敗に対して、真の価値観を提示して、一般市民の賛同を得ようとしているでしょうか? 教会の内側では、わたしたちが奉じている価値観はとても貴重なものと思われるのですが、そのような価値観をどうすれば日本社会に移植できるでしょう? 日本のキリスト教界の側からダイナミックなリーダーシップが発揮されているでしょうか?
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もともと、各界の指導者や影響力のある人に働きかけて悪いことは一つもないのですが、「貧しい人々の選択」を行うようになって、そうした社会的・政治的働きかけの必要性がより明確になってきました。

  最後に指摘したいのは、日本社会の国際化です。21世紀のこんにち、これはきわめて重要です。ここでもまた、わたしたちは有意義な貢献をなしうるのであり、協力すべき分野も広くあります。とはいえ、わたしたちの力が貴重である一方で、きわめて限られている以上、活動の焦点を第三世界への貢献に絞る必要がますます高まってきます。今後長期にわたって、貧困の根絶が優先課題であり続けるでしょう。日本はアジアと世界において絶大な影響力を持っているのですから、日本のカトリック信徒は、アジアの発展途上国の人々によりよく貢献する上で、カトリックの信仰がどれほどインスピレーションを与えるかをよく理解する必要があります。
そこで、教会とその教育施設において大きな変革が要求されます。単に散発的にボランティア活動を行えばいいというのではなく、上記のような優先的な価値にもとづいた、体系的な取り組みが必要なのです。
 センターの設立以来の20年、多くの市民グループやNGOが生まれ育ってきました。それらの市民グループは宗教的な背景をまったく持たずに、しばしば社会のもっとも貧しい人々と一体となってきました。アジアの発展途上国で活動する団体は、貧困や人権侵害と戦ってきました。そこで働くキリスト者はきわめて少数でしたが、今後協力できる余地は十分に残されています。この暗い日本社会に希望と楽観主義をもたらすことができるのは、おそらくNGOをおいて他にありません。
 わたしたちは、そうした健全な市民グループとコンタクトをとり続けることによって、預言者たるべき道を見出し、かくして現代日本社会においてキリスト者としての義務をよりよく果たすことができるでしょう。
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