JRSアジア太平洋事務局
 JRS(イエズス会難民サービス)アジア太平洋の歴史は、

1970年代にこの地域で、すでに難民に関わっていたイエズス会員の暮らしと仕事からはじまります。

1979年までに、アフリカやアジアの膨大な難民の惨状は許しがたいまでになり、かつてない世界的な同情を呼んでいました。当時、イエズス会総長であったペドロ・アルペ師は、イエズス会はこの緊急事態に対応しなければならないと明言しました。アルペ師がイエズス会の全管区長に宛てた

1980年11月の手紙は、イエズス会難民サービス設立の土台となりました。70年代終わりから80年代はじめにかけて、アジアでは10人ほどのイエズス会員が、すでに難民キャンプで難民に直接奉仕していました。

1982年9月にMark Raperが、アジア太平洋地区におけるJRSのコーディネーターに任命されました。当初は南アジア全域もこれに含まれていましたが、後に独立した地区になりました。
 1980年のアルペ師の手紙より以前に、すでに何人かのイエズス会員が自国で難民と共に働いていました。たとえば、

1975年のインドネシアによる侵攻後、Joao FelguerasやJose Martins、Daniel Coelhoが東ティモールの人々に奉仕していました。また、すでに惜しみない献身を行っていた他の人々は、インドシナ難民の到着によって、新たな任務が課せられたのを知りました。たとえば、マカオでは、すでに中国難民への惜しみない献身でほとんど伝説的存在となっていたLuis Ruizが、ベトナム難民受け入れの仕事にも乗り出しました。他にも、香港でパートタイムで難民に奉仕していたイエズス会員もいました。 ベトナム、ラオス、カンボジアの近隣諸国に膨大な数の難民が到着しはじめると、難民の中で司牧活動にあたるイエズス会員が出てきました。難民と共に働くイエズス会員がもっとも集中したのはタイでした。

1979年の(ベトナムのカンボジア侵攻の)危機の時にタイに向かった会員がいた一方、
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  1980年に入ってから短期ボランティアの呼びかけに応えた人もいました。この時期に関わった会員の数と、そのビジョンのバラエティのゆえに、彼らはその後のJRSの成り立ちにおいてきわめて重要な役割を果たしました。 南アジアではこの時期、多くのアフガン難民がパキスタンやイランの国境の内側に定住しました。スリランカでは

1983年、ジャフナ(スリランカ北部の港湾都市)のタミール人による武力キャンペーンにシンハリ人が暴力で対抗して、多くの人々が故郷を離れることを余儀なくされました。直接的な難民の流入に悩まされる度合いが少なかった他の国々では、イエズス会員は研究や世論喚起を通して難民の世界にひきいれられました。日本の安藤勇はコミュニティ教育に携わり、(上智大学の)アジア関係研究室を通じて、難民の惨状へと日本市民の関心を集めました。
インドネシアでは、インドネシア・カトリック教会の東ティモール難民への世話をコーディネートする役割を負っていたHardaputranta神父が、インドネシア司教団の社会調査・開発研究所を通じて、インドシナ難民に最初から関わっていました。オーストラリアのイエズス会員たちは、Mark Raperが率いるアジアン・ビューロー・オーストラリア(ABA)によって難民への関心を呼び起こされ、鼓舞されました。


 1981年8月6日、バンコクで、アルペ神父とタイ国内の全イエズス会員(タイ国内のイエズス会員も、外国から難民に奉仕するためにやってきた会員も)の間で話し合いがもたれました。この会合はまさに時宜にかなったものでした。というのも、この話し合いから、タイでイエズス会員が難民と共に働くための広範な枠組みが生まれたのです。
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 また、この話し合いでは、より大きな問題の多くが未解決のまま残されました。この会合で、アルペ神父はすでに行われている仕事を賞賛し、そうした仕事を何らかの形で続けていかなければならないという参加者たちの願いを強く支持しました。アルペ神父は、変化の激しい政治環境で仕事をすることのデリケートさや、難民への関わりがすでに手薄になっているタイのイエズス会コミュニティに課す多くの要求を、よく理解していました。アルペ師は、難民と働くイエズス会員は、他の人々-とりわけ非キリスト教グループと協力しなければならないと述べました。アルペ神父は、イエズス会員がイデオロギー的な偏見から非難される危険を承知していましたが、そうした危険を価値ある試みにつきものの代価の一つとして受け入れました。この会合の後、タイにおけるイエズス会の難民への関わりは組織化され、拡大しはじめました。
 1980年代に入って、ボート・ピープルの惨状は悪化する一方でした。ベトナム、ラオス、カンボジアから脱出する難民の数は膨大な数にふくれ上がりました。
それと共にJRSの活動も、タイやマレーシア、香港、インドネシア、フィリピンのキャンプへと広がりました。多くのプロジェクトは教育や職業訓練、司牧的養成、保健衛生に関するものでした。
 バンコクにJRSアジア太平洋の事務所が設立された次の時代は、組織強化の時代でした。この時代の幕引きとして、1989年の終わりにTom SteinbuglerがMark Raperの後任のJRSアジア太平洋地域ディレクターに任命されました。MarkはDieter Scholzの後任として、ローマの(JRS本部の)ディレクターに選ばれていました。JRSアジア太平洋はこの時期もなお、スリランカとインドの難民と共に働いていました。その他の場所では、1989年の終わり頃、パキスタンのアフガニスタン難民への小規模な関わりが、Irie DuaneとLizzie Finnertyによって行われていました。1989年11月の、タイ・カチォエングサオでの会合は、おそらくJRSの将来の進路を指し示すものだったでしょう。この会合をもってMark Raperはローマに行ってDieter Scholzの後任に就き、Tom SteinbuglerがJRSアジア太平洋のディレクターに就任しました。
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 1990年代が始まる頃には、JRSの活動はきわめて多くのプログラムと多くの人員を抱えていました。JRSは、このアジア太平洋地域中で拡大していた多くの難民キャンプのすべてに展開していた、おそらく唯一のNGOだったでしょう。この頃までに、ベトナム難民にシェルター(一時庇護施設)や再定住地を提供していた各国政府は、新規到着者に期限日を定め、難民と難民でない者とを区別するスクリーニング(選別)プロセスを設けて、難民危機を終わらせようと決めました(包括的行動計画)。スクリーニングでふるい落とされた避難民は本国送還されることになりました。この時期、JRSは、本国送還されることになった多くの難民グループに、どのようにすれば最善の仕方で寄り添うことができるかを識別しなければなりませんでした。包括的行動計画によって引き起こされた不安やニーズは、カウンセリングや専門家による法律相談の必要をもたらしました。そこで、1990年から、JRSは法律・社会心理相談のプログラムをはじめました。多くの若手法律家が、時間と専門知識を捧げて難民を助けました。
同時期に、ベトナムに帰還した人々の状況をモニタリングするプログラムがホーチミン市ではじまりした。
 カンボジアでは、カンボジア難民が1993年に帰還する以前から、JRSプログラムがはじまりました。カンボジアでのプログラムは、キャンプでの長年に渡る経験、特に地雷被害者を含む身体障害者との仕事での経験を土台にたてられました。カンボジアでの仕事は、痛切に求められる国民和解に奉仕するものと考えられました。
 スクリーニング・プロセスが終了し、ベトナム人避難民が本国送還されたり再定住すると、Tom Steinbuglerは1994年はじめに、Quentin Dignamに地域ディレクターを引き継ぎました。Quentinはインドシナ難民のキャンプが閉鎖されると、JRSのインドシナ難民向けプログラムの規模縮小とJRSワーカーの撤退を推し進めました。カンボジアにおけるJRSの活動は明らかに、難民に限られた関わりというよりは開発に関わる活動であったので、1995年に活動の責任がJRSからイエズス会サービス・カンボジアとイエズス会東アジア・アシステンシーに移されました。1993年には、Vincent Mooken神父がJRS南アジア地区の初代ディレクターに任命されましたが、ネパールのブータン難民向けのJRSプログラムは引き続き、1997年末までJRSアジア太平洋の責任で行われました。
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  1980年代から90年代を通じて、ビルマから投獄や拷問、死の危険を逃れて難民が流出しました。1988年には、7千人もの学生がビルマを逃れてタイに避難したり、少数民族が実質的に支配している地域にキャンプを設営したりしました。2000年には、タイ・ビルマ国境の難民キャンプで暮らすビルマ難民は12万人を超えています。ビルマ国内で、ビルマ軍事独裁政権のせいで故郷を追われたり、あるいは近隣諸国で不法移民労働者として不安定な生活を送っている人が何十万人もいます。
 1997年1月、Quentin Dignamの後を継いでSteve Curtinが地域ディレクターに就任しました。Steveは、タイに避難しているビルマ難民向けのJRSプログラムを強化するためにQuentinが行ってきた仕事を引き継ぎました。2000年の現在、私たちの地域を見回すと、多くの国が全体主義を脱却して、より大いなる自由化と民主主義へと発展していく上でのさまざまな段階にあるわけですが、その代価は高くついたし、前進速度が恐ろしく遅い国もあります。2000年にはインドネシアと東ティモールで新たに大量の避難民が発生しており、JRSアジア太平洋は両国で新たなプログラムを続けています。
  2001年1月1日からは、インドネシア管区のAndre Sugijipranotoが地域ディレクターを引き継いで、中国、北朝鮮、韓国、日本、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ビルマ、マレーシア、インドネシア、東ティモール、オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、ミクロネシア、その他の太平洋諸島国家を含むアジア太平洋地区にやってくる難民のために、イエズス会の関心をプロジェクトへと形作る責任を担います。


 JRSは、アジア太平洋地区での難民の暮らしに触れるにあたって、多くのワーカーやイエズス会員、友人や寄付者の皆さんの技能や資源を利用させていただけることに、心から感謝しています。地区ディレクターは次々と変わりますが、難民や、彼らとバンコクの事務所で、スアンプルやプノンペンその他の場所で長く関わってきた友人(のスタッフやワーカー)こそ、JRSアジア太平洋の主人公たちです。
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 おそらく、この短いJRSアジア太平洋の物語を閉じるにあたって、JRSと共に働いている最中に亡くなったワーカーの幾人かを想い起こすことはふさわしいでしょう。1985年11月、バンコクに事務所が移って間もなく、Neil Callahanが亡くなりました。彼はパナ・ニコムにいたときから具合がよくなかったのですが、米国に戻ったときには末期の病気と診断され、長い苦痛に満ちた闘病生活の後に、ついに亡くなったのです。
 1988年はじめ、Surimart Chalernsook(Look Nut)が亡くなりました。彼女はJRSの事務所に勤めていた間、JRSワーカーのために四六時中、うむことなく献身しつづけました。後に彼女は、国境沿いの難民キャンプでの奉仕に豊かな喜びを見いだしはじめていました。しかし、彼女はチョンブリの道路で、突然の交通事故にあって亡くなりました。翌年のはじめ、Bill Yeomensも、短い闘病生活の後に亡くなりました。
 Ma Yee Yee HtunはJRSワーカーではなく難民で、1989年にJRSバンコク・チームのメンバーの心にとても深い印象を残しました。Yee Yeeはビルマ国境で発病し、バンコクのJRS事務所で看病された後に、1990年1月、29歳で亡くなりました。1992年、Sr. Carmelita Hannan RSJが、JRSで働くためにタイに到着してすぐに具合が悪くなりました。彼女はメルボルンに戻ってすぐにガンで亡くなりました。
 1996年、Richie Fernando SJが26歳で亡くなりました。プノンペン近郊の、イエズス会サービスが運営する身障者の職業訓練校で、一人の生徒が投げた手榴弾で亡くなったのです。1999年9月11日には、JRS東ティモールのディレクター、Karl Albrecht神父がディリで殺されました。9月6日には、同じ東ティモールのスアイで起きた虐殺で、Dewanto神父が殺されました。彼は司祭に叙階されたばかりで、スアイの教区司祭を助けて、教会に逃げ場を求めた何千という人々の世話をするために派遣されたのです。
 彼らの死はどれも悲しむべきものです。同時に、彼らの死は、難民生活とはどんなものかを痛切に思い知らせてくれました。彼らの死は、難民の生活を分かち合うようにという招きとして体験されました。彼らの死は、長引く苦悩に満ちた暮らし、多くの難民たちにとって緩慢な死への旅路でしかないような日々の暮らしを、私たちに教えてくれました。彼らの死は、病気や暴力、戦争が常に脅かす難民の暮らしの悲惨さを思い出させてくれました。そして最後に、彼らの死は、多くの難民たちが、まるで乏しい材料からでも豊かな暮らしを作り出すよう工夫する、その特別な勇気を思い出させてくれたのです。
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