キリスト教と部落問題
 今 年の夏、8月11-12日、長崎カトリック・センターで、カトリック部落問題委員会の 夏期合宿研修が開かれ、地元・長崎の島本要大司教(日本カトリック部落問題委員長)をはじめ、約50人が参加した。島本大司教の挨拶の後、第一日目は二人のゲストからお話 を聞いた。部落解放同盟長崎県連の中尾貫氏は「わたしの被差別体験」というテーマで胸にしみるお話を、また長崎県部落史研究所の阿南重幸氏は「長崎の部落史と現在の解放運 動」という題でお話をされた。その後、分散会と全体会を行った。
 第二日は筆者(結城了悟)の「キリシタンと部落問題」と、太田勝神父(福音の 小さい兄弟会)の「キリスト教信仰と部落問題」という二つの講演が行われた。最後に島本大司教をはじめ共同司式でミサが行われて、合宿は終了した。午後からはオプション で、長崎の部落史に関連する場所を訪ねるフィールドワークが行われた。
 ここで、キリシタン時代(1549-1873年)のカトリック教会と部落差別 の歴史に関する若干の考察をご紹介したい。

最初に日本に来た宣教師たちは、インド で経験を積んだ後に来日したが、ヨーロッパのメンタリティを持っていて、それはたとえ ば「武士」にあたる「フィダルゴ」(郷士)のように、日本の階級意識と共通するところがあった。だが、同時に宣教師たちは、日本社会にさまざまな隔離された集団を見いだし た。ハンセン病患者(町の外に住むよう強制された)、奴隷やそれに類する人々、朝鮮人(1592~98年の豊臣秀吉の朝鮮出兵以後)、そして被差別部落民である。こうした 分野での活動は、カテキズム(キリスト教要理)や『どちりな・きりしたん』(クリスチャン・ドクトリン=キリスト教の教え)に書かれているように、「あわれみの業」(慈 善事業)として始められた。だが、間もなく一部の宣教師たちは、キリストの教えに反すると思われる社会慣習をただそうと働きかけるようになった。
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 たとえば、コス メ・デ・トレス神父は山口で、陶晴賢(すえはるかた)の乱に際して、尋常でない数の 人々の死体が路上に放置されているのを見て、キリシタン武士たちに「無縁仏を教会の墓地に運んで埋葬して欲しい」と頼んだという。同様な考えから、大分では孤児院と病院が 開かれた。「ミゼリコルディアの組(信心会)」は、不法に奴隷として売られた人のケースを大いに助けた。宣教師たちはキリシタン大名に対しても、「神の前で万人は平等であ る」という教えをはっきりと主張した。だが、彼らは同時に、その当時のメンタリティから逃れられなかった。たとえば、ある人々の社会的地位を語るとき、「身分が低い」とか 「卑しい身分」とか語っていたのである。そして、もちろん、宣教地に着いたばかりのときや、迫害を受けている地では、差別的な慣習に立ち向かうことは困難であった。
 長崎では、1571年にポルトガルや中国との交易によって、港町として繁栄が 始まると同時に、典型的な「部落」が形成される。彼らはかたまって住んでいて、彼らの住む一角は「皮屋町」と呼ばれた。というのも、彼らの主な収入源は鹿皮の輸入・加工 だったからだ。鹿皮は当初はマニラから、その後はベトナム、カンボジア、中国から輸入された。
 「カワヤ (Cauaya)」という言葉は、1603年に長崎で発行された「葡日辞典」に記されてい る。



 徳川家康のキリシタン禁令から7年 後の1621年に、ジョアン・バプティスタ・バエサ神父がモレホン神父に宛てた手紙 に、「皮屋」という言葉を見ることができる。
 「皮屋町に殉教者を捕縛するようにとの命が下ったとき、彼らはそのようなこと はしたくないと返事をしたが、そのような返事ははじめてではなかった」「このように、彼らキリシタンは、そのような罪を犯すくらいなら、この身を切られたり焼かれたりする 方がましだといって、さまざまな方法で驚くほど勇敢に反抗した」
 他の文書にも感動的な話が載っている。皮屋の指導者である裕福な人が、同様の 理由で長崎奉行の屋敷に呼びつけられた時の話だ。

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ドミニコ会の宣教師の文書には、彼らがどのように皮屋町 を訪れ、そこに建てられた小さな教会でミサを執り行ったかが書かれている。これらや他 の資料から、皮屋町のかなり多くの人々がキリシタンであったことがわかる。後に、彼らのなかから殉教者が出たかどうかは明らかではないが、ジョアキン・ディアス平山常珍の 船に乗っていた人のなかに皮屋町出身者がいた可能性は強い。この船は、マニラから長崎に向かう途中でイギリス-オランダ連合艦隊に拿(だ)捕され、乗客のなかにスペイン人 紳士を装った二人の宣教師を発見したため、艦隊は船を平戸に曳航し、二人の宣教師をオランダの施設に収監して、長崎奉行に告発した。この船の積み荷は鹿皮であった。船に乗 り組んでいた人は全員、キリシタンだった。ある者は船員、またある者は商人で、少人数の朝鮮人も働いていた。彼らは全員、1622年8月19日に西坂の丘で処刑され、後に 列福された。


 皮屋町の隣は「高麗町」で、豊臣秀 吉の朝鮮出兵で捕虜となり、日本に奴隷として連れてこられた朝鮮人が住んでいた。
幸い、彼らは1598年9月4日、ドン・ルイス・セルケ イラ司教の勅令のおかげで解放された。セルケイラ司教は同年の夏、日本に到着したが、 朝鮮人奴隷の悲惨な状況を見ると、主だった宣教師を呼んで会議を招集し(そのなかにはバリニャーノ神父も含まれていた)彼らから情報を収集すると、「朝鮮出兵は不正な戦い であり、すべての捕虜は自由を与えられるべきだ」と宣言して、ポルトガル人および日本人信者に対して、彼らを解放しなければ破門すると命じた。この勅令は、秀吉がまだ生き ているうちに出された。解放された朝鮮人は長崎に住みつき、少しずつキリシタンになっていった。彼らは村に聖ロレンソに捧げた教会を建て、セルケイラ司教が1609年にこ の教会を祝別した。キリシタン迫害時代に朝鮮人たちは迫害を受けた宣教師たちをかくまい、少なからぬ数の朝鮮人が殉教した。
 ハンセン病者のためには、長崎に「聖ラザロ病院」がつくられ、ミゼリコルディ アの組が運営した。同じ名前の病院が浦上にもつくられ、こちらはイエズス会が運営した。京都では聖ペトロ・バプティスタとその仲間がハンセン病患者を受け入れ、後には江 戸の浅草にも施設をつくった。
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 浅草でキリシ タンに改宗したハンセン病者の少なからぬ人々が殉教者となり、徳川家光は改宗者の多く をマニラに追放した。1637年に長崎で殉教した京都の聖ラザロは、マニラからドミニコ会士とともに日本に帰ってきた、マニラへの追放者だったと思われる。最後のイエズス 会準管区長、コウロス神父が1632年に伏見で死んだとき、その最後の隠れ家はキリシタンのハンセン病者の小屋だった。

 1648年、長崎奉行は大音寺拡張の ため、皮屋町を西坂に移転させて処刑場で働かせ、さらに1718年、今度は浦上近郊の 馬込に移転させて、キリシタンの監視を行わせた。この地域は当時、大村家の所領だった。1868年、皮屋町の人々は「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン大弾圧におい て、キリシタンを捕縛するために使われたが、彼らはただ役人に強制されてそうしたに過ぎない。このような迫害は恐怖と不信感を生み出した。浦上のキリシタンは、釈放されて 戻った後も、信仰のゆえに差別され、この差別は第二次大戦の終戦まで続いた。
 原爆は浦上や 馬込の町を破壊し尽くし、廃墟から新しい町が生まれた。そのため、少なくとも外見上は 古い差別の問題は消え去ったように見える。長崎はいまや、日本でも有数の部落差別発生件数が少ない県だ。だが、部落差別の根は深く、今でも何百万という人々が故もなく差別 に苦しんでいる状況で、今年の夏の部落問題委員会の合宿は、長崎のキリスト者にとって、差別問題を自分たちの信仰と正義の意識に対するチャレンジとして見直すよい機会と なった。迫害されたキリシタンの子孫は神がイスラエルの民に与えられた忠告を、少し言葉を換えて読む必要がある。
 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国 で寄留者であったからである」(出エジプト22:20)



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