タイトル
堀内 綾子(イエズス会サービス・カンボジア)

 カンボジアで地雷を踏み、両脚を切断され、車椅子で生活する、トゥン・チャンナレット氏は、1997年11月、地雷廃絶運動のために来日しました。当時、日本は1997年12月3日の対人地雷全面禁止条約(通称オタワ条約)に署名するか否かを検討中の時期で、アメリカ合衆国の出方を見て決断しようという、いつもの態度でしかなかったのです。
レットさん、地雷廃絶を訴える
 レット(チャンナレットさんの愛称)さんは、北海道から九州まで、2週間強の間に精力的に駆け回り、日本全国の皆さんに地雷廃絶を訴え続けました。レットさんが地雷を踏んだ瞬間、両脚が使いものにならなくなったのを知ったときのショック、そして生きていく希望を失った数年間。カンボジアは人口の80%がお米をつくるお百姓さんたちです。その田んぼ、野原、森という生活の場が戦場となってしまいました。30年間の内戦で、アメリカ製・中国製・ロシア製の地雷が、人口1千万人の国に1千万個埋められているのです。戦いが終わっても、地雷を埋めた人は誰一人、除去していきません。こうして、埋められたままの地雷が毎秒毎分、誰かが踏んでくれるのを待っているのです。全世界で22分に一人の割で地雷の犠牲者が出ている現状を、レットさんは訴えました。
小渕さんの約束
 レットさんは多くの日本人の地雷廃絶署名を持って、外務省に小渕外務大臣(当時)を訪れました。小渕外務大臣はレットさんの話に耳を傾け、地雷で両脚を失い、車椅子に座ったままの彼の姿を見て涙を溜め、自分に言い聞かせるかのように「地雷は悪魔だ。廃絶すべきだ」と、また「外務大臣個人としてでも、是非オタワ条約に署名する」と約束してくれました。日本でのキャンペーンを終え、オタワに直行したレットさんは小渕さんと再会し、日本が条約に署名してくれたことを知って、心からお礼を言いました。オタワの後、レットさんは1997年度のノーベル平和賞授賞式に出席して、ICBL(地雷廃絶国際キャンペーン)を代表してコーディネーターのジョディ・ウィリアムスさんと共にノーベル平和賞を受け、以来ICBLの国際親善大使と呼ばれるようになりました。
レットさん、沖縄に来る
 そして、今年(2000年)7月、九州・沖縄サミット開催に関連して、世界の平和を訴える多くのNGOがさまざまな行事を主催しました。その一つ、沖縄で開かれる「米軍基地と対人地雷」のシンポジウムに招待されたレットさんは、7月8日に来日し、福岡を皮切りに、熊本、島原、長崎と各地を訪れました。
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各地で知事や市長を表敬訪問し、また、いくつかの市民団体や小・中・高等学校、大学で講演して、オタワ条約に日本が署名し、批准してくれたことを、日本人の皆さんに感謝しました。同時に、いまだに日本の自衛隊が保有している地雷を一日も早く撤去するよう(1年間に22万個ずつ4年間処理し、残りの地雷は保有し続けて、地雷除去訓練に使用するとか。しかし、けしからぬオタワ条約に反対して、保有する地雷の数を増やそうとする動きがあるようだが)、日本人一人ひとりが日本政府に働きかけるよう、また政府の地雷破壊の実行を確認するよう訴えました。

長崎・南山高等学校で講演を終えて退場するレットさん
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長崎・南山高等学校で講演を終えて退場するレットさん
地雷のない世界をめざして
 現在、世界の約180ヶ国のうち、オタワ条約に137ヶ国が署名し、うち99ヶ国が批准しています。残念ながら、アメリカ合衆国はロシア、中国、キューバ、ユーゴスラビア等々と一緒に、オタワ条約に加入していません。よって、日本国内にある米軍基地(とりわけ、その75%が集中している沖縄の基地)から対人地雷をなくすことはできません。これは米軍基地のあるヨーロッパ諸国で、すでにオタワ条約に加入している国々も同様です。確かに、米国は地雷除去、地雷犠牲者の社会復帰のために多額の援助を行っています。しかし、それだけでは十分ではありません。問題のおおもとである地雷の製造と輸出を止めてほしい。すなわち、オタワ条約に加入してほしいのです。レットさんは、特にクリントン大統領に対して、任期の切れる2001年1月までに、大統領権限でオタワ条約に加入して、クリントン大統領の残した「偉大な遺産」として下さい、と訴えました。
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