特集 2000年沖縄サミット


去る7月21-23日、沖縄県名護市でG8サミット(主要国首脳会議)が開かれました。今回のサミットは沖縄開催が最大の話題となりましたが、肝心の中身は「IT(情報技術)革命」の大合唱ばかりで、内容の乏しいものでした。
■他方、発展途上国の集まりである「グループ77」(1964年、第1回国連貿易開発会議に参加した77ヶ国にちなんで命名された)も今年4月、ハバナで史上初の途上国サミットを開催し、途上国債務の帳消しなどを訴えましたが、こちらはほとんど注目されませんでした。
■今号では沖縄サミットを、マスコミではあまり取り上げられなかった3つの視点-基地と沖縄、債務帳消し、地雷禁止-から振り返ります。



 

檜山 博子(中学校教諭、那覇市)

世界にむけて沖縄を発信
 中学1年生の作文の時間、ある女生徒が沖縄サミットについてこのように書いていた。
 「近所の人たちがボランティアで沿道に花を植えているのをみかけた。それがサミットにむけての準備と聞いて、不思議に思った。主要国の首脳会議が沖縄で開かれるからって私たちには関係がないじゃない、沖縄のことについて話し合うわけでもないのに。でも、沖縄サミットは世界の人に、私たちの沖縄のことを知ってもらうまたとない機会なのだと思えてきた」。
 太平洋戦争の激戦地となった沖縄。しかし、世界的にほとんど知られてないような小さな地域である。そこで主要国首脳会議の開催が決まった。この小さな島に世界32カ国合わせ、国内外から6千人の政府関係者や報道陣も詰めかけ、世界の注目が集まる。サミットを機会に、世界に沖縄の歴史・文化・自然をアピールしよう、そして基地の過剰負担に苦しむ現状を世界に伝えようとする動きが生まれてきた。
 基地の島から、マルチメディア・アイランドへ。軍事センターから、21世紀の平和と環境の要石へ。サミット開催を千年に一度あるかないかのチャンスととらえ、沖縄の思いを世界に発信しよう。ミレニアムの奇跡を期待するかのように、自らが主体となった沖縄の基地なき未来構想を思い描き、沖縄の、そして地球の将来への夢を語り合うイベントが、NGOや市民団体によって盛り上がりを見せた。
祭りの後の施設利用
 3日間にわたる沖縄サミットの開催は、世界のマスメディアによる連日の情報発信により、沖縄のユニークな文化、美しい自然、そして県民のホスピタリティーを世界にアピールする好機とはなっただろう。
summit.jpg 沖縄サミットは、外から来る人を「まれびと」として大切にし、すべての外国の漂流者を救助し、手厚くもてなした沖縄の歴史が再び掘りおこされる機会にもなった。
 気になる施設利用だが、29億8千万円をかけて沖縄県が建設し、サミットの舞台となった万国津梁(しんりょう)館は、ポストサミットにむけ、「海浜リゾートと融合したコンベンション施設」として、国際会議の誘致に乗り出している。また、国内外の報道陣のサービス提供の役割を果たした国際メディアセンターは、通信・放送機構が共同利用センターを構える名護市のマルチメディア館の敷地内に移され、「国際海洋環境情報センター」として整備されることになった。海洋環境の研究に利用するほか、水産、観光など地域の産業振興への活用を予定している。
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平和の発信
 サミット前日、米軍基地整理・縮小を求める2万7千人の人の輪が嘉手納基地を包囲した。日本の国土のわずか1%にすぎない島に、米軍基地施設の75%が集中し、米軍による事件・事故と隣り合わせで生活する県民の現状を、海外のメディアは相次いで報じた。
 しかし、基地反対が県民の総意ではないことも確かだ。中学校で「米軍基地は必要ではない」という論題のディベートを持ったときにも、多種多様な意見が出され、さまざまな見識が生まれていることを感じられた。むしろ、事実を正しく知ろうと努め、健全な対話を積み重ねることで、平和への意識も深められるものと期待したい。
 1972年の本土復帰後、米国元首として初めて沖縄訪問したクリントン大統領は、糸満市の「平和の礎(いしじ)」で演説を行った。沖縄の駐留米軍の軍事的重要性を訴えつつ、戦後55年沖縄が担った負担や役割は、県民が望んだものではないこと、米国は良き隣人になる責任があり、「沖縄の米軍の足跡を減らすため努力する」と明言したものの、具体的な基地整理縮小の話はなく、基地の固定化を危ぶむ声が県民に相次いだ。
 その中で、県内外の18団体がNGO共同宣言を発表した。宣言では、「平和・環境・健康・福祉・人権を最優先すべき」と述べ、
  1. 貧困撲滅と不公正な国際経済の構造変革、
  2. 貧困国の債務帳消し、
  3. 遺伝子組み替え作物や環境ホルモンなどの徹底的法規制、
  4. 地球温暖化やオゾン層破壊、違法伐採など環境問題への取り組み、
  5. NGOとの直接対話などを各国首脳に求めた。

 「千年の平和、今ここ沖縄に始まる」と題した県内NGOの共同宣言の中には、基地の整理縮小、環境維持可能な経済構造への転換が盛り込まれた。
 NGOの参加が、基地を包囲する人間の鎖を新しいものにしていた。
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サミットが村にやってきた
 テレビで各国首脳の車が我が家の前を通過することをテレビで知り、急いで外に出た。小学生の男の子たちが、「あの車がシュレーダーだよ。きっと」などと騒いでいる。隣のおばあさんは「天国のおじいに、目の前でイギリスのブレア首相をみたよって、土産話ができたさあ」と喜んでいた。読谷(よみたん)村ではクリントンが突然車をおりて、沿道の人々に握手を求めたというハプニングもあったそうで、各首脳のことが茶の間の話題にのぼった。
 平和の礎での演説の後、流れ落ちる汗も拭わず、県民と握手するクリントンを見かねて、一人の女性が頬の汗をハンカチで拭った。それをヘリコプターからの映像で見ていた警備陣はクリントン大統領が殴られたと思い、「もうだめか」とひやりとした場面もあったそうである。県警2万2千人、巡視船舶百十隻を投入して行われた厳重な警戒態勢。某コーヒーメーカーのCMのようにクリントンに「がつん」と言ってしまう人がでるのを案じたのだろうか。
 独英加伊の4カ国首脳とEU委員長は、ラブコールを送ってきた町村を訪問し、住民や子供たちから大歓迎を受けた。ともにアイスホッケーに興じたり、柔道で一本背負いを受けたりして、歓待の歓声と温かい笑顔に包まれた交流が生まれた。しかし、サミットの沿道に学校のある先生からは、「毎日曜日、生徒も教師も環境整備にかりだされる。これではボランティアと言う名の強制労働だ」というつぶやきも聞かれた。
 7億5千万ドルもの予算を費やして開催された沖縄サミットは、なんの実りももたらさずに終わったという感が強い。それでも、サミットを機に、実に数多くのNGOによる国際会議や集会がもたれ、人権、環境、経済、女性など、さまざまな立場から、基地問題や世界の平和について話され、あるべき21世紀の世界像を模索しあったことは、沖縄の歴史の上で大きな財産だと思う。また、子供サミットや高校生サミットなどさまざまなイベントもあわせて、沖縄サミットは、小さな島の子供たちが、グローバルな視野を育むきっかけになった。平和の願いの発信というならば、子供たちに地に足のついた国際交流の素地を育てることもまた大切だろう。不透明な21世紀を生き抜き、未来を築いていくのは、やはりこの子供たちなのだから。
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