社会司牧通信  No. 92 99/10/25

   チェルノブイリの子どもたちに未来を

菅原 千文(小さなごみ仲間)
 みなさんはベラルーシという国をご存じですか?
 ベラルーシ共和国というのは、ソ連と呼ばれていた地域で、チェルノブイリ原発のあるウクライナのすぐ北の国です。

 チェルノブイリ原子力発電所の事故当日、ちょうどその風下になってしまったベラルーシ共和国に、事故で放出された放射性物質の70%が降下しました。この時、事故炉から放出された死の灰は「核兵器数十発分」と言われています。この死の灰により、ベラルーシ共和国は国土の4分の1が汚染地帯となったのです。
 その時の汚染は、まだ消えていません。一度放射能で汚染された大地は、長い間回復しません。現在でも立ち入り禁止にすべき汚染地帯に、放射能の影響を受けやすい14歳以下の子どもたちも含め、生活し続けています。また直接、汚染地帯に住んでいなくても、汚染された食物による体内被曝で、身体の不調を訴える子どもがいます。
 子どもたちの健康状態は、全身の疲労・貧血・頭痛・腹痛・視力低下・骨の痛みなどの症状が慢性的にあります。今後も、放射能が体内に蓄積されることによる免疫力の低下に伴い、症状が悪化していくと予想されています。
 ほかにも、事故当日の異様な空の色や遊んでいた森が真っ暗になった恐ろしさ、事故後の国内非汚染地帯への強制移住により、故郷や住み慣れた家を離れた淋しさなど、子どもたちが受けたチェルノブイリ原発事故の被害は、健康の問題だけではありません。
 このようにチェルノブイリ原発事故によって被害を受けた、いいえ、受け続けている子どもたちは「チェルノブイリの子どもたち」と呼ばれ、様々な国の市民団体が援助や支援を行っています。
 その中の一つに保養里親運動があります。この運動は、首都ミンスクと世界18ヶ国の市民グループによって90年にはじめられた運動で、その目的は、「子どもたちを長期にわたる恒常的被曝から切り離し、1ヶ月間、放射能の無い生活環境や食生活の中で免疫力を高め、健康回復を目指す」というものです。成長の盛んな子どもたちは、放射能の影響を受けやすいのですが、放射能と切り離された生活の中での健康回復も目覚ましいものです。
 日本では92年より「チェルノブイリ救援基金」という団体が窓口になり、日本各地の里親のもとへ子どもたちが来日する手配をしています。
 わたしたち「小さなごみ仲間」は、子どもたちが成田から帰国するための、東京での一泊ステイや、国内の病院からの子どもたちへの医薬品援助のお手伝いをしてきましたが、どうしても子どもたちと関わりたい、子どもたちが物心ついて初めて知ることのできた「健康な状態」を一緒に喜びたいという思いが募り、96年の夏、保養の里親を引き受けることにしました。


 ここで少し、「小さなごみ仲間」の紹介をさせてください。
 90年の春、毎日のゴミの多さに疑問を持った女性4人で発足し、現在は男女7人で活動しています。東京都足立区主催の様々な講座で学習しながら、いま自分たちに出来ることをやりたくて、町の中のアルミ缶拾いをし、その収益でトラスト運動に参加しました。また年に2回、近くの荒川の土手でゴミ拾いとそのデータ調査を行っています。土手での活動は今年の秋で10年になります。


 92年にリサイクルや環境問題などの学習会で「チェルノブイリの子どもたち」のことを知り、矢も盾もたまらず、「いま、わたしたちにできることを!」と保養の子どもたちの、帰国前の一泊をお手伝いさせてもらいました。
 小さなごみ仲間の活動目的は「環境悪化の中で“負”の部分を背負った人々や自然をテーマに学習し、関わり合う」ことです。そういう意味では、チェルノブイリの子どもたちとの関わりと支援は、わたしたちにとって、とても自然な流れでした。




 96年の夏、初めての里親です。
 ボロジンという村から、11歳の男の子2人と女の子1人、10歳の女の子1人の計4人、それに付き添いでベラルーシのスタッフ1人が7月に来日しました。
 とにかく、子どもたちに空気が澄んでいて、農薬など使っていない新鮮な果物や野菜をたくさん食べさせ、ゆっくり静養させることが大切だと思い、保養の滞在場所を茨城県八郷町に準備して迎えたのです。わたしたちが子どもたちと直接コミュニケーションするのは無理でも、子どもが付き添いの方を通さなくても直接に話せる人は必要だと思い、ロシア語の通訳の人にも参加してもらいました。
 到着早々、長旅(平均30時間)の疲れか、男の子2人は食事もとらず横になり、女の子2人もほとんど食欲がありませんでした。翌日から、なんとか食事をとらせなくてはと思い、付き添いの方に毎日ベラルーシ料理を教えてもらい、作りました。留学生ではないのだから、日本の食文化に親しむのは二の次だと考えたのです。新鮮で汚染されていない食べ物を、ビタミンの豊富なものを、たくさん食べさせなくてはならないのですから。
 日に日に食欲も出て、顔色も良くなってきた子どもたちですが、病人ではない子どもに静養というのは無理な話です。まして、初めて来た国、何もかも珍しいものに溢れているのですから。一番ビックリしていたのは自動販売機で、中に人が入っていると思ったくらいです。
 そんな訳で、昼寝の時間を確保しながら、毎日のスケジュールを、プールや図書館、地元の小学生との交流などと決めていきました。
 子どもたちは本当に元気になって、大きな声でよく笑い、わたしたちにまとわりついてきます。大好きなすいかも、最初は少しずつ口に運んで食べていたのが、大きな口を開けてかぶりついて食べるようになりました。子ども同士ケンカをしたり、わたしたちにわがままをいったり、本当に家族でした。
 アッという間の1ヶ月が過ぎ、子どもたちを帰国させる日。成田でしがみつきながら泣いている子どもたちの帰る故郷が汚染地帯なのだ、と考えると言い様もない不安に襲われました。
 それから3ヶ月後の12月、子どもたちの故郷を訪れることができました。再び胸に飛び込んでくる子どもの笑顔。けれど11歳の女の子(カーチャ)を抱きしめたとき、そのあまりの痩せ様に愕然としました。現地の病院やサナトリウムの先生方の話によると、「保養によって良くなった子どもの健康状態は、持続するものではない。帰国後、汚染された空気や食べ物により、放射能はまた体内に蓄積されて、健康は悪化していく子どももいる」というのです。
 わたしたちは一晩中、泣き続けました。わたしたちの活動は意味の無いことなのだろうか、と。けれど、翌日会った子どもたちの親が、学校の先生が、保養の本当の意味を分からせてくれたのです。「子どもたちは心がとても自由になり、自分の未来に夢をもてるようになりました」と、感謝の気持ちで涙とともに語ってくれたその言葉は、わたしたちに運動を続ける勇気をくれました。
 
 カーチャは日本に来てすぐ、「何もなければ、大人になったら幼稚園の先生になりたい」と言いました。11歳の子どもが自分の夢を語るのに、「何もなければ」と言う。信じられない思いでしたが、保養後は未来に夢を持っているというのです。これだけで充分です。


 資金の都合で1年おきの夏に里親をやると決め、98年の夏に2回目の里親をしました。今度はわたしたちの住む足立区で、会の代表(梨本恵子)の家を滞在場所にしました。
 「日本や里親の情報が少なくとても不安だった」「食べ物や生活習慣の違いがストレスになるのでは、と心配だった」という、前回の子どもたちの親御さんのお話を伺っていたので、できる限り不安をなくせるように努力しました。
 まず、来日する子ども4人が決まった時に、親御さんにロシア語で子どもに関する質問書(愛称・好きな食べ物や遊び・嫌いな食べ物など)に記入してもらいました。わたしたちからは、滞在する家の写真とわたしたち里親の写真、おおまかな滞在中の予定と食事のメニューなどをそれぞれの家に送りました。また荷物は日本に着くまでの間に必要なものだけにして、来日するのにできるだけ疲れないようにと伝えました。
 いよいよ、子どもたちが到着、やはり長旅の疲れはあるようでした。けれどすぐにわたしたちや日本での生活にも慣れ、プールに行っては大ハシャギ、食事もモリモリ食べます。好き嫌いはハッキリしていましたけれどネ。
 親御さんへの手紙も10日ごとくらいに書かせ、遊びに行ったときの写真を同封して国際エクスプレスメールで送りました。また、1人1回ずつ故郷の家に電話をかけ、親御さんと直接話させました。やはりアッという間に40日は過ぎ、足立区の花火大会を心から楽しみ、全員が泳げるようになり体重もすごく増え、たくさんの思い出を胸に、帰りたくないと泣きながら帰国していきました。
 そして今年(1999年)の5月、わたしは再びベラルーシを訪れました。今回は子どもたちとまったく同じ行程です。成田-モスクワ間はアエロフロートに乗り、モスクワ-ベラルーシ間は寝台列車で10時間。確かにすごい長旅でした。
 昨年の子どもたちはとても元気で、冬に家族みんながインフルエンザにかかっても、4人は普通の風邪もひかなかったそうです。親御さんたちには、ビデオテープで日本での様子を見てもらいました。親御さんたちは涙をこぼしながら見入っていました。
 96年に来た子どもたちも、カーチャ以外はとても元気で、背も高くなり、とても美人・ハンサムくんになっていました。カーチャは甲状腺に4つの節ができ、今日からサナトリウムに行くというのです。
  
1ヶ月の療養後、検査をして、場合によっては手術すると言われ、胸が張り裂けそうな思いでした。帰国後、問い合わせたところ、もう3ヶ月、投薬治療で様子を見るということになったそうです。


 いまベラルーシ共和国という国は政治的にかなり揺れています。経済も1ドル=29万ルーブルという相場のところ、闇相場1ドル=40万ルーブルで取り引きされているという状態です。とても安定しているとはいえない国の中で、汚染地帯の住民への援助は縮小されつつあります。しかも、子どもたちの体の不調や病と事故との関連性さえ否定されることもあるようです。
 このような状況の汚染地帯や小児病院、サナトリウムや民間の在宅向け児童ホスピスを見てきました。その中で本当に多くの人々が子どもたちのために努力し、多くの国の市民団体が援助し続けているのです。民間の児童ホスピスでは、死を待ち続けるだけの子どもたちから「死の恐怖」を取り除き、幸せな思いを抱いて最後の日を迎えられるようケアし、またその家族のケアも、子どもを亡くした後も続けています。
 ホスピスやサナトリウムや学校の先生方から同じ言葉を言われました。「どうか、この国の子どもたちを忘れないでください」。
 この言葉を胸に、いま、わたしたちは来年の夏の保養準備を進めています。大きな声で笑い、たくさん食べて、わがままが言える家族になる準備です。一人でも多くの子どもたちが「わたしの夢はね…」と素直に語れるように、保養は続けていきたいと思います。
 そこでみなさまにお願いがあります。旅費・滞在費などすべて負担するために200万円の資金が必要です。フリーマーケットへの出店やオリジナルTシャツ販売などで資金を集めておりますが、現在やっと20万円です。保養資金へのご寄付を何卒お願いします。




◆郵便振替
口座番号:00190-9-570399
口 座 名:小さなごみ仲間
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【編集後記】
今号は、林神父の東ティモールの記事に、できるだけ最近のニュースまで盛り込むために、発行が遅れました。でも、遅れただけの価値がある記事にはなっていると思います。
▲わたしたちの願いもむなしく、東ティモールには暴力の風が吹き荒れました。国際軍が東ティモールに派遣された今も、東ティモールの独立と平和の見通しは確かではありません。亡くなった二人のイエズス会員の霊が、主とともに東ティモールの人々を天から見守って下さいますように。
(柴田幸範)