社会司牧通信  No 92 99/10/25



東ティモールの新しい日の出(ロロサエ=loro sa`e)に
命を捧げた二人のインドネシア・イエズス会員
林 尚志(イエズス会労働教育センター)
Fr. Karl Albrecht s.j. (1929-1999)
Fr. Tarcisius Dewanto s.j. (1965-1999)


 「カリム神父がいる」。1991年7月、ラハネの神学校(Seminario Lahane)に、誰か英語で話せる人は居ませんか、と聞いた電話への答えだった。約一週間、初めて東ティモール入りをした私は、同行者の都合もあり、ディリ教区事務所の敷地の宿舎に泊っていた。しかし、ポルトガル議員団迎入れ準備等を控えて高ぶっていたディリの青年達は外来者への監視も強めていたので、やはりイエズス会の共同体へ行くことにした。そこで神学校の院長、アルブレヒト・カリム(Karl Albrecht)神父に始めて会った。「60才になり、新しい使命の場所として、東ティモールを選び派遣された。日本では共助組合のラフォント神父を知っている」と言い、かつてのSELA(Socio Economic Life in Asia/イエズス会アジア社会経済委員会)の創設期の話をしてくれた。
 一つ一つの教室を廻りながら、東ティモールの将来の視野を広げ、聖堂の聖櫃にクーニャ神父が刻んだ「二重の閉じ込める有刺鉄線」を破る連帯を、言葉でなく熱のこもった紹介の態度で神学生に伝えてくれた。ダレの山から、新しい神学校建設予定地を指差し、東ティモールの将来を語った。ジャカルタ・チピナン刑務所で当時東ティモール政治囚として囚われていた人々から、東ティモールの若者の為に支援をと熱く頼まれていたこともあり、カリム神父とは神学生の養成の協力について相談し、以後神学校支援の連帯を拓いて貰った。丁寧に一人一人からの写真と恩人への手紙が届き、日本の様々の草の根の人々と東ティモールが繋がっていった。日本軍の占領当時の話しから生じたちょっとした緊張をほぐしてくれたユーモアや、出発前の不安を見抜かれて、スコッチをぐっと一杯飲まされ、空港では自分で私の荷物を運び込み最後の待ち合い室まで入って来てくれたことが懐かしい。心からの善意の深い優しさがいつも私の心に刻まれている。宣教師の父性的温かさがいつも滲み出ていた。
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 その次の年に訪問を計画したとき、インドネシア政府からディリ入りを拒否されたが、事情をいろいろ調べ、少し忍耐して時を待つように諭された。5年間支援の継続と文通だったが、筆無精の私が返事を延ばしてしまうことが多かった。ある新年の最初の行動としてカリム神父への手紙を書いた時、ディリでも年頭に手紙が書かれ、海を越えて手紙が交錯している様子を想像して、現地に行けなくても連帯の継続と深化に希望を与えてくれた。
 1991年11月のサンタクルスの悲劇についてはどの手紙にも触れていなかった。今年1999年8月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のスタッフと、リキサ・アタバエ・バデュガテ等を回った帰路、カリム神父にサンタクルスでの体験を聞いてしまった時、難聴のために聞こえないのかと思ったが、石のように黙り込まれた。今思えばインドネシアを愛し、東ティモールを愛した宣教師の深い悲しみに土足で踏み込んだような申し訳ないことをしてしまった。慙愧(ざんき)に堪えない。あの沈黙の数分から他の話題に転じて口を開かれ、会話を回復してくれたカリム神父の思いやりをひしひしと感じ涙がこみ上げる。それから一月も経たず、あなたは新しい東ティモールとインドネシアのために、銃弾を受け東ティモールの土に帰られた。像して、現地に行けなくても連帯の継続と深化に希望を与えてくれた。
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1991年11月のサンタクルスの悲劇についてはどの手紙にも触れていなかった。今年1999年8月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のスタッフと、リキサ・アタバエ・バデュガテ等を回った帰路、カリム神父にサンタクルスでの体験を聞いてしまった時、難聴のために聞こえないのかと思ったが、石のように黙り込まれた。今思えばインドネシアを愛し、東ティモールを愛した宣教師の深い悲しみに土足で踏み込んだような申し訳ないことをしてしまった。慙愧(ざんき)に堪えない。あの沈黙の数分から他の話題に転じて口を開かれ、会話を回復してくれたカリム神父の思いやりをひしひしと感じ涙がこみ上げる。それから一月も経たず、あなたは新しい東ティモールとインドネシアのために、銃弾を受け東ティモールの土に帰られた。
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 次にコモロ空港に再び着く事が出来るまでに、5年間が過ぎていた。新しい神学校はバリデのサンタクルス墓地のすぐ側だった。再会は明るく、神学生への紹介の後の拍手・笑顔・魂に触れてくるコーラスの美しさは、カリム院長が日本の神父との間に引き出してくれたものと思う。

勿論(もちろん)東ティモールの状況には先が見えないのが、1996年当時の現状であった。小耳に挟んだ話によると、私をディリ内に留まらせろ、ということだったらしい。しかし、その時の地区長カリム神父の計らいで、少しは動きまわれた。
 マナテュトからの帰り、珍しくサンドイッチも持たないで出たので、途中の小さな食堂に入った。ドイツ人(国籍はインドネシアに変えても)と日本人の二人組という異様さが緊張を生み、カリム神父も戸惑っていた。そこに神学校の卒業生が青年達とトラックから降りて来て食事に入ってきた。何をどういう風に注文していいか分からないから頼むよと言われ、親父の面倒をみるように喜んで世話し、その関係性を見て廻りの雰囲気が緩んだことを思い出す。
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 共に色々な行動をしたが、インドネシアの国籍を持つ宣教師の限界をいつも感じた。そんな中でも出来るだけ東ティモールに触れさせようと骨折ってくれた。泳ぎの好きな神父は海の美しさを潜って案内もしてくれた。泳いだり出来ない状況の民衆を感じて気が引けたが、神様のクリニックとしてカリム神父はティモールの海を愛した。それで環境破壊の始まりを敏感に感じ取り、将来の為に心を悩ませていた。
 一年の休暇の後、イエズス会の地区・神学校の責任を退き、タイベシのレジデンスに移ってから、司牧活動に専念されてからも神学校と日本の連帯を心していてくれた。さらに聖ヨゼフ高校と福岡泰星高校との姉妹縁組みを喜んでくれたのも、東ティモールの将来を思う神父の心の現れと思う。
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 1998年状況が動き出し、海外からの東ティモールへの関わりも一気に変化しだした。そして、今年、リキサの虐殺後、5月、五回目のディリ着の日がファチマの聖母の祝日、聖職者の沈黙の行進の日であった。
 サンタクルスの墓地前を過ぎた辺りで暗くなり始め、ローソクが点火され、闇の中のディリに平和の祈念の灯火が連綿と続いた。日本からの唯一人の参加者として、心一杯に人々に入ってもらい、ひたすら火を消さないように祈り歩いた。民兵組織(militia)が麻薬を使っているから、何処(どこ)かから撃ってくるかな、など想像からの不安があったが、当時の凍ったディリに非暴力の希望の祈りの灯火が一時でも通じたかのような夜だった。
 レシデレのベロ司教の館の前の広場に集結した祈りの輪の中に、カリム神父を見出し近づいた。気配に振り向いた神父は祈りの静けさの中から、殆(ほとん)ど表情を変えず、あたかも私が其処(そこ)に居るのが当たり前のように、祈りに来てくれて有り難うと迎えてくれた。

そして翌日、自分がディリのJRS(Jesuit Refugee Service)に任命されているので、よかったら一緒に働こうと呼びかけられた。そしてリキサを始めディリ郊外等の難民のもとに同行した。自分は歳だし、難民の状況は大変で広範囲だ、取りあえずディリの難民に取り組む。東ティモールの教会、カリタスの下で協力する。今男性が入ると民兵に狙われるからシスターのチームで入る-と、その難しさを伝えた。
 リキサへの道、数箇所の民兵の検問を通るが、ある時停止指示をしている民兵を全く無視して、轢きそうにして突破して行った。沈黙して前を見つめ、ハンドルを握りブレーキを踏まない姿に、民兵への怒りを感じた。「あんた達は一体何をしているのか!」-そんな声がカリム神父の背中から発せられていた。民兵のトラックに武装国軍兵士が乗り行動していた。写真を撮りたかったが、難民のために、民兵司令部にシスターと共に入り込み、食糧分配の許可を取り付けている神父の姿を見て、問題を起こしてはならないと、シャッターを押せなかった。余りにも多くの難民に僅かな支援食糧、僅かなカロリー補給だと、悲しげに神父は呟いていた。骨折をして化膿している若い母親がいた、支給食糧はもう無く、寂しげに二人の幼児の手を引いている。神父は無言で困惑のさびしい瞳を向けていた。何も出来ない。その夜なにも出来ないことに泣けた。そして、最後はこの人々達の為に死ぬことしか出来ないのだと悟らさせられた。そしてカリム神父は死んだ。この地で十年の宣教師は、最後に出来ることを東ティモールの人々に贈ったのだ。
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 99年8月9日、カリム神父はヘラのカルメル会へのミサに行く途中私をトリズモ・ホテルまで、早朝5時半送ってくれる。UNHCRのヴィケケへのコンボイへの参加だ。しかし治安上の理由で中止になる。これから毎日のように中止が続く。ディリでの様々の動きをするが、離れたところの現状を知り、救援物資を届けたく、少しいらつく。8月10日、朝9時過ぎカリム神父が来る、珍しく自分の感情を出して、「今朝は本当にがっかりしている。…一つ泳ぎに行かないか…」えっ、こんな状況の時泳ぎに行く…。連絡次第で何処でも難民の所に救援物資を運ばなければならないのに…。でもカリム神父の珍しい頼みに応じた。しかし水着を持っていない。大丈夫、私は二つ持っている。一瞬その太い胴回りを見たが、兎に角今日のカリム神父には何であろうと何処までも付き合おうと思った。何処かで今迄の恩返しがしたかったのかもしれない。
 ベコラからヘラへの道を途中で海に出る。人っ気のないマングローブの海岸、暴力の支配する現状が嘘のような海辺。カリム神父はベロ司教によって、ディリ教区の難民問題の担当司祭に任命され、カリタス・ディリやその他のNGOをまとめて、この緊急重大事に対処することになった。従ってUNHCRはカリム神父を通して事を運ぼうとする。
 しかし、どうも組織的協力行動計画がうまく行かない。後で東ティモール人に聞くと、状況が流動的で緊急対応が多く、そんなに組織的に計画的に出来ないし、会議をする時が出動のチャンスだったりする。

現地人の現状判断と対応、インドネシア管区のインドネシア国籍のドイツ人宣教師カリム神父。どこかで歯車が合わない。今朝もベロ司教の所に約束した時間に行ったが不在。カリタスへ行ったが不在。責任を任されたが空振りばかり。UNHCRからも連絡が無かったりする。この70才の神父はしばしば壁にぶつかっていたのだ。国連・民兵・国軍・教会・NGO等の絡みの中での司教の人事だと思う。日本管区は私を東ティモールでのJRSに任命してきたので、このカリム神父と協力しようとすると、直ぐ分かる現状だった。
 岩場で着替えた、カリム神父の大きな水着にすっぽり入った。様々ながっかり事があっても、すっぽり包んで生きることを伝えてくれた数時間であり、ありのままの人間カリムと泳いだ人生の一時であった。
 自分で決めたレテホホの地に8月22日に立つことができたが、住民投票(popular consultation)が二度延期され、あの驚くべき人間の尊厳を東ティモールの人々が示した8月30日には、もう日本に帰っていた。「私達を後にして、東ティモールを去れるのか」と微笑みながら言われたコモロ空港はつらい場所だった。カリム神父は遅れ気味に見送りに来てくれた。側に来て「私はあなたに告白して許しを受けなければならない」と言って座った。「私はあなたを無視してしまった。現地の二人のJRSとして、いろいろやらねばならなかったが、ドイツから医療支援の人々が来て、対応したので、殆ど時間が取れなかった。御免なさい」と言われた。
 いや私はもう6回目でいろいろ動き方を知っているし、今回も出来ることは有り難いことに出来たので、そんな事を気にしないで下さい。と答えた。すると、「今度あなたが東ティモールに来る時は、私はここにいないだろう。難民のことは、12月迄が峠だと思うの、ここでの私の使命は終わったように思えるので、来年はジョクジャカルタの方で新しい任務を受けようと思う。
だからあなたにはここで会えない。それに今建設中のレジデンスは立派過ぎて貧しいティモール人と共に生きる為に来た自分には合わないと感じている」。側にその建築で苦労していて、その施設を使い新しく宣教司牧使徒職の夢を持っている地区長がいるのに大きな声で言う。いや何処でも探して会いに行きますよと言うと、立ち上り「10年間同じミッションが出来て良かったね」眼が潤む声で堅く握手を交わした。あの握手から何も零(こぼ)してはならないし、そんな握手がし続けられる生き方でありたい。

Fr. Karl Albrecht, S.J. 1929-1999


 「あなたの葬式には参加したくないから、気を付けてね」。そう言って、そんなこと言わなければ良かったと直ぐ思った。99年8月15日、デワント(Dewanto)神父は初ミサをバリデのファチマの聖母神学校(Seminari Bunda Maria Fatima)で捧げ、数日後、ヒラリオ神父に迎えに来られて、スアイへと向った。最初で最後の任地へである。初ミサの祝賀と新しい派遣への送別を神学生と済ませていたので、僅かの人が見送った。その時言ってしまった挨拶だった。彼は軽く笑って車の窓から挨拶した。
Fr.Tarcisius Dewanto s.j. 1965-1999


 東ティモールに入れず、失意の私がジョクジャカルタの神学校で数日を過ごした時、することなく危険人物のように思われていたか、余り話す人もいなかったある夜、街の散歩を付き合ってくれた親切な神学生がいた。すぐ笑う愉快な青年で、心優しい若者だった。それがタルチシスス・デワントさんだった。
ディリで再会した時、一瞬思い出せなかった私に、「忘れてしまったの」と笑いかけてきた。なんとも柔軟な人懐こい感じの人だった。
 彼のオートバイの後に乗り市内から郊外に出る。敬遠している子ども達に、「マイ・マイ」(おいで、おいで)と呼びかけ、囲まれて話している。
そんな写真が手元にある。そう言えば、初ミサの時も、祝賀会の時も、客人やその他テトン語が分からない人がいても何かひたすらテトン語で話し掛けていた彼が甦ってくる。ちょっと照れながらひたむきに話す。そんな彼が、一人ギターを弾く。良く聞くと日本の歌だ。お気に入りは、五輪真弓の『心の友』だった。

あなたから
苦しみを奪えた
その時、私にも
生きてゆく
勇気がわいてくる



 繰り返し繰り返しメロディーを憶え、歌詞を憶えて歌う。付き合うと喜んで、何回も歌ってくれる。スアイに出る前の晩、コンピュータの前に座った彼は、私を呼びローマ字で書いた日本語の歌詞を何処で切るかと聞く、歌いながら音符に添え書いた。後日高校生が歌う為に手伝っていたのだ。聖ヨゼフの女子高生が実に鮮やかに「心の友」を文化祭(cultural night)でソロで歌ったのを、彼は遠いスアイの難民たちに囲まれて心で聞いただろうか。

◆    ◆    ◆
 スアイの状況は悪化して行っていた。何故スアイなどへ叙階直後の新司祭を送るのかと私は聞いてしまった。「いや彼のテトン語のアクセントはジャワなまりだから、少しスアイで直すためかな。それに12月迄の約三ヶ月だから良い経験になるよ」。でもスアイは住民投票後一番危険な所になるよ、と言うと、先輩の比較的若い仲間は、急に顔を曇らせて、「ベロ司教に頼まれて、派遣されるんだ」と言った。
 西部の状況はますます悪化していた。西ティモールの境から近い地域は、1975年のドコモ作戦時にも似て、国軍の支配する民兵組織が占領し、難民化した住民は教会施設やその付近を避難所としていた。ティモール人の司祭ではいつ殺されるか分からない。水場に近づいて民兵から襲撃されたり、食糧が底をついたり、限界状況に近づいていた。「米がない、米がない」とスアイからトラックで来た、ルイス神父が叫んでいた。UNHCRも届かないし、ヤヤサン・ハックのような現地のNGOもやられてしまう。民兵(国軍)と住民の間に立つ教会、それも破られだした。ジャワ人の神父が誰か。ベロ司教でなくても考える。私はデワント神父は防波堤・防弾チョッキとして派遣されたと感じた。
 そして、それは壊され、銃弾によって貫かれた。ジャカルタで追悼ミサが行われると聞いた時、民兵がインドネシア人の神父を殺したと言う情報で、「内戦(これが一番たちの悪い世界的情報操作)の犠牲者」という解釈を利用する勢力の存在を感じ、「ジャワ人の神父を国軍は殺した」とストレートに訴えてくれと、e-mailで叫んだ。\
デワント神父の死を其処まで踏みにじらせてはならない。案の定、肩章を付けた国軍がデワント神父を司祭館から引き出し、後ろを向かせて撃ち殺したという目撃証人が、難民として西ティモールに出てきた。デワント神父さん、あなたは叙階後二ヶ月経たずで、主イエスと共に自らを東ティモールの地という祭壇の上で、東ティモール人が神の似姿を現した人格の尊厳・自決権の尊重の為に、東ティモールに愛と平和と正義の実現、神の国の到来の為にその33才の命を捧げたのですね。

「あなた(東ティモール人達)から
苦しみを
奪えた、その時
私(デワント神父)にも
生きて行く
勇気が湧いてくる(新しい命・復活)…」



 デワント神父さん、御家族や友や仲間の悲しの中でも、あなたが東ティモールの人々、インドネシアの人々、世界の人々の「心の友」として生き続けられることを信じ、既に昇ったティモールの太陽(ティモール・ロロサエ)*がこれからの様々の困難を越えて、世界に21世紀に輝くのをあの笑顔で見守って欲しい。

R.I.P.(安らかに眠って下さい)

*ティモール・ロロサエ 「ロロサエ」はテトン語で「日が昇る」という意味で、東ティモールの人たちは東ティモールを「ティモール・ロロサエ」と呼んでいる。