社会司牧通信  No 91 99/8/15

   日本で暮らす仲間のために

アンディ(結びの会)

私は10年前にフィリピンから、「緑の芝生」を探しに日本にやってきました。当時、22歳でした。私に与えられたビザの期限は90日でしたが、それが過ぎてから今日までずっとオーバーステイしています。最初の頃は、私はそれまで働いた経験がなかったうえに、日本語がうまく話せなかったこともあって、仕事に就くのはたいへんでした。

私がした最初の仕事は、古い家の取り壊し作業でした。その当時、私は眠れない夜を過ごすことが度々ありました。それは筋肉痛のせいもあったのですが、一番つらかったのは両親や兄弟と離れて過ごすさびしさでした。家から遠く離れて暮らすのは、はじめてだったのです。

私たちの(全部ではないにしても)多くが、家族によりよい未来をもたらすために日本に来たのなら、そして日本がよい仕事に就くチャンスを与えてくれたら、私たちは愛する者のために大きな犠牲を払ってでも、一生懸命に働こうとするでしょう。みんなと同様、私もよりよい暮らしへの夢と希望にあふれていました。


 最初は簡単ではありませんでした。私はそれまで暮らしていたのとはまるで違った文化に、慣れなければなりませんでした。私は日本語を勉強しなければなりませんでしたし、何よりも、私が職場にいる価値のある人間だと思わせるために、私の全能力を尽くして、あるいは能力を超えてでも、働かなければなりませんでした。その一方で、家族と離れて暮らす大変さにも慣れなければなりませんでした。私は、自分の夢の追求と、家族と一緒に暮らしたいという望みの板挟みになりました。

 日本でのキリスト者としての生活は、最初の2年は空しく、いい加減でした。1992年のはじめに、友人が近所にカトリック教会(日本人の信者のための教会です)を見つけてから、キリスト者としての生活が再スタートしました。私と友人は教会の神父様と相談して、フィリピン人のために特別な日曜ミサをあげていただけるようにしました。この教会はまもなく、近隣のフィリピン人出稼ぎ労働者の運動の中心になりました。

 日本人の信者さんたちの支援とあたたかい歓迎のおかげで、多くのフィリピン人が毎週日曜のミサに来るようになりました。今では、普段の日曜でも、フィリピン人だけで約400~500人が教会に来ています。こうした状況から、私は、フィリピン人と日本人のボランティアが参加した市民グループづくりに関わるようになりました。その目的は、フィリピン人信者の急増にともなう問題や、広くフィリピン人労働者全体の抱える問題に応えることです。

 私たちのグループは、外国人労働者問題の専門家の皆さんが主催する、数々のセミナーを歓迎してきました。昨(1998)年11月に開かれたあるセミナーで、「経済的安定の追求の陰で進む家族の別離が、残された家族だけでなく出稼ぎ労働者自身にも、多くの社会問題を引き起こしている」という現実が、参加者全員によりはっきりと認識されるようになりました。

 こうした意志に反した家族の別離は、決して珍しいことではありません。おまけに、教会に通うフィリピン人のほぼ80%が、登録されていない(つまり、滞在資格がない)ということもあって、絶望にうちひしがれる人も少なくありません。こうした資格外の滞在は、さまざまな誘惑を招く深刻な脅威となっています。そこで私たちは、コンピュータ教室や卓球・ボウリングといったスポーツ・イベントを開いて、有意義な気晴らしの機会を提供しようと努めています。

 けれども、私の出稼ぎ労働者としての体験と、ボランティアとしての活動から考えると、出稼ぎ労働者だけを対象にした、ある種の養成プログラムの必要性が高いように思います。一方で、私たちのグループは、少なくとも私たちの暮らしに影響を与えるようなホットな問題に焦点を合わせた、毎日曜の聖書研究のようなものを企画しています。