社会司牧通信  No 89 99/4/15

ボランティア教育の現場から(5)
上智短大の家庭教師ボランティア


ロサ・マリア・コルテス

 1985年頃、神奈川県秦野市に秦野国際協会(HIA)が設立された。その目的は、近隣地域に暮らす外国人を集めて、彼ら同士の関係や、彼らと日本人との関係を育むようお手伝いすることであった。HIAは年に一度か二度、外国人やその家族・友人を招いてパーティや集会を開き、絆と友情を強めた。毎回、さまざまな民族・国籍の人々が集まった。外国人参加者の大部分は、永住ビザか一時滞在ビザで日本に暮らす人々(教師、大学生・研究生、日本人と結婚した人など)だった。時には、短期間だけ日本を訪問している外国人も参加した。たくさんの日本人がパーティに招かれ、HIAの主な目的である、外国人と日本人のよりよい相互理解と友情の増進に貢献した。



ブイ・ムーン事件と市民の動き

だが、そんな理想を追求していた私たちを、一つの悲劇的事件が襲った。1987年2月8日、秦野にすむ36歳のカンボジア人難民、ブイ・ムーンさんが、自分の娘(8歳と4歳)、息子(6歳)と妻(26歳)を殺したのだった。この事件に秦野市民をはじめ日本中の多くの市民が大きな衝撃を受けた。この事件まで、私たちはこんなにも私たちの近くに難民が暮らしているとは知らなかった。彼らの困難、未知の国の文化に溶け込もうとする苦労、あらゆる場面で必要な日本語をマスターしていない状態で、彼らが日々余儀なくされていた闘いの数々を、私たちの誰も知らなかった。何よりも、彼らは同じ秦野市にすむ外国人たちの暮らしと、まったく切れていた。たぶん、彼らの近所の人々や、彼らが登録していた市役所の人も、誰も彼らのことを知らなかっただろう。
 このニュースを聞いたHIAのメンバーが、警察に駆け込んで、ブイ・ムーンさんや難民のことについて情報を集めた。翌日、私たちの幾人かは市役所にも行って、詳しい情報を求めた。この事件に衝撃を受けた市民が集まって、市当局の協力を得て、世論を喚起し、秦野に暮らす難民のコミュニティと連絡のパイプをつくろうと努力しはじめた。
  ほどなく、秦野に住むすべての難民に必要な支援を行うボランティア・グループが生まれ、「インドシナ難民と共に歩む会」と名づけられた。
 そして、難民の求めに応じて、1987年5月から、毎月第一・第三日曜の午後2~5時、日本語のレッスンをはじめた。秦野市役所は文化センターの施設を提供してくれ、後には秦野カトリック教会や上智短大、一般市民も、いつでも必要な時は教室の提供に協力してくれるようになった。
 こうして、この市民団体から、上智短大の家庭教師ボランティアが生まれた。最初は、短大の学生は、日曜の教室のボランティア教師と、教室の間赤ん坊の面倒を見るベビー・シッターの両方に参加していた。ほどなく、それでは不十分だと考えた学生たちは、短大と秦野教会で、難民の親子のために、週日夜の日本語教室を始めた。けれども、親は夜遅くまで働かなければならなかったので、教室の開始時間も遅くなった。子どもたちは教室に参加できなくなり、また、教師役の学生自身も帰りが遅くなってしまうため、教室は中止せざるをえなくなった。

‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
家庭教師ボランティア

 こうした時間と場所の問題から、短大の学生たちはやり方を変えようとした。彼女たちは、子どもたちの授業なら、学校から帰ってきてすぐのもっと早い時間に、彼らの家庭で行えるのではないかと提案した。ちょうど学生たちが短大で授業を終えて、帰宅する途中に子どもたちの家に寄って、宿題を見てあげることもできる。  親たちにこの提案をすると、彼らは是非にと望んだ。難民たちの家に日本人が来ることなどほとんどなかったからだ。彼らのことを気にかけたり、友達になろうとしたり、子どもたちの教育をお手伝いする日本人はほとんどなかった。彼らの子どもの多くは日本社会になかなか溶け込めず、同級生や近所の子どもからいじめを受けていた。
 1988年に短大の学生たちが家庭教師を始めたとき、秦野に住む7軒の難民家庭が応募し、以来、毎年応募者は増えていった。1998年までに、約43世帯が応募し、のべ151人が学んだ。
 ブイ・ムーン事件を振り返るとき、この事件が私たちの意識を変えたといってよい。私たちのそばに暮らす難民たちのことを知らなかったこと、彼らを無視していたこと、時には彼らをいじめていたことに対する良心の呵責を喚起したのだ。
私たちは忘れない

 悲劇の後、状況はすみやかに改善していった。二度とそうした事件が起こらないようにと、多くのボランティア・グループや市民団体が結成された。人々は事件を深く悔やみ、ブイ・ムーンさんの公判で彼を心理テストした精神科医がのべた所見を忘れない。「被告は、未知の環境に適応しようとするとき、多くの難民が直面する逆境のために、パラノイア状態に陥っていた。また、政府の貧弱な難民対策や、日本人の心の狭さもまた、ブイ・ムーンのディレンマの直接的な原因であった」
 人々はまた、4年6カ月続いた公判の最後に、裁判官がブイ・ムーンさんに懲役12年の判決を言い渡した後に述べた意見について、どうすれば裁判官が述べたような状況を協力して改善していけるかを考えてきた。裁判官は、ブイ・ムーンさんの犯した罪は死刑に値するが、犯行当時ブイ・ムーンさんは心神耗弱状態にあったことが考慮されるべきだと指摘した。この耗弱状態は、日本がインドシナ難民を受け入れたときに、適切な措置とケアを与えられなかったことに起因する。従って、今回の一連の事件は日本社会の難民に対する態度を深く問い直す機会であったというべきだろう、と判決は述べている。
 上智短大の家庭教師ボランティアは、こうした問題に答え、ブイ・ムーン事件をはじめ多くの悲劇的事件を引き起こした日本人の閉ざされた心と対決して、日本に住む難民たちを歓迎し世話するのである。
* ブイ・ムーンさんは府中刑務所で11年10カ月の刑を終え、1998年12月10日にカンボジアに帰った。


ボランティア感想文

私を変えた家庭教師ボランティア


A.O.

 家庭教師ボランティアは私の人生を大きく変えてくれました。
 私は学生時代に2年間カンボジアの子どもたちの家庭に通いました。初めは勉強を見るつもりでしたが、行く度にお菓子や祖国の手料理をご馳走になったり、あちらの文化や習慣の話を聞いたりしているうちに、やさしくオープンな家庭に私の方がのめり込んでいってしまったのです。そして卒業後は彼らの文化を現地に行って見てみたいと思うようになり、在学中に一度訪れたことのあるラオスへボランティアとして行くことになりました。
 私が行くまでラオス語を教えてくれたのは秦野市の難民の方達です。また、私にホームステイ先まで紹介してくれたのも彼らです。私はそんな温かい人々に囲まれながらラオスへ向かいました。現地ではSVA(曹洞宗ボランティア会)の子ども図書館で本を作ったり、子どもたちに工作や英語を教えていましたが、
やはり向こうで一番印象に残っているのはホームステイを通して感じた他人を思いやる共存生活のラオス文化だったのです。
 帰国後は学校などをまわりながらラオス文化の紹介や報告会を行い、最近では外国籍の生徒が多く通う中学校で心の相談員を始めました。学生時代に何気なく始めた家庭教師ボランティアが、今では私のライフワークと生きがいにつながっています。彼らの文化の中に私たち日本人が忘れつつある思いやりのこころがあります。これから私は日本で私自身が大きな感動を覚えたように、たくさんの人にこの文化を知ってもらいたいと思います。また、難民の方達にも自国の文化を誇る自信を持ってもらいたいと思います。