社会司牧通信  No 88 99/2/15
堀内 紘子

 1998年はどんな年であったろうか。私は、カンボジア国内にある5ヶ所のイエズス会サービスの様々なプロジェクトを見聞きしてあちこち居候した年だった。そのあちこちでの体験を皆さんと分かち合いたいと思う。

 シソフォンからシエムレアプまでの国道を車で走ったときの話だ。一人が車の窓側に座り、煙草を吸いはじめようとしたが、5分してもどうしても口にくわえることができず、諦めざるを得ない凹凸(でこぼこ)道だった。橋の多くが壊れていて使えない。2枚の板が渡してあるだけだ。運転技術の要るドライブだ。2枚の板も、荷を積んだ大きなトラックが近づいてくると、地元の人が取り外し、「橋が欲しければ、金をよこせ」と、地元の人の収入源になっている。体のあちこちを車内でぶつけながら、9時間後、無事に完走した。カンボジアの国道でさえ、長時間走るのは「骨が折れる」旅だ。雨季には、橋のないところは川の中を走ることも常だ。


 プノンペンからバタンバンまで、プロペラ機で45分(291km)は45ドル、5人乗り小型トラックの車内やタクシーの運賃は5ドル強だ。小型トラックの荷台に乗ると、1.30ドルだ。先日、荷台に乗って、埃まみれでプノンペンまで行ってみた。ここ3ヶ月間暮らしたバタンバンは、プノンペンに次ぐ第二の都市…だが、観光業がゼロに等しく、のんびりとした田舎町だ。ここからパイリン(クメール・ルージュの本拠地)に通じる国道を、モーターバイク2台、4人で郡役所のあるところまで35kmを1時間15分かけて走る。初めの一週間は、モーターバイクの後席に座っているだけの私だったにもかかわらず、お尻が痛くて苦労したが今は慣れた。郡役所から更に南東に5km奥に入ってP村へ行くが、雨季は牛車に乗っていく。北西にあるS村は、10km奥に入り、いまだに両側には多くの地雷が埋められ、強盗も頻繁に出るところで、雨季には牛車でも行けず、トラクターに引かれた荷台に乗り、付き添いのガードの一人と一緒に行く。

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 クメール・ルージュの時代(1975~79年)、クメール・ルージュの侵入により、村人は逃れていった。20年後、自分の土地に戻ってきたが、家は焼かれ、米作地も草ぼうぼうで、何も残っていないが、「地雷」という敵があちこちに残され、自分の以前の土地に住めない。よって、更にジャングル状態の奥へ奥へと土地を求めて進む。のこぎりや斧で木々を切り倒し、住む小屋を建て、切り開いたところを、米や野菜を作る土地にしようとするが、空腹では働くことができない。そこで、“work for food”と称し、村の開墾、貯水池造り、道造り、橋作りをする村人に労働賃金として「米」を支払う。子どもたちが学校に来ると、一人一ヶ月20kgの米がもらえる。先生には10ドルの現金と30kgの米が、月給として支払われる。

 カンボジア人の男性50%、女性80%が字の読み書きができない。おとな用に読み書きのクラスを設置し、毎日出席した人には1ヶ月20kgの米が支払われる。教育の質も問題にされるというのは、先生の平均学歴が8年間、字の読み書きができ、足し算引き算ができる人が教育のある人となる。

ほとんどの人々の頭にあることは、「今日いかに食べるものを口に入れるか」である。以前、米の輸出国で、今後は米不足で、餓死する人が1999年には増える予想だ。栄養失調の子どもたちがほとんどで、お腹が膨れ、黄色い髪の毛をしている。“human development”の尺度から見て、カンボジアが世界で人材的発展の最も遅い7ヶ国のひとつに入っているのもうなづける。

 1998年7月26日(日)の総選挙は、国連国際機関の国際選挙監視人が監視する中、投票が行われた。「投票箱に一人一票、確かに投じた」ことを監視し、「公平な選挙で成功した」と、自己満足して帰国していった監視人たちだ。UNTACのときと同じく、多額の費用が監視人たちの交通費、ホテル代、食事代に使われた。ある村では、ほとんどの人がCCP(フンセン派)に投票していないのに、結果は大多数がCCPに投票したことになった。反フンセンへのデモで、僧侶までが殺された。我々イエズス会サービスは、多いときには12人の僧侶を一ヶ月以上、我々の宿にかくまい面倒をみた。

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 10月下旬、友人の一人が、日本外務政務次官としてカンボジアにきた。シエムレアプでの昼食会に招かれた。バタンガンからシエムレアプは、プロペラ機で15分のところだ。私はホントに7時間の河の旅を初めて味わった。水上生活の姿を見ることができた。
シエムレアプで、去年(97年)11月、日本へ「地雷禁止」キャンペーンに一緒に行ったトゥン・チャンナレットさんと二人で昼食会へ参加した。
レットさんは日本に行ったとき、この友人に会ったことがあるので、一年ぶりの再会となった。 国道はもとより、この水上路にもチェック・ポイントがあちこちにあり、何かと文句をつけては、船主や客からも賄賂を取り立てる。公務員の月給が20ドルそこそこだ。子どもを6、7人かかえて大変だ。小学校の先生の月給は20ドルだ。しかし、選挙前後の数ヶ月間、月給が支払われていない。そこで、予備に1時間を、正規3時間授業後に設け、一人毎日100リアル(1ドル=3,880リアル、100リアルは3~4円位)を生徒から集めている。先生も食べていかねば! 80%のカンボジア人が現金収入なしで暮らしている社会では、100リアルも大金になる。
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 何故こんなに貧しいのかな。確かに過去30年間、戦いの毎日であった国だ。だが、それ以前には何故「自分たちの食べるお米が穫れれば、幸せな社会」が400~500年続いていたのだろうか。ポルポト時代以前にも5%のエリートと95%の読み書きのできない米作農民で成り立ってきた、長い歴史を持つカンボジアだ。カンボジア人同士はお互いに信用しない。我々のプロジェクトでも、多くのカンボジア人が働いており、良い仕事をしているが、カンボジア人からリーダーを選ぶと、たちまちプロジェクトは潰れるという始末だ。他のカンボジア人が、このリーダーを信用しないからである。

 教育が普及していないカンボジアで、汚職ばかりと言うが、教育水準が高いと自己評価する日本で、学歴あるはずの官僚の不祥事、銀行の不正が、何故日常茶飯事なのか。知識あっても、叡知なし、教養なしは残念だ。


 6~7月にかけて1ヶ月間、東京と札幌で、合計20回ほど話をさせていただく機会を得た。一人でも多くの日本人に、「カンボジアの現状」あるいは全世界の80%の人々が水道も電気もなしの生活をしている事実を知ってもらえればうれしい。全世界の20%のところに、全世界の80%の富が集まっているこの世の中で、何故私はこんなに物質的不便なところに、自分から選んで住んでいるのだろうかと自問してみる。答えは、私の今の生活が普通で、むしろ日本での生活が特別なのかもしれない。「話」をさせていただく度に、日本人の方々が自分の恵まれているのを知っていて、「少しでも何か恵まれない人々の為にしたい」という気持ちを持っていることを痛感した。皆さんのご支援、励ましに心から感謝している。友人の「死ぬなよな」の別れの言葉が何か暖かく心に残っている。
1999年-20世紀最後の年を実り多い年になるよう努力しましょう。
(文中の見出しは編集部がつけました)