社会司牧通信 __ No 87__ 98/12/15
釜の底(価値の底)から聞こえてくる『叫び』
昌川 信雄(クラレチアン宣教会司祭)
 釜ヶ崎に住む以前、アルコール依存症者の施設でプログラムに関わっているうちに、彼らと同じように私の体から『叫び』が上がってくるのに気づいて、それまで、そのような人たちを『意志力の問題』ぐらいにしか見ていなかった私の認識が変わりました。
 その叫びとは「私が私のままで居させてくれ」といったものだったと思います。「自分を生きていない」「自分ではない」「何者かを演じ続けるのはもう疲れた」「自分でいたい」そんな『叫び』だったと思います。釜ヶ崎に来て、私の関心は、関わったほとんどの人の中に伺えた、あの『叫び』の問題でした。

景気と野宿者
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 私が釜ヶ崎で生活を始めたのは1994年。バブル経済崩壊後の不況とともに野宿者が釜ヶ崎とその周辺に急激に溢れ出した時期でした。     
以来5年が過ぎようとしていますが、事態は好転することなく、戦後最大の大失業情勢の中に突入して、全国の寄せ場から仕事等を求める人々の釜ヶ崎への流入と、それとは別に、寄せ場を経由しない新たな野宿者の出現等があいまって、これまでにない大量の野宿者が、大阪府下全域に拡散増大しています。  大阪市の行った実態調査によると、11月現在、その数は市内だけで8,500人と発表されましたが、支援者たちによる実感的把握では15,000人は下回らないだろうと見ています。

景気と野宿者
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 野宿を余儀なくされた人たちの中で、定住型の人々は、排除攻勢に曝されながらも公園にテントを張って、自転車で粗大ゴミや銅線を集め、あるいは、リヤカーや台車を引いて段ボールやアルミ缶を集めて生活しています。
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 軒下やアーケードの下で一夜を過ごす、非定住型の人々の中には、自動販売機の釣り銭を点検して廻ったり、同じ目的でひたすら足元を見つめて歩き続けるのを日課にしている人もいます。ある人々は、環状線の一区間の切符を買って、各駅のゴミ箱からその日の新聞や週刊誌を収拾し、それを路上販売して生計を立てています。
 コンビニ店で捨てられた期限切れの弁当をあてにしている人々は、すべてのタイプに共通して少なくありません。炊き出しはある種の忍耐と精神力さえ持ち合わせれば、確実に食にあずかれる場として連日千人を越えている状況があります。
 救急車で運ばれ病院につながることによって、また仲間の差し入れやタカリで息をつないでいる人々や、同性愛者の『お相手』で収入を得ている人たちも見受けます。
 『食べる』ということがこんなにも『生きる』ことと直結していたとの実感は、このおじさんたちの現実に触れる以前の私にはなかったことです。ハトやスズメが釜ヶ崎に舞い降りて一生懸命、口にものを運んでいる姿を追い散らすおじさんを見かけたことはありません。胃袋に何かを詰め込まないでは生きて行けない自分と同じ仲間と映るからでしょうか。  「生きるためには犬や猫にも劣ることをしてきた」と話してくれたおじさんもいましたが、現実問題、それも個々のさまざまな理由から野宿を余儀なくされていった人たちの、やむにやまれぬ一つの生き方でしょう。
 さまざまな現実を目の当たりにする釜ヶ崎ですが、これらの生き方の中に、仲間であるべき野宿者を襲い、時に半殺しの重傷を負わせて金品を巻き上げて生きている『シノギ』と呼ばれる路上強盗が存在しているのも現実です。
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一人ひとりの関わりから学んだこと
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 「人間、痛いとか痒いということならそこに手をやれば何とかなる。しかし淋しいということだけはどうすることもできない」と語ってくれた老人がいました。彼との関わりが始まりましたが、淋しさから癒されることなく、この老人はその数年後に亡くなりました。
 その後、釜ヶ崎に共同体を置くことになって、進路を探していた折、緊急支援向けの既存の諸施設が、どこも酒の入ったおじさん達の施設利用は管理上断らざるを得ない現実のあることを知った寡黙な兄弟が「羊は弱くても99匹には仲間のいる幸せがある。1匹の不幸は仲間がいない淋しさだ」と分かち合ってくれた時、私たちの進むべき方向が、施設を持つことではなく、この1匹と関わっていくことだと決まりました。  この兄弟は、この後、飲酒者に近づいていき、彼らが街の粗大ゴミを集めてリサイクルで生計を立てているのを知ると、
今度は彼らと一緒に夜な夜なゴミを集めに廻るという生き方をするようになりました。  私の方は、仲間と3人のグループをつくりました。一人はシノギに遭って脅えていたひ弱な青年。もう一人は旅費がなくて遠い故郷に帰れないでいる孤独な老人でした。
 彼らにできるやり方で生きていくために考えた手段は、それまで青年がやっていた段ボールを集める仕事でした。現在、1キロ3円の段ボールの値段が当時は5円。1台のリヤカーを借りて千円を得るために、200キロを目標に3人で一日歩きました。
 やがて、3人は効率を考え、それぞれ別行動をとるようにし、老人は体力に合わせてアルミ缶を集め、私は昼間一人でリヤカーを引き、青年は夜そのリヤカーで粗大ゴミを集めに廻り、朝方、私たちも手伝って路上販売を始めました。3人の稼ぎは彼らの意向で、全部を合わせたものを三等分し、貯蓄の管理役は私でした。
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 6ヵ月が過ぎる頃。19,000円まで貯めた老人は、15,000円の片道切符を買い、故郷の沖縄に帰って行きました。それからまた、その3ヵ月後に、青年も自分の故郷に帰る決心がついて釜ヶ崎を去って行きました。故郷に帰る前、彼は「釜ヶ崎に来るまでは、『自分』というものを持たないで生きていた」と言っていました。
 この釜ヶ崎から故郷に帰っていくケースは非常に稀なことですから、そのこと自体は喜ばしいのですが、私にとって本当に嬉しかったのは、彼が故郷に帰ったことではなく、彼が自分を取り戻すことに気づいたことでした。でも、彼を見送りながら、一抹の不安を隠せませんでした。たとえ彼がなにがしか自分を取り戻したとしても、これから帰って行く先の、彼を取り巻く周囲が変わらないなら、彼にとって自分の居場所を獲得するための本当の戦いはこれから始まるだろうからです。心配は3ヵ月後に現実となりました。
 彼は、何者かを演じ、自分以外の人間として生きる器用さを持たない人です。弱くても、見苦しくても、人を失望させても、自分のままでしか生きられない人です。『釜ヶ崎』で一度死んで、せっかく生き返って新しい命で生きようと、力をつけて故郷に帰ったのに、このままでは、彼は自分のままでいるために、またそこを離れるしかないのです。そのために、人間的生活に必要なもの全てを放棄することになっても、それを選ぶしかないのです。
 彼は、釜ヶ崎にまた、戻りたいのです。釜ヶ崎のことを、人は天国と言います。ある人にとって避難所としてそう言えるかもしれませんが、それは他人が自分に無関心でいてくれる分だけ「ほっ」と息をつくことが許されるに過ぎない死角であって、実際は弱者をここまで追いやった『世の価値観』がさらに弱者を狙っている、弱肉強食の世界『サバンナ』そのものなのであって、あの青年を温かく迎えてくれる天国ではないのです。
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終わりに
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 釜ヶ崎にいて、気になる疑問は「なぜ、彼らはここに来なければならなかったのか」という一点です。『仕事を求めて』やって来た人の、あの『叫び』の背景に見える、人をその人として受け入れない、あるいは、その人のままでいることを許さない構造と、それを支えている『私の価値観』の回心が、弱者が救われるために問われているのです。
1998年11月23日、釜ヶ崎より
 青年は今も、『釜ヶ崎』ではない本来の自分の生きる場を確保するための戦いを続けています。
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