社会司牧通信 __ No 86__ 98/10/15
ベトナムのこと、知っていますか?
イエズス会社会司牧センター 安藤 勇
1991年7月にはじめてベトナム旅行を計画し、実行したときは、大変なエネルギーを費やした。それから毎年ベトナムを訪ねてきて、今年も8月に行ってきたが、さすがに今はもう慣れてきた。私がベトナムに行くというと、たいがいの人は、楽しくなさそうとか、大変そうと考えるようだ。3年前にハノイの日本大使館で一人のお役人と出会ったとき、開口一番、こう挨拶された。「大変ですね。ご苦労さまです」
 実際のところ、私は毎回、ベトナム滞在を楽しんでいる。行くたびに新しい発見があるからだ。最大の問題はベトナム語を話せないことだが、日本語や英語を話す通訳を頼んでなんとかやっていけるし、場合によってはフランス語でもなんとかなる。

 私はいつも、ベトナムの貧しい人々の開発プログラムを援助する日本の市民グループのメンバーと一緒にベトナムに行って、医者や地方の役人、市民ボランティア・グループ、カトリック教会の関係者、そのほか何百人という人(特に農村の人が多い)と会ってくる。

マス・メディアと情報産業

 今、ベトナムではテレビと新聞の普及率はすっかり高くなっている。今回、私がベトナムに着いたのはサッカーのフランス・ワールド・カップが終わった直後だったが、
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テレビでは毎日のようにサッカーの試合を放映していた。ミニ・ホテルにはケーブル・テレビの設備まで備えられていた。これは普通のベトナム人には手が出ない代物だが、実際、一日中スポーツ番組ばかりやっているようだった。ときには軍隊やら警察官やらで一杯の中国映画やインド映画もやっていた。地元のベトナム語のニュースやドラマも似たようなものだった。びっくりしたのは、ときたまNHKニュースが日本語で流れることだった。

 あらゆる新聞やマスコミは政府や共産党が運営している。ベトナム警察が発行する「コンアン」という大新聞もある。民間団体には、公共情報を伝えるメディアを持つ可能性はまったくない。5年前、ホーチミン市に滞在していたとき、私の親友のベトナム人ジャーナリストが、当時よく読まれていた新聞、サイゴン日報を持ってきてくれた。1993年3月22日付けの新聞の一面記事の一つは、ファンティエット司教のヒュン・バン・ギイ師を攻撃するものだった。
彼は当時、バチカンからホーチミン司教に任命されていたが、新聞は、「ベトナムのカトリック教会とバチカンはベトナム政府に、司教の任命について事前に相談せず、ベトナムの主権を侵害した」と批判していた。こうした非難は、今年(1998年)新しいホーチミン司教が無事、着任するまで続けられた。もちろん、ヒュン・バン・ギイ司教にもカトリック教会にも、公式な反論のチャンスは与えられなかった。同様の状況は今も続いており、改善の様子はまったくない。

 私はベトナムの農村の人たちが、国内外の問題についてどのように情報を得ているのか、どうしても知りたかった。テレビは農村ではまだまだ珍しくて、村人はスポーツや映画、ニュースを見に集まってきていたが、新聞は村にはなかった。農村では今でも、村役場からのお知らせを街頭スピーカーで伝えるのが普通で、教会の立場が強い地域では、神父がユニークな情報源になっている。
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農村の経済生活

 日本人は、ベトナム経済は好調で、アジアの大部分の国に比べて健全であると考えがちのようだが、それはコントロールされた情報のせいのようだ。私がベトナムで発見した確かなことは、ベトナム人は公の見解や与えられた情報をもはや信頼せず、大事な問題は自分で真実を探すということだ。もちろん、それは誰にでも簡単なことではないから、多くの人はいつも疑い深い。

 ベトナムの農村には、国民の70%が暮らしているが、主要な大都市が抱えているのとはまったく違った現実を見せてくれる。農村では生活条件は大変に苦しく、初等教育や健康、水、生活道路や交通手段といった多くの基本的ニーズが満たされていない。基本的なインフラストラクチャーもきわめて古いままだ。農民たちは一生懸命働いているが、構造的な問題があまりにも多くて、本当の開発とは何かということまで頭がまわらない。加えて、洪水や干ばつ、台風などの自然災害はベトナムの多くの地方では当たり前なので、農民たちは外部からの援助に頼らないで、自分たちだけで解決の道を探すのが当たり前になっている。
それでも、農村の暮らしは大変に厳しいとはいえ、都市の中心部と違って、町中で物乞いやストリート・チルドレン、薬物中毒者やホームレスの人を見かけることはない。驚いたことに、農村の人たちは外から訪れた人の目には幸せそうに見える。まるで「天然の幸福感」とでも言いたいような、楽しそうな暮らしぶりなのだ。

 ベトナムを訪れるメンバーは毎年半分くらい入れ替わるが、新しく参加した人は必ず、ベトナム人の楽しげな雰囲気と、子どもたちのバイタリティに深い感銘を受ける。

ベトナム経済の光と影

  ベトナム経済の活発な活動の大半は、国中に広がるインフォーマル・セクターに見られる。一つの例は市場だろう。市場は経済活動の場であるだけでなく、あらゆる種類の情報の収集と交換の場でもある。人々は市場で知り合って、モノとモノを交換する。「朝市」は同時に、どの地方でも、その地方の出来事や全国的な話題について、信頼できる情報や噂話を集めるのに最適の場所だ。
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この国の国民の大部分が(正確にいえば農村の住人の大部分が)市場に生産品を出したり、売り買いしているといっても過言ではない。これが、デパートや冷蔵庫、車などがなかった時代からの、ベトナム人の伝統的な商売の仕方だ。とはいっても、電気が使えるようになった今でも、冷蔵庫は贅沢品だ。日本に住む娘を訪ねて日本にやってきたベトナム人の高齢の女性がいたが、彼女は数週間と東京にいられなかった。というのも、彼女は娘の家の冷蔵庫にいつもきちんと貯えられていた野菜や食料品に、どうしてもなじめなかったのだ。彼女はホームシックにかかってベトナムに帰ってしまった。

 もう一つの例は、自転車やオートバイ産業だ。ホンダのオートバイはベトナム市民の日常的な交通手段だが、実際にはタイやシンガポールで生産されている。ほかにも、ロシアや東欧製のバイクもたくさん走っている。ホンダのオートバイを持っていないベトナム人、というのは想像できないほどだ。自転車もまた、都市部でも当たり前の庶民の交通手段だ。多くの場合ベトナム製だが、北部では中国製の自転車が出回っていて、品質はベトナム製より上だ。これらの産業はたぶん、今ベトナムでもっとも価値ある経済活動だろう。この産業はベトナム人のニーズを満たしている上に、何千という関連の仕事を生み出して、おそらく何万、何十万というベトナム人に仕事と収入をもたらしている。
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 ベトナム経済の成長というと、普通、新築されたビルの数や自動車保有台数の増加、道路や工場の建設を物差しとする。それは、言い換えれば、外国投資の増加と直接につながっている。普通、ベトナム経済の「離陸」の出発点は「ドイモイ」(刷新)政策であると言われる。ホーチミン市のような大都市や、ある意味ではハノイでさえ、この8年間、目に見えて経済が発展してきた。ホーチミン市街からトゥドゥックに至る工場地帯には、新しい工場が次々と建設され、発展ぶりを見せつけている。しかし、そうした発展が庶民にどれだけよい結果(仕事や給料の面で)をもたらすかは、依然として疑問だ。

 たとえば、観光業は長いこと花形産業とされ、大小さまざまなたくさんのホテルが今でも建設されているが、大部分は一年中ガラガラだ。8月の観光シーズンに、私たち7人はミニ・ホテルに泊まったが、30人収容のホテルに泊まり客は私たちだけだった。

 1988年から入りはじめた外国投資は、1994年に10億ドルを超えるピークを迎えたが、
1996年には急激に落ち込みはじめ、現在ではピークの半分にまで減っている。だが、ベトナムではつねに政治的影響が最優先なので、経済や産業の成長に関する情報はしばしば、政治的なフィルターにかけられ、信頼に足る確かな情報を得ることは困難だ。そのよい例が、日本の大企業が投資して行われている南シナ海での油田掘削だ。この件では、採算の合う油田を掘り当てられるかどうかをめぐって、たびたび矛盾する情報がぶつかりあってきた。ベトナムへの外国投資の大部分が中小企業からのものなので、当地での産業投資についての警戒感が高まっている。日本からの経済人のグループもかつて、そうした警戒感をはっきりと表明したことがある。

 3年前、ハノイで経済学を学ぶ大学生たちは私に、私たちは大学で経済理論を教えられるだけで、統計は見たことがない、と語った。そこで、ある日私が、ちょうどある新聞に出ていた、ベトナム国会が承認した国家予算の記事を見せたところ、彼らは、国家予算の数字が新聞に出たのは初めてだとびっくりしていた。
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教会、市民グループ、民間セクター

 ベトナムは、7500万人の人口の内、25歳以下が60%以上という若い国だ。これらの若者たちは新体制下に生まれ育ってきたが、「ドイモイ」政策が達成しようとしている変化にふさわしい良い教育が行われてこなかったために、彼らの能力や可能性は大幅に削られてきた。ベトナムもまたグローバリゼーションと国際化の時代に入ってきたが、それに対応できる人材は育っていない。教育はきわめて重要な要素だが、都市中心部でさえ十分に配慮されていない。この問題について確認するために、世界銀行やアジア開発銀行といった国際機関による調査が行われている。

 7年間に渡って農村をまわってきて、農村には教育に対する大きなニーズがあることが分かった。中等教育は言うに及ばず、初等教育でさえ基本的な設備が不足しているのだ。もちろん、大学レベルはまったく問題外だ。貧困と子どもの数の増加が主要な原因だ。日本の経験から言えば、この問題に関して私が有効だと思うポイントは、教育は国家に独占させてはいけないということだ。設備と経営陣が整った民間の教育施設がたくさんあって、市民は自分たちの子どもに与えたいと思う教育を、自由に選択できるべきだ。若者たち自身にも教育の自由な選択が認められるべきだ。もちろん、今のベトナムでは不可能だし、そのことを公に口に出すこともできない。それでも、教育のニーズは明白で、象徴的な変化も起こりつつある。
 多くの村には、現実には、教室さえない。教育は人民委員会の手に委ねられているが、諸般の事情から、彼らはしばしば、この問題を解決することができない。多くの場合、人々はたとえば教会と手を組んで、子どもたちのために教室を建て、教師を雇う道を探るが、人民委員会がそれを拒否することも多い。私の印象では、そうしたケースは決して稀ではない。  教会や民間グループは「チャリティ・クラス」と呼ばれる学校を運営して、子どもたちに実質的に初等教育を修了させているが、彼らが中等教育に進むためには、公の試験に合格しなければならない。

 最近、日本で世間を騒がせているスキャンダルに「天下り」がある。これはベトナムでは、あらゆるレベルでごく当たり前に行われている。企業の社長は党から「公式に」派遣された党員で、病院の管理職も共産党から派遣された人で、福祉施設でも専門家の施設長の他に、党から派遣された施設長が必要だ。公式に登録されたNGOは、党員の職員を自費で雇わなければならない。語学学校も同様で、能力に関係なく党員を雇わなければならない。

 ベトナムには依然、優秀な人材があり、教育や福祉分野の緊急のニーズに応えて、外国からの協力を得て対処できる力はあるのだが、残念ながら人材が生かされていない。根本的な変化がなければ、優秀な人材も完全に失われてしまうだろう。
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