社会司牧通信 __ No 84__ 98/6/15


イエズス会ボランティア研修会に参加して
青木 一博(六甲中学・高等学校)
 全体を、見通す資料を持ち合わせておりませんので、私が参加した範囲での記録と感想を基に報告させて頂きます。
ボランティア学習の大切さ

 ボランティアという言葉の意味している事柄の多様性や多義性はひとまずおいて、現在の教育の中でボランティアと呼ばれる体験学習に期待されているものには大きいものがあります。少子化や、受験勉強の低年齢化を理由に、私たちの教育現場では実地経験や生の人間関係における葛藤の少ない生徒・学生を相手にせざるを得ない状況が続いています。また、多くの生徒・学生にとって教室の中の勉学が、具体的に何に役立つのかという実感もまた乏しいという現実も報告されています。受験をはじめとする「将来のため」ということで納得できる子どもたちはある意味で幸せですが、問題はそれに満足できないものたちです。
その中で、この体験学習は、あいまいな「自分自身」を試す格好の機会となりうるものです。教室では、味わえない「現実」に向き合い、鍛えられるのですからその魅力は非常に大きい。ただ、重要なことはこの学習には、多くの場合「人間の相手」が存在することです。そのために、もう一つの条件が加わります。それは多くの場合、「誠実さ」と呼ばれます。言葉を変えれば、行った行為に対しての主観的な評価だけではなく、「客観的評価」が要求されるということです。
 このような、様々な意味で難しさを抱える学習活動ですが、関わっている人々の間で、自分たちのいろいろな試みや模索について話し合ってみたい。もしくは、実践において、本当に問題なのは何なのかということを語り合いたい、という場が望まれていました。今回イエズス会下関労働教育センターで開かれたこの研修会へ参加しようとした私の理由の一つはそれです。その意味では、私自身のネットワーク作りのためといってもよいでしょう。
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 しかし、今回の本当の収穫は、その仲間たちと一つの目標のために「協働」で作業に取り組めたということです。この目標は、たとえば「ハンドブック作り」と呼ばれていますが、今回の私たち参加者にとって重要なことは、目標そのものではなくそこへ至るまでの作業過程だったと思います。
 そのような観点から、今回のプログラムの中で中心となった二つの分科会での分かち合いで得たものを中心に報告をしたいと思います。


分科会1/
ボランティア・ハンドブックの柱(理念)について

 このプログラムは、ボネット神父の基調講話から始まりました。まず、「ボランティア」という言葉からのヒント。Volunteerを考える上で、語源のVolo という語の中に、「自らの意志を持って行動する。喜んでする」という意味があるという。一方、ボランティア活動が置かれている現実の社会から考えることもできる。現実の中にある不公平に、どう向き合うか。関わりを持とうとしない生き方なのか、同じ社会の一員としての関わりを持とうとする態度なのか。
 そのようなアプローチは、ボランティアは、自由参加なのか、義務なのかという議論に対して、一つの視点を提供されたようでした。呼び掛けに対しては、応える義務がある。しかし、どのように応えるかは各自の自由に任されている。教育の現場では、それぞれの社会という共同体の一員として、さまざまな応え方の手法を探っていきたいものです。
 基調講話の後、小グループに分かれて、話し合いが持たれましたが、私の参加した分科会で得た「活動の理念」を考えるヒントとなる点を記しておきます。

 ◯社会の現実を知る、現場から学ぶという点が出発である。只、現実と言うものが、正義と不正義が混在している場であることについては、充分配慮されなければならない。つまり、慎重な識別とさまざまな場面での回心とが要求される。中途半端に知ることは、かえって悪い先入観を育てたり、新たな偏見をうえつけることにもつながる。「知る」という事は、常に責任を伴うことだが、この場合にも忘れてはならないことである。

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 ◯メタノイア(立ち返り、心の方向転換)という言葉には、回心という漢字が充てられるが、心を開くという意味で「開心」があってもよい。相手や状況へ自由さをもって対応するという意味での「心を開く」ことの必要性と同時に、回心の要件である神に対する謙そんな呼びかけの必要性(ルカ18:13)という側面から、問題が起こってからの対応だけでなく、起こる前の気づきに対しても大切な心構えである。man for othersからman with others への視点の移動や、「気づいたことから学ぶ」、「必要ないものだから与えるのではなく、大切なものから与える」という観点も重要である。

 ◯自分が元気になったというだけでは不十分で、相手のニードにどこまで応えられるかという視点も忘れてはならない。その点で、体験に必ず伴う社会分析は、行った活動への評価のためだけでなく、次の活動へのための準備という点でも重要である。

 ◯ボランティア活動の重要な視点として、既成の行政や制度の枠組を越える活動もできるということである。その点からみて、ボランティア活動の柱を作ることが、活動に新しい枠をはめることにならないための配慮が必要であろう。

 ◯上から下へのボランティア活動ではなく、相手をするという活動が必要である。そのことによって、聖書の「仕え合う」という言葉の実践にもつながり、一面的な「交換主義」からの脱却にもつながる。
分科会2/ボランティア活動のシミュレーション

 「アジアの国への関わり」「釜ヶ崎」「滞日外国人支援」「学内の協力体制づくり」の4つのグループに分かれての作業でしたが、それぞれの具体的な「企画」については、別の報告に譲るとして、私が参加した「滞日外国人の子どもたちへの学習指導支援」という限られた関わりを取り上げながら、ボランティア活動一般についてヒントとなると思われる事柄を選んで記しておきます。

 ■先ず開始の時点で、関われる期間を明確にすること。できることと、できないことをはっきりさせる。「できる」といったことには、責任を持って関わりつづける。そのために、連絡・引き継ぎ・記録のためノート作り等の必要性も生じてくる。

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 ■ 並行して関わっている諸団体との協力も必要。ボランティア同士の定期的なミーティングだけでなく、様々な形で支援している諸団体と協力することで、多様な問題・課題を持つ「社会問題」に関わろうとする人々の間の、分業体制・専門性が育ってくる。そのような複眼的なみかたの中で、この国の社会の中で「その事柄」がどういう意味を持っているのかを、立体的に捉えることができる。

 ■ 言葉の問題も持つ「外国人」と関わる場合は特に、彼らが行政や司法に対して信頼関係を持ちにくいという傾向がある。その中で、ボランティアのもつ「自由性(時には、福音的な自由性)」を生かしながら、その間を繋ぐ仲介者としての役割も出てくる。

 ■ 相手との関わりの中で、支援者の価値観・習慣を押し付けないということは大切である。特に、異なる背景のもとに生活してきた人びとの支援活動の場合、生活を円滑にするために「同化する」必要性が生じることもあるが、ボランティア活動の基本的な姿勢として、相手の文化や生活習慣を尊重しそれを受け入れる開かれた心を持つことを忘れてはならない。具体的には、「におい・味・食材」を受け入れること、という指摘は重みがあった。

私たちがめざすもの

 今回の研修会は、どちらかというと理念的な事柄が多いものでしたが、それゆえに大きな意味があったと考えます。ボランティア活動と呼ばれる関わりや活動は、往々にして「理念より実地を」重視するあまり、現実の問題に追われてしまいがちです。状況はいつも、時間的なゆとりを与えないから、それ自体は大切なことですが、時間を見つけて理念に立ち返る「振り返り」の作業も重視したいものです。
 何よりも私たち参加者にとって、「イエズス会ボランティア研修会」という限りは、現場体験を踏まえた上で「社会分析」に向かうものであって欲しいと思います。そして、その分析こそが、次の活動へと私たちを招くものになるはずです。私たちが望むあらゆる活動は、「平和と安らかな信頼を創り出すための正義」(イザヤ32:17)に向かうはずであり、「ボランティア活動」と呼ばれるものも、「…かりにも正義の立場から既に与えなければならなかったものを、愛の贈り物として与えるようなことはあってはならない」(「信徒使徒職に関する教令」8)はずだからです。「正義」に導かれながら、やはり問われ続けるのは「愛」なのでしょう。
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最終日の朝のミサ 東ティモールに連帯して
 さらにそれらの行動を通して、私たちはそれぞれの教育現場や個別の司牧の現場を越え、共にこの社会の一員として、「新しい人間」(ペドロ・アルペ「イエズス会の中等教育」-現状と展望-12)となるために招かれ、それをもとに「新しい社会・新しい繋がり」を作るための作業に参加していくことができるのだと考えます。その繋がりが、私たちの求めるネットワークと呼ばれるものになるのでしょう。
 宗教教育といわれるものについても、教室内で行われる宗教や聖書の講話などだけを意味するものでなく、人権教育やここで扱ったボランティア体験教育などを通して触れる生の人間とのぶつかり合いも含めた多様なアプローチを持ちながら、社会を分析し人間の在り様や目指すべき生き方を模索するものでありたいものです。
 その中で、すべての人間の尊厳を大切にする社会(関係)を共に作る作業に参加する「仲間(大人も子ども)」を作り出していく(=立ち返っていくこと)ことこそが、その目的ではないでしょうか。  最後に、今回の研修会は上に述べた事柄の他に、下関という場所の特徴も多く取り入れられていたものであったことも忘れられません。2日目の夜に用意されていた「下関の市民との交流会」もその一つでした。多くの出会いがあり、その一つ一つについて充分書くスペースがありませんが、感性的な表現を許していただければ、下関という街では「海」は隔てるものではなく、「繋ぐもの」であるのだという感を強く持ちました。五月の関門海峡を渡る緑の風の心地よさとともに、豊かなエネルギーを頂きました。
 多くの意味で、これからの課題が提示された研修会でした。「協働」作業を続けていきたいものです。
 地元の林神父を始め、すべてのスタッフ・参加者方々に感謝します。お世話になりました。
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