社会司牧通信 __ No 82__ 98/2/15

 
   <使命>
ボランティアの見たマザー・テレサと
そのシスター達



片柳 弘史(イエズス会社会司牧センター)
 昨年9月にマザー・テレサが帰天して以来、彼女についてマスメディアを通して膨大な量の報道がすでになされた。しかし、一ボランティアの視点から彼女の活動を書いたものはあまりなかったようである。そこで今回は、一ボランティアとして彼女の活動について書いてみようと思う。
 私はカルカッタで彼女の施設のボランティアとして、1994年から1995年にかけて通算1年ほど働いていたことがある。日本に戻ってからも、現在にいたるまで彼女の設立した修道会である「神の愛の宣教者会」(M.C.)の施設でボランティアをさせてもらっている。
 彼女とそのシスター達の活動について語る上で、まず3つのキーワードを挙げておきたい。それは「神への愛をこめた信頼」と「完全な自己放棄」、そして「快活さ」である。これらはマザーがそのシスター達に繰り返し求めていたことである。これらを軸にして話を進めようと思う。

「神への愛をこめた信頼」(Loving Trust)
 マザーがシスター達に教えていた祈りの一つに「私の心の中におられるイエズスよ、あなたの優しい愛を信じます。あなたを愛します」というものがある。彼女はこの短い祈りを何度も何度も繰り返し祈るようにとシスター達に言っていた。実際彼女たちに接していると、この祈りの精神がひしひしと伝わってくる。
 例えば彼女たちの宣教地への派遣のされかたである。どこへ自分が派遣されるのか、彼女たちは誓願式の終わったその晩になって初めて知らされることも多いという。そして、それを知らされて数日から1週間くらいでそれぞれの任地へ旅立っていく。持ち物はダンボール箱一つに入るくらいだ。その任地はときにはアフリカの奥地であったり、シベリアだったりする。しかし、彼女たちは神の愛をしっかりと確信しているため、何の文句も言わずに喜んで旅立つのである。カルカッタの母修道院の前から、トラックの荷台に満載されて出発していく彼女たちの顔はどれも喜びに輝いている。
 この間も、日本人のシスターがフィリピンで誓願を立てて、東京経由でパキスタンに派遣されていった。やはり事前には何の相談もなく、いきなりパキスタンに行けと言われたそうだ。「神様が全て準備してくださるから大丈夫。」と言い残して静かに旅立っていった彼女の姿はとても印象的だった。

「完全な自己放棄」(Total Surrender)
 最近になって気づいたのだが、M.C.の朝の祈りの中で必ず毎日唱えられるお祈りの中に、霊操の「愛を得るための観想」要点第一の「主よ、すべてを取ってお受け入れ下さい」の祈りがある。マザーはイエズス会インド管区のヴァン・エクセム神父に霊的指導を受けていたため、M.C.の祈りの本にはイグナチオによる祈りがいくつか含まれているが、この祈りもそのひとつである。
 まさにこの祈りの通り、M.C.のシスター達の生活の中にはプライバシーとか自分の時間とか言うようなものはほとんど見られないし、先ほどの派遣の話でも分かるように自分の人間的な思いが尊重されることもまずない。すべては自分の属するコミュニティーと修道会、そして自分の仕える貧しい人々を通して、神様に捧げられているように見える。そばで見ていて気持ちがいいくらいに徹底した自己放棄である。マザーは「神様が与えて下さるものは全て受けなさい。そして神様がお取りになるものは全て差し上げなさい。そのどちらも大きな笑顔をもってしなさい」と口癖のように語っていた。またある時に「お捧げする以上は全てお捧げします。たとえバラバラにされても、それをお捧げします。」とも言っている。神様への深い信頼があってこそでてくる言葉であり、見事な実践を伴っているためにとても説得力のある言葉だと思う。

「快活さ」(Cheerfulness)
 この「快活さ」は誰の目からみてもすぐにわかるM.C.の大きな特徴と言えよう。世界中どこのM.C.を訪れてもすぐに気づくことだが、M.C.のシスター達は実によく笑う。私などはあんな生活をしていてどこがそんなに楽しいのだろうと思ってしまうが、私の目から見ると些細なことにでもシスター達は大喜びして笑っている。男性と女性の違いもあるのだとは思うが、あそこまでいくと一つのタレントであると言っていいのではないか。少なくともユーモアのセンスのない人には、M.C.のシスターはつとまらないだろう。
 私は前々からこの点を不可解なことと思っていたので、その理由を考えていた。そんなある時、私は黙想と称してカルカッタの北、ヒマラヤ山脈の麓にあるダージリンの町に行くことになった。出発前に私は、厚かましくもマザーに何か黙想の材料になるようなことをノートに書いてくれと頼んだ。その時彼女が書いてくれたことが、次の内容である。

 「イエス様を愛する喜びをいつも心に持っていなさい。そして、その喜びをあなたの出会う全ての人と分かち合いなさい」

 これを読んだときにはさすがの私も気がつくことがあった。彼女たちのあの異常なまでの陽気さは、イエスと出会い、その愛を感じる大きな喜びが心の奥底からわき出て外にでてきたものではないか。そう考えれば納得がいく。 彼女たちは毎日4、5時間を祈りに費やし、さらに貧しい人々に仕える中でイエスと出会っている。イエスの愛を感じることも私などよりは遙かに深く、大きいに違いない。そうであるとすれば、そこから得られる恵みや喜びも質、量共に計り知れないほどのものであろう。
 マザーはまたある時シスター達にこう言っている。「あなた達が出会う全ての人が、あなた達にに出会う前よりも幸せな気持ちで別れていくようにしなさい。」この言葉はM.C.のシスター達の間で見事に実践されていると私は思う。だからついついM.C.の施設に入り浸ってしまうのである。

終わりに
 最後にもう一つだけ付け加えさせてもらいたい。マザー・テレサというと世間では貧しい人々の救済活動に一生を捧げたということだけが強調される。しかし、私の意見ではマザーは神秘的なまでに祈りの人でもある。その神秘的なまでに深い祈りと、劇的なまでの実践活動が一人の人間のなかで結びついたというところにマザーの偉大さがあるのではないか。マザーとそのシスター達を見ていると、祈りの力がどれほどまでに大きいものであるかをしみじみと実感させられる。私も彼女たちを少しは見習って「祈りの人」になりたいものだと思う今日この頃である。

マザー・テレサから日本のイエズス会員へのメッセージ

 「人々が知りたいのは、あなたがどのように祈っているかということです。若い人達はあなたがどのように祈り、またどのように貧しさを生きているか、それを見たいのです。彼らはもうそれについて聞きたくはないのです。実際にこの目で見たいのです。これは大切な点です。彼らがそれを見、あなたのなすよい業や、御父をたたえている姿を知ること、これらはイエズスが私たちに望んでいることだと思います。こうして御父をたたえるということは、私たちの召し出しであると思います…」
 「祈りによって、私たちのうちに触れ合いや愛や謙虚さが生まれてくるのです。そしてキリストの聖性や聖母の謙虚さが私たちから発せられていって、それによって私たちは人々に祈りを伝えることができるのです。祈るなら私たちは生きます。もし祈らないなら、私たちは霊的に死んだものとなります」

  • 1984年11月22日、上智大学でイエズス会の菅原神学生(当時)のインタビューに答えて。『この路を』13号より転載。