山中 大樹 SJ
イエズス会司祭

 

サニーですか、レイニーですか?

  同じ1つの出来事に対しても、人によって反応の仕方が違うことを、日々の生活の中で経験していると思います。そのようなときに、ポジティブな傾向が強い人はネガティブな傾向の強い人の反応を見て「やれやれ」と思ったり、ネガティブな傾向が強い人はポジティブな傾向の強い人の反応を見て「やれやれ」と思ったりするのではないでしょうか。

  オックスフォードの心理学者・脳神経科学者エレーヌ・フォックスは著書『脳科学は人格を変えられるか?』で、すべての人はサニーブレイン(楽観脳)とレイニーブレイン(悲観脳)を持っていても、外からの刺激に対してそれらがどのように働くかは人によって異なり、ポジティブな人かネガティブな人かの違いが生まれると言っています。そして、ある人の中でサニーブレインとレイニーブレインの働きの傾向を決めるのには遺伝子、経験、解釈の仕方の3つの要素があって、もし自分の傾向を変えたい人がいれば、遺伝子や経験は変えられないので、解釈の仕方に働きかければいいのだそうです。つまり、悲観的に生きるのをやめたければ、ポジティブな見方・解釈を身につければいいのだと言っています。

  なぜこのような話題から始めたのかといえば、私たちが生きる現代世界、例えば地球環境の劇的変化や悲壮な紛争を眼前にし、そこに渦巻く人々の思い、特に人の苦悩や死を前にしても自分の利益を引き出そうとする人々の意図を目の当たりにするときに、100%に近く悲観的にならざるをえない人が少なからずおられるのではないかと感じるからです。サニーブレインとレイニーブレインといった脳科学でポジティブになるスキルを身につけることは役に立つとしても、人類がこの地球に存在する積極的価値があるのか、この世界で生きる希望をどこに求められるのかなどといった問いが私たちに突きつけられているように感じるとき、それだけで十分とはいえないでしょう。

  このような根源的な問いに対して目を隠したり、耳を塞いだりしないと覚悟するときには、この世界を創造し完成へと導く神への信頼と、自身苦難を身に受け、苦悩する人々と共にいまも歩まれるイエス・キリストへの信頼こそ、この現代世界の中で100%ポジティブに生きる道を劈(ひら)きうると思われます。

 

サニーな弟子たち

  神とイエス・キリストに信頼しつつ、困難な状況に生きた人々の例を、新約聖書の「使徒行伝」に見出したいと思います。この書はルカ福音書の著者が福音書の続編として、イエスの弟子たちがどのような状況でどのようにイエスの活動を続けていったのかを描きます。実際、ルカ福音書の最後と使徒行伝の最初の箇所にはイエスの昇天が描かれ、これら2つの書が継続することを示しますが、この昇天の場面には興味深いことが見出されます。

  マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書はイエス・キリストについての語りの近さから「共観福音書」と呼ばれますが、相違する部分もあり、復活後の記述に違いがあるのです。マルコ福音書とマタイ福音書では、復活したイエスが弟子たちに(表現は違うものの)「神の国をのべ伝え、人々に洗礼を施すよう」指示します(マルコ16章15-16節、マタイ28章19-20節)。マタイ福音書ではより詳細に、「父と子と聖霊の名において人々に洗礼を施すように」と言われます。しかし、ルカ福音書では、復活後、昇天を前に、イエスは弟子たちに「宣教するよう」にと語りつつ(ルカ24章47-48節)、近い時期に「弟子たちが聖霊による洗礼を受ける」と言います(ルカ24章49節、使1章5節)。

  ルカで言われる弟子たちの洗礼は、弟子以外の人々が洗礼を受ける必要がないと言っているのではなく、聖霊によって洗礼を受ける弟子たちは、聖霊によって洗われ(罪が赦され)、聖霊に満たされて聖霊によって生きるキリスト者のモデルになるのだと言わんとするのでしょう。聖霊によって満たされた弟子たちの生きざまは使徒行伝に描かれ、そこでは特にペトロとパウロ、その他ステファノやバルナバといった人々が、いかに神とイエス・キリストに信頼し、神の救いの使信をのべ伝えたかが語られます。

  大雑把に言えば、イエスの弟子たちはユダヤ人やギリシア人やローマ人、宗教や政治・行政を司る人々から少なからぬ反対を受けつつも福音宣教を続けます。パウロにあっては、キリスト者の仲間内からも彼に反対する人が現れ(使15章1-2節)、宣教の旅仲間・バルナバと袂を分かっても(15章39-40節)宣教活動を続けます。イエスの弟子たちは、彼らを取り巻く状況が芳しくなくとも、それでも積極的に活動し続けるのです。その原動力はどこにあるのでしょうか。

  パウロはキリスト者を迫害した者だという強い自覚を持っていますし(26章9-11節)、使徒たちは無学な者、つまり教えるには相応しくない者たちとしてエルサレムの権威者たちから蔑まれています(4章13節)。楽観的とさえ言えるほどに宣教活動を続ける理由は、弟子たち自身には見出されません。ネガティブな状況でもポジティブに行動した理由が彼らの内にないのだとすれば、それは外側にあるはずです。

  実際、使徒行伝に見つけうる弟子たちの宣教理由は、イエスによる任命(使1章8節、9章15-16節)と聖霊の扶け(1章5節、2章、3章29-31節、13章9-11節など)ですから、彼らのポジティブさは神(とイエスと聖霊)への信頼に根拠を置きます。聖霊に満たされ、神の栄光とイエスを目にした時にこそ、弟子の一人ステファノは彼を殺そうとする人々を前にしつつ「彼らに罪を負わさないように」と神に祈ります(7章54-60節)。

 

しかし暴力は甘受すべきものではない

  ところで、ネガティブな状況であってもポジティブに生きた弟子たちの姿は、暴力は甘受されるべきものと教えていると捉えてはなりません。彼らの師であるイエスのエルサレムでの様子はそれを裏付けます。ルカ福音書22-23章がイエスに対する不正な逮捕と暴行と裁判を描くときに、確かにイエスは抵抗しません。しかし、イエスは一連の不正・暴力が起こる前に、オリーブ山での祈りの中で、苦しみ悶えながら、彼に起こる事柄を神に意図されている限り受け入れます(ルカ22章39-46節)。そして、復活後イエスは、彼の苦しみは(旧約)聖書によって預言された、神の救いのわざの一環だったとの理解を示します(24章25-27節)。

  つまり、イエスはネガティブな事柄を単純に甘受しているのではなく、人々の救いになればこそ暴力・死をも覚悟して受け入れていているのです。弟子たちがネガティブな状況にあってもポジティブに活動するには、彼らもイエスと同様に神が人々を救おうとすることへの理解や、彼らもそこに参与するという覚悟があったのでしょう。

 

この世界でもサニーに

  私たちも神とその救いに基を置く限り、この世界においてポジティブ、サニーに生きることが可能となるでしょう。そのときこの世界で正義・平和・愛を目指した生き方が劈(ひら)かれるのだと思います。

 

『社会司牧通信』第224号(2022.6.15)掲載