ウクライナ侵攻と平和

小山 英之 SJ
イエズス会司祭、上智大学神学部教授

 

  21世紀になぜこのような戦場が生まれてしまったのか? しかし、プーチン批判一辺倒には危惧を覚える。

  「平和は神が望まれる秩序を追究することによって、日々構築されていくもの」(『教会の社会教説綱要』495)とあるが、プーチン大統領の反抗は、その前に神が望まれない秩序があって、それに対する反応ということができる。プーチンの暴挙といえる侵攻も、まずはその背後にある怒りを理解することから始めない限り、停戦合意、新しい世界秩序の構築はありえない。

  2008年のNATO首脳会議(ブカレスト)において、アメリカがウクライナとグルジア(ジョージア)のNATO加盟を支持した時、「止まらないNATO拡大、新たな加盟国への軍の配備、アメリカの戦略的なミサイル防衛システムの配備はすべて私たちの協力関係を損なうものだ。国境に配備された強力なミサイルをロシアは国防上の脅威とみなす」とプーチン大統領が強く反発感を露わにした。その時に少しでも安心感を与えることができたならば、今回のロシアのウクライナ侵攻を防ぐことができたのではないだろうか。西側の外交的失敗である。プーチン大統領は、「もう我慢の限界だった」としてウクライナ侵攻を開始してしまった。

 

  (1) あらゆる紛争で必須な態度は、暴力――テロ組織によるものであれ、国家によるものであれ――をただ非難するのではなく、理解しようとすることである。国連事務総長のグテレス氏がプーチン大統領との会談の冒頭でいきなり、「他国の領土の一体性を侵害する行為は、国連憲章に全く合致しない」と切り出しては、相手が態度を軟化することは期待できない。

  筆者は刑務所で教誨師をしているが、初対面の受刑者に、「お前はそんな罪を犯すべきではなかった」と言って始めることは考えられない。また、北アイルランド紛争と長年かかわってきたが、プロテスタントの武装組織のメンバーで刑務所に長く服役した後、和平プロセスに身を投じることになった一人が、自分に対する教会の唯一のメッセージは、「そんなことをすべきではなかった」であったと述べていたのを思い出す。

  北アイルランド紛争の和平プロセスにおいて決定的な役割を果した、レデンプトール会のアレク・リード(Alec Reid)神父は、「暴力をただ非難することは助けにならない」と述べている。教皇フランシスコは、回勅『兄弟の皆さん』(283)で「このようなテロリズムは、その形態や標榜するものにかかわらず、徹底して非難すべき」と述べているが、それだけでは十分ではない。アレク・リード神父は述べる。「仕えるキリスト者は紛争の真っただ中に立って、個人的な経験の知識でもって理解するようになるまで生身の現実にある紛争と出会わなければならない。これが紛争を生じさせている善悪の道徳的次元をつきとめる唯一の知識である」。

  ここで彼は、イエスのアプローチを説明するために、受肉という神学的概念を思い起こさせる。「イエスは、人間の命のかかわる紛争の状況で神の仲介者としての彼の役割をいかに果たすであろうか? 生身の人間になるまでその紛争の真っただ中に生きることによってである……彼は善悪のすべての次元――個人のレヴェルから政治的宗教的な力を行使する人々の次元にいたるまでの――にとらわれるのに任せた。しかし、常に神の正義と慈しみの仲介者としてであった」。

  メイズ刑務所のカトリックの武装組織アイルランド共和軍(IRA)の服役囚への奉仕の結果、彼は、IRAのあらゆるレヴェルの活動家、リーダーたちと独自の形で知り合うことになった。IRAと深くかかわることを通して、暴力に代わる手段を可能にし、暴力を捨てさせることに成功した例である。

 

  (2) もう一つ大事なのは、対立する相手もいかほどかの真実と正義の正当なヴィジョンによって動かされていると信じることである。

  ウクライナの人々は、ヨーロッパの人々の方が明らかにいい暮らしをしているのを見て、民主主義への動きを強めてきた。一方、プーチン大統領は、NATOの東方拡大、アメリカの戦略的防衛ミサイルシステムの配備に対する強い反発もあって、2021年、「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文を発表する。「ロシア人もウクライナ人も言語や信仰を同じくし、密接なつながりが先祖から受け継がれてきた。血のつながりの中に両国はある」という神話か幻想にどんどんとらわれていった。

  ヨーロッパに接近し、2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命を経て、民主化を進めようとするウクライナ。ロシアとウクライナの一体性を主張するプーチン。どちらかが善で他方が悪とは言い切れない。二元論を超える必要がある。

  そもそもNATO拡大は何のためであったのか。ヨーロッパでは冷戦が終結し、ロシアはもはや大きな脅威ではなくなっていたのに、いたずらに敵視し、相手に恐れを抱かせたのはなぜか。それは、アメリカは常に敵を必要としてきたからではないか。かつては、日本がアメリカの敵であった。その後もロシア、中国とたえず敵を作り出すのがアメリカの政策であった。それによって軍需産業は、限りなく潤ってきた。

  今日も大勢のウクライナ人が殺傷され、混迷を極める中、アメリカ、NATOはウクライナに武器を供与し、ますます軍需産業が喜ぶ状況となってきている。極限まで肥大化した軍産複合体によって成り立っている経済秩序、世界秩序をこの機会にあらためて見直さなければならない。プーチンが怒った対象は、NATOのみならずロシアもそのうちにある、気候変動をも引き起こしている「開発・安全保障パラダイム」であり、「平和パラダイム」への転換が求められる。

 

  (3) いかにしてこの戦争が終結するか。両者とも何かを諦めながらも何かをつかむ、勝つ・負けるを超えてwin‐winの状況を創り出すことが必要であるが、ウクライナの人々の大勢はますますロシアを敵とみなすようになってきており、ロシアとの合意はますます困難になってきている。ゼレンスキー政権の存続、クリミア半島割譲、東部地区のドネツク州・ルガンスク州独立、そしてウクライナがEU加盟への方向性は明らかにしながらも、NATO加盟は断念すると宣言することによってか。あるいは、戦争が長期化し、プーチン大統領が失脚し、ロシアの独裁政権が崩壊することによってか。

  G7が一つになってロシアを非難し、欧米+日本対ロシアの単純な構図になっていることを危惧する。日本には他に取るべき道がないのであろうか。

  5月15日には、沖縄本土復帰50周年を迎えたが、自民党政権は、沖縄の米軍基地は戦争抑止のために不可欠、さらに抑止力を高めるために反撃能力の所有を主張し、それを支持する世論が強くなってきている。防衛費を増額して自衛隊を強化し、米軍との一体化をさらに深化・拡大しようとしている。こうして防衛費を増加することは、軍需産業を喜ばせることはあっても中国との不信感を高めるだけである。抑止力としても不十分であり、決して東アジアの平和構築に寄与するものではない。

  アメリカの「核の傘」の名の下でアメリカの核兵器使用に協力さえするという政策から離れ、戦後日本が大切にしてきた平和主義を生かして、軍備そのものへの依存を減らすような安全保障を切り開いてゆくべきである。アメリカ、ロシアとも中国とも距離を保ち、等距離の友好関係を維持してゆくべきである。そして核兵器禁止条約を締結すべく、その第一歩としてドイツのように核兵器禁止条約交渉会議にオブザーバーとして参加すべきである。たとえ軍事バランスがとれていたとしても、テロリストによって、あるいはどこかの国家元首によって一度核兵器が使用されたならば、どれほどの人的被害、恐ろしい環境破壊が引き起こされるかを考えなければならない。

  「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(教皇ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス――地上の平和』61)、「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです」(教皇フランシスコ、長崎、2019年11月24日)の言葉の重みを、これまで以上にかみしめたい。

 

 

【参考文献】

小山英之、「平和をもたらす人は幸いである」、越前喜六編著、『真福 ここに幸あり』、教友社、2021年

小山英之、横山正樹、平井朗編、『平和学のいま 地球・自分・未来をつなぐ見取図』、法律文化社、2022年

 

『社会司牧通信』第224号(2022.6.15)掲載

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