今日のメディアの役割:真理を広め、平和を促進する

アルン デソーザ SJ
イエズス会司祭 / 清泉女子大学講師

  ジャーナリズム業界の最高の名誉とされるピュリッツァー賞の1994年度企画写真部門は、南アフリカ出身のフリーランスのカメラマン、ケビン・カーターが受賞した。カーターが撮影した写真「ハゲワシと少女」の一枚は、1993年3月26日金曜日のニューヨーク・タイムズ紙に写真が掲載された翌日から、読者からの強い反響があり、世界中で多くの議論を巻き起こすことになった。スーダンのアヨド村の近くで、やせ衰えた幼い少女が国連の食料センターに向かう途中でハゲワシに狙われている状況の写真である。

  「カメラマンはなぜハゲワシから少女を守らなかったのか」、「近くに国連の食料センターがあったにもかかわらず、なぜそこへ連れていかなかったのか」との非難は、報道現場に携わっている人々の良心をかき混ぜるような議論となった。

  当時、疑問視された「写真を撮る以前に少女を助けるべきではないか」に関して、カーターの友人で、現場にいたフォトジャーナリストのジョアォン・シルバは、写真の構図は母親が食料を手に入れようと子どもと離れた短い時間にできたものであったと述べている。カーターは写真を撮った後、実際にハゲワシを追い払い、少女は自分で立ち上がり、国連の食料配給センターの方へと歩きだしたと手記に記している。

  この出来事をもとに、ジャーナリストは人命を優先すべきか、事実を記録することに専念すべきかという「報道か人命か」の二つの立場を巡るジレンマが生じている。カーターの写真はしばしばメディアで取り上げられ、現在に至るまで報道現場に携わっている人々の「アイデンティティー(存在)」と「プロフェッション(職業)」に関する議論を生んでいる。
 

  現代における急速な科学技術の発展は、コミュニケーションの技術を進化させ、社会の情報化が加速している。そのような中で、マス・メディアは、情報・文化の促進・教育のための重要な役割を担っている。また、マス・メディアは、真理を広め、そして、真理がもたらす平和を促進することについて責任を持っている。マス・メディアの社会に与える影響が大きくなっている中で、メディアが果たす役割はますます重要になっており、メディアとメディアの従事者は、建設的な報道をすることが求められている。

  民主主義社会において、マス・メディアには少なくとも主に二つの役割がある。第一に、人々が意思決定を行うために必要な情報を提供する役割である。マス・メディアが、国内の時事問題・政治情勢について人々に伝えることがなければ、人々は社会や政治で何が起こっているのか知る術がなくなる。そのため、人々に正確な情報を届けることは、マス・メディアの役割であり、責任である。

  第二に、「ウォッチドッグ=番犬」としての役割である。これは、政治家や権力者が不当な行いをしていないかを主権者である市民に代わって監視することを意味し、不正行為が発生したときには、マス・メディアは関係者を取り調べることが求められている。この権力の監視は、民主主義社会におけるマス・メディアの最大の役割であり、責任である。しかし近年、日本を含め多くの民主主義の国家において、上述したようなメディアの機能は制限され、また失われつつある。

  また、現代の民主主義社会において、マス・メディアは「公共圏への奉仕」といった社会的役割と営利・権力者との狭間にある。このような中で、メディアには正確な事実の伝達と社会を繋ぐための公共的な空間の担保が求められており、そのためには良心的で誠実さに導かれた情報を発信する従事者のリテラシーを育成することが重要な課題である。
 

  教会においては、第二バチカン公会議以降、全世界の社会的なコミュニケーションの機関の存在が認められ、それらの使用が勧められるようになった。教会は、メディアや報道機関を全人類にメッセージや情報を伝達する装置であるとともに、人々の習慣や日常、文化や伝統を形成・発展させ、信仰に基づいた社会観を広める目的を持つものと位置付ける。また、マス・メディアに対して、社会における善と公正と真実に基づいた生活を守り支えなければならないことや、「正義」、「尊厳」、「倫理」、そして「真理」がその礎となると強調する。

  加えて教会は、マス・メディアと娯楽産業に、次世代を担うメディア従事者の養成、人々のメディア・リテラシー(=メディア教育)を呼びかけている。社会の中で、メディアが建設的な役割を果たし、積極的に評価されるよう促すために、共通善への奉仕のために必要な三つの段階、教育と参加と対話(教皇ヨハネ・パウロ二世の2005年の使徒的書簡『急速な発展』11項参照)が重要だといえる。

  教会が強調しているマス・メディアに従事する人々の役割を、藤田博司(上智大学文学部新聞学科教授:1995-2005年)の言葉に言い換えれば次のようになる。ジャーナリズムを担う報道機関とその現場に関わる人は、真実を報道するための手立てとして、特別な権利、便宜が与えられている。報道機関の従事者は、取材目的のために、普通の市民が会えない人に会い、立ち入れない場所に立ち入ることがある。それは市民の「知る権利」を報道機関が代行するためと考えられている。この特権には当然、果たすべき義務を伴っている。それは、市民が必要とするニュース、情報を速やかに、適切に報道する義務である(『ジャーナリズムの規範と倫理』45頁)。時間と空間に制限されている中でも、ジャーナリストの「公共への奉仕」に従事する態度を重視する使命感を持つ人が少なからずいることは、民主主義にとって大きな励ましになる。
 

  「バチカン・ニュース」によれば、教皇フランシスコは、今年開催される第56回「世界広報の日」(2022年5月29日、ただし日本の教会では5月22日)のテーマとして、「聴け!」という一言を選んだ。このテーマを発表した聖座は、「教皇フランシスコは、世界にもう一度、耳を傾けるよう求めている」と述べている。「行くこと」と「見ること」に焦点を当てた2021年のメッセージに続き、2022年の世界広報の日のメッセージで、教皇フランシスコはコミュニケーションの世界に、再び「聴くこと」を学ぶように呼びかけている。

  現在のコロナ禍は、私たち全員に何らかの影響を与え、生活を一変させた。今この時こそ誰もが耳を傾け、傾けられ、そして慰め、慰められる必要がある。また教会は、耳を傾けることを、良いコミュニケーションの条件であるとも強調している。教皇フランシスコによれば、すべての対話、すべての絆は、聴くことから始まる。このため、プロフェッショナルな視点からも成長するためには、私たちはよく聴くことを学び直す必要がある。イエス自身、私たちがどのように聴くかに注意を払うよう求めている(ルカ8:18参照)。

  真に耳を傾けるためには、勇気と、偏見のない自由と開かれた心が必要である。教会全体がシノドス教会となるために耳を傾けるよう招かれている今、メディアもコミュニケーションの根本に立ち返る必要がある。良いコミュニケーションのために不可欠な「聴くこと」を再発見するようにという招きを受け入れ、報道現場に携わっている人々の「アイデンティティー(存在)」と「プロフェッション(職業)」を再考する機会としたい。

 

『社会司牧通信』第222号(2022.2.15)掲載

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