クリスマスメッセージ ―幼子イエスと共に成長しよう―

梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

  マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。 (ルカ2:6b-7)

  今年5月20日から来年7月31日まで、イグナチオ年を記念している。1521年5月20日、パンプローナを守っていたイグナチオの足に砲弾が当たり、ロヨラの自宅で療養していた際、彼は新しい生き方への回心に導かれた。巡礼の第一歩である。

  彼の回心とは、まず彼が騎士としてこの世の虚栄を追い求める生き方から、心の完全な貧しさとさらに実際の貧しさ、そして辱めとさげすみを甘受する生き方への回心である。貧しくさげすみを受け入れる生き方は、ラストルタで示された、十字架を担うイエスの生き方へと私たちを導く生き方である。その生き方は、聖霊に導かれて自らを無とし、神にのみ信頼を置く生き方であり、日々十字架を担いながら、貧しい者として福音を告げ知らせる使命を忠実に果たし続ける生き方であり、苦しい生活を強いられている貧しい人々の友となる生き方である。その生き方は、泊まる場所もなく、飼い葉桶に寝かされているイエスの側に自らを置いて、「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)と喜び謳う、クリスマスの生き方である。

  イグナチオはパンプローナの城を死守するつもりであった。そこから療養生活を経て、巡礼者として旅する生活へと回心していく。自分の価値観を守ったり、組織を固守したり、体制の現状維持を求めたりする生き方から、巡礼者の生き方、聖霊に導かれる識別の生き方、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けてフロンティアに赴いて行く生き方、応需性に満ちた生き方への回心である。その生き方は、あの羊飼いのように、「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てる」(ルカ2:16)生き方であろう。

  イグナチオは武器で戦い、人を殺したり傷つけたりする生き方から、和解の生き方、霊的会話によって人々を高める生き方へと回心していった。「仲たがいした人を和解させ、監獄と病院にいる者を手厚く援助したり奉仕したりして、あらゆる愛の業で隣人を助ける」(ユリウス3世『イエズス会基本精神綱要』)生き方である。「子どものように神の国を受け入れる人」(マルコ10:15)になるという生き方、飼い葉桶に寝かされている幼子イエスのように神の国を受け入れるという生き方である。また、一人でも多くの人が神の国に入るように招く生き方である。
 

  回心にはいつも方向性が必要である。イエズス会にとってその方向性を示すのが、2019年2月に出されたイエズス会総長書簡『イエズス会使徒職全体の方向づけ』である。すでにこの通信でも触れたことがあるが、幼子イエスの前で、また幼子イエスの成長に合わせて私たちも成長し続けるために、この『方向づけ』を再確認したい。

  1. 霊操および識別を通して神への道を示すこと
  2. 和解と正義のミッションにおいて、貧しい人々、世界から排除された人々、人間としての尊厳が侵害された人々とともに歩むこと
  3. 希望に満ちた未来の創造において若い人々とともに歩むこと
  4. 「ともに暮らす家」(地球)への配慮と世話を協働して行うこと

  この四項目は互いに補完している関係にあるが、とくに注目されるのは、Cであると言えよう。A、B、Dのテーマについては、すでに2008年の35総会ならびに2016年の36総会において、イエズス会のミッションとは神との和解、人間相互の和解、被造界との和解であるとして示されている。この三要素に対して、新たにCが加わり、BとDとに挟まれる形で提示されている。『方向づけ』の四要素をイエズス会と会が関係するさまざまな組織が回心し成長していくうえでも、Cを常に念頭に置きながら、A、B、Dの示す方向に向かっていく必要があろう。

  日本管区に限らず、多くの地域の会員や協働者に実際に出会ったり、あるいはオンラインで対話したりする機会を持つ。そこで『方向づけ』の話題となると、一般に自分が関わっている項目を強調する傾向があると思う。たとえば社会使徒職であればBが最も重要であるといった具合である。Cについては、大学や中・高等学校等の教育分野で働く会員や教鞭をとっている方々は、まずこの項目は大丈夫だということを耳にすることが少なくない。『方向づけ』はCのなかで何と言っているのだろうか。

  貧しい人々と若い人々は、互いに補完的で、編み込まれた「神学的出発点(locus theologicus)なのです。若い人々は、大多数が貧しく、今日の私たちの世界で桁外れの難題――雇用機会の減少、経済的不安定、政治的暴力の増大、差別の多様化、環境破壊の進行、その他諸々の難題――に直面しており、これらすべてによって若者たちは自分たちの人生の意義を見出すことが困難になり、神に近づくことが難しくなっているのです。

  それぞれのカトリック大学や小・中・高等学校でも、経済的に困難な家庭から学生や生徒が来ていることもあるだろう。その世話はとても重要である。同時に、学生や生徒たちが通ってくる地域に住む10代や20代の貧しい青少年が置かれている状況を視野に入れて、しかも統計だけではなく、時にはそのような若者と実際に出会い対話しながら、日々の教育にたずさわる必要があるのではないだろうか。そのようにして日常の教育の質も向上するのではないだろうか。また経済的・社会的に困難な状況にある子どもたちに直接奉仕する教育機関を設立することについても、イエズス会だけではなく、教育機関を数多く担っているカトリック教会としても今日の課題ではなかろうか。

  神とのかかわり、社会での困難、環境の課題の面で、さまざまな負の遺産を負わされている若い人々と出会い、奉仕するなかで、私たちはイグナチオの回心の旅路を歩む巡礼者となり、さらに飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに出会い、幼子イエスと共に成長できるのではなかろうか。

▲ベトナム人共同体が制作した馬小屋@麹町聖イグナチオ教会

 

『社会司牧通信』第221号(2021.12.15)掲載

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