コロナ禍での教育と希望の光

鈴木 和枝
不二聖心女子学院教諭

  人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。・・・わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。・・・地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。

レイチェル・カーソン
『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)より

 

  地球の美しさについて、私たちはどのように思いをめぐらせているでしょうか。自然の神秘を感じるとき、また自然への脅威を感じて戸惑うとき、私は『センス・オブ・ワンダー』を読み返します。9月1日から10月4日まで、私たちキリスト者は“Season of Creation(被造物の季節)”[1]を過ごしてきました。UAPs[2]に書かれている4つの方向づけは互いに関係し合い、また補完し合って捉えるべきかと思いますが、この特別な時期は4番目の「『ともに暮らす家』(地球)への配慮と世話を協働して行うこと」を心に留めて過ごしました。自然の恵みに感謝し、ともに暮らす家の人々すべてがこの恵みをいつまでも共有できるよう努力していきたい、と思いつつ、このコロナ禍での限界を感じながら過ごしたことも確かです。
 

  私はカトリックの女子中高で働き、理科と宗教を教えています。学校のキャンパスは自然環境に恵まれており、そうした豊かな生態系を生かした学習は理科の授業以外に総合的な探究の時間などでも展開されています。私の宗教の授業では、新約聖書の内容を教えるほか、JPIC[3]をテーマとした単元で、回勅『ラウダート・シ』を取り上げながら環境問題を信仰の視点から見つめたり、日本では未だ廃止されていない死刑制度をテーマに人権問題について考えたりする時間を持っています。

  『ラウダート・シ』に書かれている「総合的なエコロジー」については、神とわたし、自分を取り巻く自然環境とわたし、その自然環境を変化させていく社会構造とわたし、周りの人々とわたし、それぞれの関係とともに、わたし自身に向き合うことにより、環境問題や貧困の問題といった切迫した課題に一人ひとりが真剣に取り組むことを促すものであると話します。生徒たちは、その「総合的なエコロジー」という言葉や「エコロジカルな回心」の概念を学ぶのですが、用語としてよりも、実際はむしろ学校生活で展開されているさまざまな活動やお祈りを通してその大切さを体験しているのではないかと思っています。

  この「総合的なエコロジー」を実践してきたとも言える学校のカリキュラム・プログラムは2020年以降、コロナ禍の中で多くの変化を強いられました。授業はオンラインを併用しながら行われ、体験的に学べたはずの多くのプログラムができなくなりました。海外の姉妹校への訪問を含めた体験学習、近隣の社会福祉施設での奉仕活動も今は行っていません。上手に感染対策をすれば対面授業もグループワークもできるようになりましたが、2021年9月現在、デルタ株が若者にも猛威を振るい、再び多くの活動に制限がかかるようになってしまいました。
 

  2021年3月にオンラインで行われた「正義と平和協議会全国会議」で私は、「コロナの下の当事者、現場の声に耳を傾ける-『教育現場』」のセッションに参加しました。多くの学校が2020年度は感染対策や、その上での授業など、日々の対応に追われるのみで終わってしまった印象を持ちました。自分の学校だけではなかったと正直安心感も抱きました。

  しかしそこにとどまらず、ある方がおっしゃった次のような発言が心に刺さりました。「この時代に育つ子どもたちが大人になったときに、『この世代の大人はコロナ禍を経験したから』と言われるような何らかの特徴が見られるかもしれない」ということです。何らかの特徴とは、ネガティブなこともあるかもしれませんし、ポジティブなこともあるかもしれません。教員としてはもちろん子どもたちがポジティブな特徴をもつ大人になり、コロナ禍を経験した世代としてよい方向に世の中を変容させて欲しい、そのようなビジョンを持って教育に携わり続けたいと思いました。

  コロナ禍現役の生徒たちは、頭では「コロナだからできなくなったことがあるのは仕方ない」と分かっていながらも、挑戦したかった多くのことができなくなったことを嘆くことも実際あります。実に気の毒です。ところが昨年度の終わり頃から、何名かの生徒たちが自主的にある社会的なテーマをもって、全校生徒に呼びかけ勉強会を開きたいという動きをもつようになりました。ミャンマーの民主化運動をしている人たちの応援を通して、ミャンマーの情勢を伝える生徒たち。別の生徒たちはLGBTQ、またある高校3年生は高校生平和大使に選ばれ、同下級生に呼びかけて有志を募り、核の問題についての勉強会を行い始めました。

  国連が掲げるSDGsは学校の教育活動の多くの場面で取り上げられてきましたが、言葉だけが頭をかすめていたような印象もなくはありませんでした。ただ掲げているだけでは、斎藤幸平氏が説く「SDGsは『大衆のアヘン』」[4]の状況になりかねません。しかし、これまたある生徒たちのグループが、月ごとに学校で取り上げているSDGsのテーマに沿って、啓発動画を作ることを提案してきました。分散登校に入ってしまったため、動画作成や各クラスでの視聴を依頼するにとどまらざるを得なくなりましたが、本来ならば有志を募っての勉強会を開いて、そこで出たことを実践に移す計画をもっていました。

  大人たちが「ポストコロナ、ウィズコロナの教育とは何か」と校舎内で起きている問題に右往左往しながら、あるいは新聞やネット、教育論の本を読みながら机上で頭を悩ませている間に、生徒たちはこれまで学校が提供してきたプログラムの枠を越えて、広く社会の問題を探し出し、他の生徒たちを誘ってダイナミックに学んでいこうとしていたのです。
 

  UAPsに関する2019年2月のイエズス会総長の書簡には「エコロジカルな回心」に導く説明として、

  自分自身から一歩踏み出し、他者にとって善であるものはすべて愛をもって尊重することが必要です。もし私たちが個人主義や何もしないということから脱出できなければ、被造界と和解した人間の生のモデルは可能とならないのです。

とあります。こうした社会問題に取り組み、全校生徒に向けて呼びかける生徒たちは枠にとらわれずに前に歩む大きな力をもっていると確信できます。

  冒頭に紹介したレイチェル・カーソンの同著書には次の言葉もあります。

  子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

  子どもたちに対して、学校あるいは家庭、社会で大人が種まきしたこともたくさんあったと思いますが、関心というアンテナや吸収力といった一人ひとりがもっている力が、コロナ禍で誰かのために何かしなきゃという思いと合わさって自発的な行動に至ったのだと想像しています。教員としてこの時代に自分が何をしようか考えることも大切ではありますが、神様が子どもたちに授けてくださった力を信じていくこと、そこに希望の光があるように思っています。
 

[1] 日本のカトリック教会では、「すべてのいのちを守るための月間」という名称で祝われる
[2] 2019年にイエズス会総長より発表された「イエズス会使徒職全体の方向づけ 2019-2029」 UAPs: Universal Apostolic Preferences
[3] Justice, Peace and the Integrity of Creation(正義と平和、創造界の保全)
[4] 斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)で、冒頭より述べている言葉

 

『社会司牧通信』第220号(2021.10.15)掲載

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