平和文化と私の天職:ボストンから広島への旅

メアリー ポペオ
NPO法人 Peace Culture Village 共同創業者

  7年前、私はこれからの人生で何がしたいのか、これといった考えもないままボストンカレッジを卒業しました。カトリックの家庭で育ち、イエズス会の価値観で教育を受けた私が考えていたのは、ただただ自分の人生とキャリアを世界に捧げ、神の御心のままに生きていきたいということだけでした。どんな人生が待ち受けているのか、当時はまだ謎に包まれていました。

  そして今日、神は私を広島へと導き、ピースカルチャービレッジ(PCV)という平和教育を行うNPO法人の共同創業者としました。毎日、原爆の被爆者や仲間とともに、ここ広島で起きたことを世界中の人々に伝えるという大役を担っています。国際的で多様なバックグラウンドを持つチームの中で、難しくも重要な課題に向き合いながら日々成長を感じられること、そして広島でいうところの「平和文化」が宿る神の国をこの地球上に創ることは私にとってかけがえのない機会です。私は自信を持って、これは私の天職だと言えます。大学を卒業した頃の私は、神がここへと続く道を用意しているとは知る由もありませんでした。
 

  地球の反対側から広島で働くことになるまでの7年間についてここで少し説明したいと思います。アメリカで育った私は、学校で一度も広島と長崎での原爆について学んだことはありませんでした。実際のところ、イエズス会の教育を受けることがなければ、原爆投下について深く考える機会は無かったかもしれません。

  ボストンカレッジでの歴史の授業で、長崎でのキリスト教徒の迫害の歴史について学んだのが最初のきっかけでした。隠れキリシタンの歴史に興味を持った私は、研究のための助成金を得て長崎で一夏を過ごし、そこで初めて原爆の話に出会いました。

  ご存じの方もいらっしゃると思いますが、日本の徳川幕府は1600年代にキリスト教を禁止しました。日本に住むキリスト教徒は、信仰を放棄するか、拷問と死を受け入れるかを選ばなければならず、その結果多くの人々が殉教しました。キリスト教徒のコミュニティは約250年間隠れ続けていましたが、その間ずっと秘跡を受けたり司祭に会ったりすることはできませんでした。

  禁教令が解けた後、キリスト教徒はついに隠れ続けることから解放され、自由に信仰を持つことが許されました。彼らは30年かけて、自分たちの礼拝所である浦上天主堂を長崎に建設しました。しかし、この歓びに満ちた大聖堂を残酷な運命が待ち受けていました。1945年8月9日、原子爆弾が浦上天主堂の真上に投下され、当時の東アジア最大のキリスト教コミュニティを壊滅させたのです。
 

  長崎での夏が私の人生を変えました。原爆資料館を訪ねると、私が自分の家で毎日祈りを捧げていたものと何ら変わりのないロザリオや聖母マリアの像が、原爆の熱線で溶け、真っ黒焦げになっていたのです。

  私は、アメリカがそのようなことをしたという混乱と、これまで自分がそのことについて学んでこなかった恥ずかしさに苦しみました。長崎でのあの夏は、私に地球市民としての役割と責任について考えさせた人生で初めての経験だったかもしれません。核兵器の問題はもはや遠いものではなくなっていました。私の信仰と人生とが絡み合い、とても身近なものに感じられたのです。

  この経験をきっかけに、毎年夏になると広島と長崎を訪れるようになりました。大学卒業後、最初に取り組んだのは、ボストンと日本両方での核廃絶のアクティビストとユースオーガナイザーとしての活動です。ハーバード大学での勤務の傍ら、アメリカ・フレンズ奉仕団グローバルゼロといった組織で、大統領候補者への働きかけや、政府高官や議員へのロビー活動、デモの計画、署名活動などを行いました。また、女性平和基金新日本婦人の会の皆様のご協力のお陰で、毎年恒例の東京から広島へのピースマーチに参加することができました。
 

  日本での滞在の間、私はたくさんの被爆者の方々との出会いに恵まれ、彼らの証言を聞くことができました。その中でも特に私に影響を与えたのは、同じキリスト者の伊藤正雄さんです。ある日の午後、私は原爆で家族と人生を失った伊藤さんに、アメリカ人のことを今も憎んでいるかどうか尋ねたのを覚えています。 伊藤さんは、私の質問にどう答えるかを深く考えているかのように、目を閉じ、しばらく黙っていました。

  やがて目を開け、原爆直後は怒りのあまりアメリカに対する報復を夢見ていたと明かしました。しかし、教会で神と出会い、自分と同じように平和のために祈り行動しているアメリカ人の友人ができたことで、考えが段々と変わってきたことを教えてくれたのです。伊藤さんは、自分の心の中で平和を育むことができなければ、未来の世代のために平和な世界を創ることなんてできないよ、と私に言いました。現在、伊藤さんは近くの米軍基地から軍関係者が広島平和資料館を訪れた際にガイドを行っています。

  伊藤さんの話を聞いて私は涙が溢れました。キリストが説いた赦しの心を目の当たりにし、その繊細な思いを打ち明けてくれたことに対する感謝の気持ちでいっぱいになりました。伊藤さんのような被爆者の方々が、私が広島への移住を決心した大きな理由の一つです。私はその時、彼らともっと多くの時間を過ごし、可能ならば、平和な世界を実現するという彼らの使命が達成されるよう自分にできることをしたいと思いました。
 

  広島への移住を決定づけたもう一つの理由は、自分のキャリアを平和活動に捧げたいという思いの高まりでした。フルタイムの仕事をしながらのボランティア活動で燃え尽きてしまっていた私は、自分の想いとスキルを活かしながら具体的な方法で平和に貢献する仕事を見つけたいと思うようになっていました。

  私は、神は私たちの日常生活の中で人々を通じて働きかけて下さっていると信じているのですが、平和活動でのキャリアを考えていた2016年、平和運動の師であり、広島平和文化センターの元理事長だったスティーブン・リーパーに連絡を取りました。ちょうどその時、新しいNPO法人を作ろうとしている最中だったスティーブは、立ち上げメンバーとして私を広島に誘いました。そして数カ月後、新しい生活を求め、私は広島の地に渡りました。

  アメリカ人と日本人の仲間とともに、私たち二人は2017年にPCVを立ち上げました。PCVは、平和教育、社会起業家精神、若者のエンパワーメントを通じて持続可能な平和文化の創造を目指す、若者主導のNPO法人です。被爆者の数が年々減っていく広島で、10代、20代、30代の若者による次世代の平和文化リーダーの育成を行っています。また、平和活動に時間とエネルギーを費やしたい私のような若者のために、平和文化の創出に繋がる雇用を生み出しています。

  PCVでは、平和文化リーダーのためのオンラインスクール、広島を訪れ平和学習を行う学生向けのフィールドトリップや平和プログラム、広島平和公園でのVRウォーキングツアー、そして世界中から参加できるオンライン広島体験プログラムなどを行っています。

  昨年、私たちはオンラインだけで40カ国から5500人以上の人々にプログラムを届けることができました。平和、テクノロジー、若者のエンパワーメントの分野での私たちの取り組みが実を結び、2017年にノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN)とのコラボレーションや国連が主催するSDGグローバルアクションフェスティバルへの登壇が実現しました。

  私はPCVでの仕事を、神から与えられた仕事だと捉えています。原子爆弾が絶望と放射線、そして死をもたらした都市で、私たちは希望、愛、創造的なエネルギーをプログラム参加者と互いに与え、与えられる環境のもと日々勤しんでいます。被爆者の方々もまた、私たちとともにこのエネルギーを多くの人々に届けて下さっています。広島の持つ周波数が私に大きな希望を与え、まさしくここは神が私にいてほしいと望む場所であると確信しています。

  神が私にこのような道を用意しておられたとは想像もできませんでした。将来のことは未知数ですが、広島の過去・現在・未来の力、そして被爆者と若者がともに生み出すエネルギーを世界と共有し、私たちが次世代に残したいと心から思う世界を創りたいです。神が他にどんな道を用意しておられるのか楽しみにしながら、私はこれからも天命を全うしたいと思います。
 

『社会司牧通信』第219号(2021.8.15)掲載

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