李 聖一 SJ
上智学院イエズス会中等教育担当理事
Covid-19の影響でさまざまな制約を余儀なくされた2020年は、イエズス会学校を語る上で忘れてはならない文書が発表されて40周年となる記念の年であった。アルペ神父の「イエズス会の中等教育―現状と展望―」(1980年)である。それほど注目はされなかったが、ソーサ総長はこれを記念してイエズス会学校関係者にメッセージを送ったし、イエズス会教育事務局も、この文書の価値を再確認するメッセージを送った。確かにこの文書は、今日のイエズス会学校のあり方を検討する上で、預言的な意味を持つものであったと、私は思っている。
この年にはまた、今まで、あまり深く深く考えることなく使っていた「イエズス会学校」“Jesuit School”という言葉を再考させるソーサ総長の上級長上宛書簡、“Jesuit & Companion Schools―Companions in Mission”も発表された(2020年9月17日)。『イエズス会使徒職全体の方向づけ』(Universal Apostolic Preferences of the Society of Jesus:UAPs)の発表(2019年2月19日)を受けて、イエズス会が携わる教育使徒職の方向づけも考えなければならないという意図があると思われる。それは、『イエズス会学校:21世紀に生き続ける伝統』という文書が発表(2019年11月5日)されたことを見ても明らかである。
このように矢継ぎ早に発表される文書を受けて、イエズス会の教育ミッションは今後どのように進められていくのか、イエズス会学校の原則を手掛かりに、その方向性を探ってみたい。
その原則とは「普遍性」と「無償性」である。イエズス会は設立当初から学校教育を重要なミッションとして位置づけてきたが、聖イグナチオはイエズス会の学校は常に無償であることを理想とした。ゆえに、彼自身が大原則とした清貧の規定を覆してまで、学校が一定の基金を持つことを許可した。また、アルペ神父は「中等教育の展望」の中で、次のように述べている。
「私たちは、差別なしに、すべての階層に属する人を教育する責任があります。教育使徒職は、(イエズス会の他のすべての事業同様)普遍性という消し去ることのできないイグナチオ的刻印を受けているのです。」(7)
「イエズス会の学校は、必然的に会の使徒職の手段であり、また、それゆえに原則として、会の役務の根本的無償性と清貧に基礎をおくものですから、生徒がその学校で学ぶことができるかどうかということは、彼らの支払い能力によって左右されてはなりません。この原則が理想なのです。」(8)
この原則は、すべての社会層の人々がイエズス会の学校で学ぶことができるようにということであるが、現実には、困難である。学校運営に必要な経費、人件費、教育施設費などは、学納金や助成金に依存せざるを得ないからである。
しかし、この原則と理想を追求する試みがないわけではない。たとえば、“Fe y Alegria”である。これは、1955年にベネズエラで始まった教育施設で、最貧層の子どもたちに教育の機会を与えることを目的として始まった。南米を中心に広まり、現在19か国で展開されている。Fe y Alegriaは「信仰と喜び」という意味である。
これと同様の例が“Nativity School”である。1960年にアメリカで始まった幼稚園から小学校までの初等教育を行う学校で、貧しい子どもたちに教育の機会を提供する。Nativityは「キリスト生誕」という意味である。
さらに、1996年にシカゴで始まった“Cristo Rey School”がある。メキシコ移民の子どもたちのために設立された学校で、授業料を賄うために生徒は週に1度仕事に出かけて給料を得、それを授業料に充てるというプログラムを持つ。現在は全米各地で、メキシコ移民のみならず、さまざまな貧しい家庭の子どもたちに教育の機会を与えている。Cristo Reyは「王であるキリスト」の意味であるが、メキシコ人は「万歳」を“Cristo Rey”ということに由来する。
私自身、2006年にシカゴのピールセンとニューヨークのイースト・ハーレムにある“Cristo Rey”高校を訪問したことがある。シカゴは“Cristo Rey”高校最初の学校で、メキシコ移民の子どもたち、イースト・ハーレムはヒスパニックや黒人家庭の子どもたちが学んでいた。生き生きとした顔で、喜びをもって学ぶ姿が印象的であった。この訪問を終えて、日本において何かできないかと何度も自問してみたが、答えは「日本では無理だな」であった。
しかし、私たちの教育ミッションのあり方を再検討するならば、視野に入れておかなければならないことはある。教育機会が十分に与えられていない「外国にルーツを持つ子どもたち」である。日本政府はなぜか「移民」という表現を好まない。「外国にルーツを持つ」とは、素直に言えば「移民」であるが、「外国人労働者」とか「技能実習生」として、滞在期限を設けて受け入れるゆえに、「移民」ではないのである。
定義は何であれ、日本社会の中で、「海外にルーツを持つ子どもたち」に対して、教育機会が十分に与えられていないこと示す調査は政府も行っている。ゆえに、その問題を解消するために夜間中学を増やしたり、日本語支援を行う施策も行われたりしている。また、NPOや個人的なレベルでも、日本語支援を熱心に行うグループもある。公立学校が一定の枠を設けて、子どもたちを受け入れる取り組みもある。それでもなお十分な解決とは言えない。学校にいろいろな意味でついていけないケースも報告されている。ドロップアウトしてしまい、問題行動を起こし、少年院でようやくまともに日本語を学んだという例もある。
彼らのために何が必要なのか。「やはり学校だな」と思う。教育が持つ力は大きい。学ぶ個人だけではない。家族を変え、学校のある地域に影響を与える。シカゴの“Cristo Rey”高校の例は、まさにそうであった。
彼らのために何ができるか。日本語支援だけではなく、日本において学ぶべきことが統一的にまとめられた教科カリキュラムに基づく教育と進路指導、彼らのためのアイデンティティ教育、保護者をも取り込んだ家庭教育、そしてカトリック学校としての宗教教育。そうした教育活動は、学校なしにできることではない。しかも、低所得の家庭の子どもたちのためにこそ、必要である。
このような学校は、果たして可能なのか。日本に住むすべての子どもたちに例外なく、教育機会を提供することが国としてなすべきことであれば、できないはずはないと思うのだが、実際に計画してみると、いくつもの壁がある。土地、場所、資金、人などなど。そして、ひとつ気がかりなのは、「永続性」である。学校をつくっても、数十年で役割を終えるようではあまり意味もない。これは、日本社会がこれからどうなっていくかにもかかっている。おそらく、外国人労働者の必要性はますます高くなっていくのであろう。そして、定住することが普通になれば、私たちが考える学校の必要性も高くなる。その意味では、そうした学校を始めることに意味があると思うのである。
そしてそれは、イエズス会の教育ミッションとして相応しい。「普遍性」と「無償性」に基づく学校だからである。加えて、イエズス会のミッションには次の原則もある。「必要性」「緊急性」「誰も行っていない」である。
※ 本稿で触れた文書の中で、「イエズス会の中等教育―現状と展望―」は、『イエズス会教育の特徴』(梶山義夫監訳、ドン・ボスコ社、2013年)、他の文書はすべて、『イエズス会の今日的ミッションと教育』(李聖一監修・抄訳、上智大学出版、2020年)を、それぞれ参照していただきたい。