天皇の生前退位と私たちの信仰

柴田 智悦(ちえつ)
日本同盟基督教団 横浜上野町教会牧師

  2016年8月8日のいわゆる天皇のビデオメッセージによって、翌2017年6月9日に「皇室典範特例法」が制定され、天皇の「生前退位」が決定し、2019年から2020年にかけて一連の代替わり儀式が総額166億円もの国費を投じて行われました。キリスト者である私たちは、この「生前退位」をどのように捉えていけばいいのでしょうか。

 

1.天皇の自己認識

  私がこの「生前退位」についてお話しさせていただく際、いつも見ていただく動画があります。それは、毎年8月15日に日本武道館で行われる、全国戦没者追悼式における君が代斉唱の場面です。

  正面を向く参列者の視線の先は、こちらを向いている壇上の天皇皇后です。そして、君が代の伴奏が始まり、参列者が君が代を歌い出した時、壇上の二人は微笑みながら参列者の方を見ています。しかし、決して口を開いて歌うことはありません。これは何を意味しているのでしょうか。やはり君が代は天皇を賛美する歌であって、本人たちは一般民衆の賛美を受け取っている、そのような象徴的光景ではないかと思います[1] (2020年は新型コロナウィルス感染拡大防止のため演奏のみでした)。

  もう一つは、「代替わり」儀式において最初に行われた、新天皇の即位を示す「剣璽(けんじ)等承継の儀」の動画です。宮内庁提供による時事通信社の映像では、「剣璽」と共に新天皇が退出し「儀式は約5分で終了した」とのコメントが入ります[2]。一方、内閣広報室の映像では、この後「国璽(こくじ)」と「御璽(ぎょじ)」を持った職員が退出して儀式が終了したことが告げられます[3]

 「剣璽等承継の儀」は国事行為として行われましたが、かつてこの儀式は「剣璽渡御(とぎょ)の儀」と言われ、新天皇が皇位継承の証として三種の神器(画像はイメージ)のうちの剣と璽を受け継ぐ儀式でした。しかし、神話に基づく剣璽を継承する儀式を、さすがに政府も国事行為とするわけにはいかず、苦肉の策として「国璽」と「御璽」も同時に継承することとし、剣璽「等」承継の儀としたのです。しかし、宮内庁側の意識としては、剣璽だけの継承でこの儀式は終了しており、国事行為とするために付け加えた「国璽」と「御璽」にはあまり関心がなかったようです。

  なお、この「国璽」は、現在は勲記に押印されるだけのようですが、「大日本国璽」と刻されています。しかし、「大日本国」という帝国は1945年の敗戦と共に滅び、現在は「日本国」となったはずですが、未だに戦前の、しかも現在は存在していない「大日本国」を国家の表徴としていることも問題です。

 

2.天皇の地位

  かつて大日本帝国憲法において第一章は天皇条項でした。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)と天皇を現人神(あらひとがみ)として神格化し、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニヨリ之ヲ行フ」(第四条)と、天皇が三権を掌握し、国の主権を持つとしていました。

  現行の日本国憲法も第一章が天皇条項ではありますが、その地位は国民主権に基づくとしています(第一条)。天皇は主権者である国民の総意に基づき、象徴の地位にあるに過ぎません。ただ、天皇条項が第一章にあるのは国民主権の民主主義に反するとも言えますが、あくまで天皇の権能は制限的なものに過ぎません。そして、天皇の国事行為にはすべて内閣の助言と承認が必要とされ(第三条)、その数は12(第六条、第七条)に限られており、国政に関する権能は与えられていません。つまり、天皇の公的役割は自分の意思ではなく、形式的儀礼的に国事行為を国家機関によって行うのみなのです。

 

3.国民主権の視点から

  そもそも天皇の使命は、皇位の継承にあります。メッセージでも「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました」と結んでいます。結局は皇位の継承という「天皇家の事情」を滞りなく行うために出された発言でした。

  しかも「生前退位」を考えたのは、「次第に進む身体の衰えを考慮」すると「重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが・・・良いことであるかにつき、考えるように」なったからです。その「務め」とは、憲法で定められた国事行為だけではなく「象徴的行為」、具体的には「遠隔の地や島々への旅」「国内のどこにおいても、その地を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識を持って、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」のためです。そのような「象徴的行為」「公的行為」を続けることが困難になったので「生前退位」を考えたのです。

  しかし、「象徴的行為」「公的行為」は憲法に定められておらず、かえって憲法第一条では、天皇の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定されていますから、今後の天皇制をどうするか決めるのは、主権者である国民であって天皇個人ではありません。従って、このメッセージは明らかに前天皇の政治的発言、政治への介入であり、憲法違反と言えます。

  また、この天皇メッセージを契機として、2018年7月、オウム真理教の元幹部13名の死刑が執行されました。これは「平成の事件は平成のうちに終える」という国の強い意思の表れだと言われています。天皇の生前退位に基づく新元号制定がなければ、この13名の死刑執行もなかったかもしれません。自分の発言が「大切な国民」の死期を早め、事件の真相解明の道を閉ざしてしまったことを前天皇は知っているでしょうか。たとえ死刑囚であろうと、その命が元号によって左右されてしまうとすれば、もはや主権在民と言うことはできません。

 

4.政教分離の視点から

  新天皇を神格化する神道行事の大嘗祭も皇室行事として行われましたが、国費が充てられました。その他の国事行為として行われる一連の儀式も、どれも宗教儀式と考えられますから、明らかに政教分離違反であり、私たちの信教の自由を侵害しています。

  2020年11月8日の立皇嗣の礼を経て皇嗣となった秋篠宮は、大嘗祭への公金投入に懸念を示し「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか。内廷費で行うべきではないか」と述べたことがあります。これも明らかに政治的発言ですが、多くは好意的に受け止めました。しかし、彼は同時に「大嘗祭自体は絶対にすべきもの」と言っています。それは、私的行為とされる宮中祭祀には、外部からの介入を許さないという意思の表明だったとも言われています。

 

5.信仰の視点から

  私たちキリスト者は、唯一の神である主以外の存在を神としません。しかしながら戦前、戦中、その唯一の神である主と並べて天皇を拝み、神社を参拝し、植民地とした韓国にまで行って、神社参拝は国民儀礼であって偶像礼拝ではない、と主張しました。天皇神格化によって、あらゆる批判が封じられ、人権が抑圧され、天皇の名によってアジアに対する侵略戦争が正当化されました。この反省が、憲法第20条の政教分離原則において明文化されたのです。

  前天皇は護憲派からも人気がありました。あたかも、昭和天皇の代わりに、追悼の旅に出かけているかのように受け取られていたからです。しかし、前天皇も昭和天皇の戦争責任を謝罪することは決してありませんでした。それは、天皇制国家の加害の事実から、国民の目をそらせることになります。「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と2018年12月20日の記者会見で前天皇は語っています。しかし、アメリカ主導の対テロ戦争を自衛隊が後方支援していることをはじめ、世界においては紛争や戦争が絶えていないことはどう見ていたのでしょうか。

  かつて教会が神格化された天皇の前に膝を屈めたことを反省し、二度と同じ過ちを犯さないため、イエス・キリストのみを主と告白する決意を新たにし、この世において「見張り」として立てられた預言者としての務めを果たしていきたいものです(エゼキエル33:7)。

 

[1] https://www.youtube.com/watch?v=hdF4tE3JLv0

[2] https://www.youtube.com/watch?v=XuoXpf9ULPE

[3] https://www.youtube.com/watch?v=Mm7smUh9xzE

 

「教会と政治」フォーラム編
 『キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉』
   いのちのことば社(2019年)

≪目次≫
キリスト教と天皇制  山口陽一
聖書・憲法・天皇制  城倉啓
天皇の生前退位  柴田智悦
元号問題とキリスト者の歴史観  朝岡勝
伊勢神宮と政教分離  星出卓也
私たちの信教の自由  弓矢健児

 

『社会司牧通信』第216号(2021.2.15)掲載

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