「言葉は肉となって、私たちの間に宿った」 (ヨハネ1:14)

梶山 義夫 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

  コロナウィルス感染拡大の中でいかがお過ごしでしょうか。感染が拡大しないように、三密を避けたり、ご自分のためだけではなく、接する相手のためにもマスクを着用したり、手を消毒したりする一方、困難な状態に追いやられている人々のためにさまざまな形で支援活動にもかかわっておられるのではないでしょうか。

  この危機的な状況の中で、イエズス会のカナダおよび米国上級長上協議会は、『観想と政治にかかわる行動 市民活動に献身するためのイグナチオの精神に根ざしたガイド』を発表しました。その内容をかいつまんで紹介します。

 

【第1章】

  今日の私たちが共有している政治のあり方の悲しい状況にもかかわらず、それぞれの問題に関して、立法のために働きかけ、コミュニティをまとめること及び投票するなどの活動を通じて、信仰に基づいた考えを提供することは、弟子としてイエスに従うために不可欠です。それは、市民としての参加が、憐れみ深く飢えている人に食べ物を与え、のどが渇いている人に飲み物を与え、見知らぬ人を歓迎し、裸の人に服を着せ、病人と牢に入っている人のケアをするというキリストの福音の指示に従うために、私たちが取り組むことのできる力強い方法であるからです(マタイ25・31-46参照)。人々がもう飢えることがないように、私たちは、社会の病理の根源まで探り、システムと構造を変えようとします。

  「良いカトリック信者は、自分自身の最善を尽くして政治に干渉することによって、統治する人々が統治できるようにする。社会問題に関する教会の考えによれば、政治は、共通善に尽くすものであるから、愛の最高の実践方法の一つである。誰も無関心でいられないだろうね。私たちは皆何かをしなければならない」という教皇フランシスコの言葉から始まります。

 

【第2章】

  コロナウィルスは差別をしませんが、私たちは、最も貧しく最も傷つきやすい人々が差別されて広範囲に及ぶ病気の悪影響を受けていることを知っています。この感染症は、私たちが一つの人類家族として一体となって、すべての人の共通善と尊厳のために協力するように呼ばれていることをはっきりと思い出させるものです。私たちは、孤立主義、「自分と自分のものは第一」という考え方に回るのでしょうか。それとも、兄弟姉妹たちがどこにいても、私たち皆はその人たちの「番人」(創世記4・9参照)であることを思い出すためにこの時を利用できるのでしょうか。

  教皇フランシスコは、次のように語りました。「主は私たちに問いかけ、嵐の真っただ中にいる(マルコ4・35-41参照)私たちに、もう一度目覚めて、すべてがあがいているように見えるこの時に、力、サポートと意義を与えることのできる連帯と希望を実践するように招いています。」

 

【第3章】

  イグナチオの精神に根ざした市民としての献身には、組織的な人種差別に立ち向かうことが必要です。私たちは、米国全土と米国を超えて流れ広がった人種差別に対する抗議を考慮して、この考察を提供しています。George Floyd、Breonna Taylor、Ahmaud Arberyの死は、警察官や武装自警団員によって殺された、有色人種の女性と男性の、胸が張り裂けるような、長い名簿への痛恨に満ちた新たな記帳です。組織的な人種差別を取り除こうとしない、イエス・キリストへの信仰に根ざした政治への献身は、途方もなく不完全です。

 

【第4章、第5章、第6章】

  イエズス会員とその協働者は、イグナチオの霊性に根ざし、和解と正義の使命を帯びて、政治の改善のために手助けすることができます。私たちは、「他者のための女性と男性」になるよう決心しています。その他者とは、特に社会の底辺にいる人々です。

  イエズス会の使命の中心には、霊操と識別があります。ですから、イグナチオの精神に基づいて、政治への関与について熟考するときには、私たちは自分たちが置かれている状況について、祈りに満ちた観想から始めます。そこで私たちは、政治を含むすべてにおいて神を見いだそうとします。

  私たちは、毎日の糾明という祈りによって、豊かな実りを見いだすでしょう。その実りとは、より大きな感謝、予期せぬ場所での神へのより深い認識、自分自身の欠点を認める謙虚さ、そして、自分の成長を助ける神の優しいいつくしみへの信頼です。これらすべては、私たちの政治への関与のため、非常に役立つ聖霊のたまものです。私たちの市民としてのコミットメントの土台は、神にかたどって創造されて、キリストの顔を帯びている人間一人ひとりの尊厳を認識することです。

 

【第7章、第8章】

  福音に照らされて活動するために、まず求められることは、自分自身の政治的な見解から自由になること、そしてその自由に基づいて識別することです。聖イグナチオは、『霊操』のなかで、神と隣人に奉仕するために偏らない心を求めます。自分の見解にとらわれないで、自由になるというのは、私たちのものと非常に異なる意見を持っている人々の立場にたって、それぞれの人の動機、世界観、痛みを理解しようとすることです。自分自身の狭い視点を手放すことによってのみ、私たちは和解への第一歩である共通の基盤を見いだすことができるのです。

 

【第9章、第10章】

  政治への取り組みは、社会の周辺にいる人々との親密なかかわりに根ざしています。まず、社会の周辺にいる個人やコミュニティとの持続的なつながりと真の関係は、私たち自身の回心をもたらします。

  出エジプト記(3・7-10参照)では、神は奴隷になっているイスラエル人の叫び声を聞き、彼らのために介入します。被抑圧者に対する神の特別な愛は、常に私たちの心と思いにあって、政治にかかわる私たちの優先順位を具体化するはずです。私の経済に関する判断基準は、社会の上部にいる人たちにどのように役立つかではなく、実質的に貧しい人々にどのように役立つかです。

 

【第11章】

  私たちの惑星は、危険にさらされています。これは、私たちが無視できない時のしるしです。エネルギーと物資の消費を削減するための、個人や地域社会の努力だけでなく、政府は、創造の業と調和する法律や政策を通じて、巨大で確かな影響を与えることができます。ですから、部屋を出るときに電気を消す必要がありますが、選出された代表者に手紙を書いたり、気候に関する行動を駆り立てる抗議に参加したりする必要もあります。2019年に、イグナチオの精神に基づいた多くの若者の主導で、世界中において行われた気候に関するストライキは、市民による地球のための取り組みの好例を提供しました。

  また、創造へのケアは、貧しい人々と歩み、社会正義のために働くことと密接につながっています。環境破壊と気候変動は、特に貧しい人々と傷つきやすい人々に影響を及ぼします。私たちは、「大地の叫びと貧しい人の叫びの両方に耳を傾け」、それに応答しなければなりません(『ラウダート・シ』49番参照)。

 

  「言葉は肉となって、私たちの間に宿った。」イエスは、約2020年前にこの地球のベツレヘムで生まれました。文明が成立し、都市が形成される中で、レンガを大量に焼くために森林が伐採され、洪水が起こるなど、自然が破壊され始めていました。有毒な物質を含む金属や染料を使用する中で、労働者の健康が損なわれていました。時折、感染症が降ってわいたように起こり、人々を恐怖に陥れ、多くの人々の命が奪われていました。ユダヤ社会では神殿を中心とした宗教的権威が政治力をも掌握する一方、律法主義によって人々を裁き、律法を守ることができない人々を差別し、排除する運動が人々の中に力を振るっていました。ガリラヤなどでは自作農が借金で土地を失い、大土地所有制が拡大していました。またローマ帝国の圧倒的な軍事力によって統治され、基地が設置され、税徴収や強制徴用が行われていました。さらに冤罪の場合を含めて、石殺しや十字架などの形で死刑が執行されていました。

  イエスの生き方はこの状況に具体的にこたえるものでした。その生涯は、観想と政治的活動を礎とするものでした。

  世界のただ中に生まれたイエスは、私たちに何を望んでいるのでしょうか。その望みに、私たちはどのようにこたえるのでしょうか。

 


 
 
 
 

  『観想と政治にかかわる行動 市民活動に献身するためのイグナチオの精神に根ざしたガイド』の日本語版は、イエズス会社会司牧センターのこちらのページをご参照ください。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

『社会司牧通信』第215号(2020.12.25)掲載

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