東アジアの和解におけるキリスト者の役割

―歴史の記憶と忘却、そして和解への道―

金 性済(キム・ソンジェ)
日本キリスト教協議会(NCC) 総幹事

  私たちが暮らす東北アジアにおいて、平和の問題を考えるときに、「和解」というテーマを真剣に考えなければ、平和とは相手に、とりわけ、過去の歴史において被害を受けた国の人々には信頼をもって受け入れられないものとなってしまいます。戦争が終わって75年が過ぎた今も、この平和の前提としての和解がなぜこんなにも困難を極めているかについて、深く考えてみる必要があります。私はその問題を日本の人々に考えてもらうために、ある体験談をお話しするのです。

  もう35年ほども前のことですが、私の娘が冬の公園のベンチである老いた白髪の女性が倒れているのを見つけました。私は夫婦で、彼女を介抱して、家にお連れし、医者を呼び、事なきを得ました。後日彼女は、毎週小さな包みにお菓子を包んで、私たちの住まいを訪ねるようになりました。そんなことなさらなくても、と言っても、「命の恩人ですから」と、訪問を繰り返されたのです。

  ある日、彼女にうちでお茶を飲んでいただくために上がってもらいました。私たち夫婦が韓国人であることを知っている彼女は、その時、自分は若いとき、朝鮮で女学校の教師をしていたこと、そして朝鮮の女学生たちがみんないい子たちであったと思い出を語られたので、私たち夫婦は、きっと朝鮮の女学生たちに慕われるほどの人格者であったのだろうと、静かにその話を聞いていました。彼女が翌週また来られた時、私は書棚から、毎日新聞社編集の『一億人の昭和史』の朝鮮植民地時代の写真集を取り出し、彼女に見せたのです。何の悪気もなく、むしろ彼女の記憶に残る風景の写真が出て来て懐かしんでご覧になるかと思ったのです。ところが、彼女は、その写真集を開いたとたん、硬直してしまい、何も語らなくなり、去って行かれ、そして二度とうちに来なくなったのです。

  私は彼女がどうしてそのようなショックを受けたのか、はじめ分かりませんでしたが、今、私はこう理解しています。彼女は、私たち夫婦に自分にとって朝鮮の、美しく記憶にとどめておける記憶だけを語りたかったのです。ところが、私がその写真集を見せた瞬間、彼女は自分が忘却の中に伏せておきたかった歴史事実を突きつけられるような衝撃を覚えられたのではと思うのです。

  彼女が体験した、朝鮮の女学生との美しい出会いと交わりの思い出は嘘ではないでしょうが、そんなきれいごとではない、朝鮮民衆が経験した凄惨を極めた迫害の苦しみについては、彼女は直視したくなく、それゆえ日本に戻ってきてもだれにも証言する気はなく、むしろ忘却に葬ろうとしていたのでしょう。つまり、彼女は、植民地統治下の朝鮮では、人々が天皇を神としてあがめる神社参拝を強要され、1919年3月の独立運動で多くの民衆が弾圧を受け殺害され、名前を皆日本式に変えさせられ、そしてまるで信仰告白のように「皇国臣民の誓詞」を暗唱させられ、朝鮮語の使用が禁止されていた事実を知っていたのであり、それを心の底から正しいことと信じていたわけではなかったのです。彼女は、薄々、朝鮮の民衆が大変な目にあってるなあ、と感じ、しかし、それは朝鮮人が「皇国臣民」となるために受け入れるほか仕方のないこととして受け止めていたのではないでしょうか。

  このエピソードは、私の全く個人的な体験ですが、実は押しなべて、戦後の日本では植民地朝鮮の実情を知っていた人々も、その歴史の記憶について彼女のようにしか向き合えなかったのであり、それは日本の戦後歴史教育にも深く通底する問題であったと言えます。

  日本人が自分自身で作り上げた大日本帝国の世界像というものに閉じこもり、その世界で現実に支配される側の人々が何を経験し、それが何を意味していたかについて、虐げられた「他者」の立場に立って問い直してみることについては、思考停止してしまうのです。この歴史隠蔽と逃避の問題と向き合うことなく、日本の人々は植民地支配を受けた人々と和解の問題に取り組めるでしょうか。さらにこの和解の問題を抜かして、平和を分かち合うという次元にたどり着けるでしょうか。
 

加害の歴史に向き合えない
  そのような歴史を、戦後歴史教育の中できちんと教えられてこなかったと言えば、それまでですが、ただその歴史の事実を知らなかったという問題にとどまらない、もっと根深い問題、つまりその人をして歴史的事実に向き合わせない内的要因の問題が横たわっているのです。その点こそが、この日本において乗り越えられずに温存される問題であると考えるのです。

  第一の問題は、この日本では、歴史や現実に向き合うべき「個」が、「公共」とは異なる「公」という力/世界に没我的に取り込まれてしまうということです。公について、佐伯啓思という社会思想史研究家が『忠臣蔵』を例にとり、興味深い説明をしています(『さらば、民主主義』)。日本人が大好きなその話を、「公共」と「個」を生きて来た欧米人は奇異に感じると。なぜなら、欧米人の場合、自分の主君がいじめを受け、抜刀してはならないところで、つい刀を抜いてしまったために、切腹まで命じられたなら、主君の家臣たちは、いじめたものもゆるせないが、それ以上に根本的には主君に切腹を命じる幕府の「公儀」が間違っていると考え、そこに向かって抗議に行くというのです。それは、『忠臣蔵』を楽しむ日本人には考えもつかない発想です。つまり、どんなに不満があっても「公」には反旗を翻してはならないという社会的同調圧力が働き、これに抗えば、社会的同調圧力の働く「世間」において自分は生きていけなくなるという恐れです。公に取り込まれてしまう個という価値観の支配する政治文化の中で、明治以前の身分制社会においても、明治期以降敗戦に至るまで日本人は生きながら、西欧的な市民革命の歴史を経験することなく、敗戦以降も今日まで来たと言えます。

  とりわけ、明治期以降は、その「公」の頂点に神格化された天皇が君臨し、公の権威と天皇の威光とが同一化され、今日に至るまでも、天皇の権威を批判することについて、この日本ではゆるぎないタブーが存在しています。日本が大日本帝国時代に天皇制国家神道体制として戦争と植民地支配という大きな過ちを犯したことを、戦後歴史教育においても決して取り上げられることはありませんでしたし、天皇制と大本営に騙されてこんな無残な戦争をしてしまったと怒る日本人が天皇制国家の歴史的罪責を自ら追及し裁こうとする機運は、不思議にも敗戦後から今日まで、ほんの一握りの人々やグループ以外に全く起こらなかったのです。言い換えるならば、300万人以上の日本人のいのちが天皇の名によって犠牲にされてもなお、突破し克服することのできない「鵺(ぬえ)のような全体主義」的政治文化の岩盤は砕かれず、今も揺るがずにあること。そのことと日本が東北アジアにおいてかくも和解と平和の関係構築への道が困難を極めることと無関係ではないということです。
 

歴史の加害責任思想不在の「平和憲法」
  敗戦の翌年、1946年2月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーから、永久戦争・交戦権放棄を謳う日本国憲法草案が幣原内閣に手渡されます。そのことをもって憲法9条はGHQから押し付けられたもの、という右派・保守的改憲論者の意見が今日まであります。しかし、実は9条には、日本人側の主体的な意思が反映されていたことを、GHQ憲法草案伝達に先立つ1月24日のマッカーサー/幣原会談から説明する解釈があります。私は後者の解釈を支持するものですが、そのことを踏まえながらも、さらに批判的な問いかけをせずにおれないのです。

  幣原喜重郎の考えには、日本国民にあのような無謀な戦争によって犠牲を強いることを将来二度としてはならない、という決意があったことを明らかにする研究があります(笠原十九司「憲法九条は誰が発案したのか――幣原喜重郎と『平野文書』」、『世界』6月号、2018年、41-57頁)。その分析を全面的に受け入れるときでさえ、しかしながら、私はその幣原の9条の永久戦争・交戦権放棄を裏付ける平和思想には、日本人自身の被害者意識はあっても、朝鮮・中国をはじめ先の戦争と植民地支配が東北アジアの人々にどれほどの犠牲を加害的に強いたかについての歴史の加害責任の視点は全く見られないということです。これは押しなべて、当時の9条を支持したリベラル、また左派であれ知識人や人々の意識に通底していた問題であると、私は考えます。つまり、戦争被害者としての反戦平和思想が日本国憲法の前文や9条に反映していて、そして今日まで受け継がれてきたとしても、侵略戦争と植民地支配の加害責任の思想と謝罪の思想が憲法制定過程において前文や9条に反映されていたとは言えず、従ってそのような政治/外交は戦後今日に至るまで実現してこなかったということです。

  米国に対する敗戦意識は明確にされても、アジアに戦争で負けたわけではない、とか、植民地支配すべてが間違っていたわけではない、という多数を占める根深い意見の中に、天皇制国家神道に基づく大日本帝国時代の「帝国主義」意識の抱え持つ民族差別意識が問い直されず、克服されずにあることを、私は指摘せずにおれないのです。その問題をめぐって今日に至るまで、克服しようとする歴史教育や議論は上からの教育行政としても、この日本社会において下からの強力な市民運動としても展開されることはなかったのです。この限界性という矛盾が、今日の、とりわけ日韓関係の膠着状態の根底に横たわっていると言えるのです。
 

東北アジアの和解と平和を証しするアイデンティティの目覚め
  この問題性から、どのように脱却する道が考えられるでしょうか。

  第一に、100年前の「大正デモクラシー」の時代の二人の人物に私は注目します。ひとりは、吉野作造です。彼は1914年に東京帝大YMCA会長に就任した時、朝鮮人留学生と出会い、学生の強力な要望に応じ、16年に朝鮮を訪問し、朝鮮の多くの知識人たちと出会い、植民地朝鮮の事情を自分の目で見聞するのです。それによって当時の朝鮮に対する植民地統治がどれほど誤ったものであるかに気づき、帰国後、植民地統治否定には至らない限界はあったものの、吉野は論壇で植民地統治批判を繰り広げていくようになりました。

  吉野とは全く社会的立場の異なるアナーキスト金子文子は、幼い頃移り住んだ朝鮮で、貧困生活の中で12歳の時に3.1独立運動を目撃しました。それに触発された彼女は成長して日本に戻って後、天皇制と植民地支配とたたかう生涯を送りました(死刑判決後、天皇の恩赦を拒否して縊死、23歳)。

  この対照的な二人の生き方から、私は一つの共通点を見出します。それは、日本という政治文化の文脈から離れて、苦難の中にある人々とじかに出会い、その叫びに耳を澄ませ、自分を問い直す経験をすることです。このことを、私たちは若い世代の人々と共に今こそ、積極的に推し進めることを提案したいのです。

  第二に、注目すべき言葉を引用します:

  「その犯罪を心に刻み付け、加害者の名を明かし、犠牲者に尊厳ある記念をささげる――それは終わりなき責任です。その責任に妥協はありません。その責任は私たちの国から切り離しえないのです。この責任を認識することは、私たちの国民的アイデンティティ、啓蒙的で自由な社会、民主主義、法治国家としての自己理解の不可欠な部分です。」

  これは、ドイツのメルケル首相が昨年12月6日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所跡を訪問した際に行った演説の一部です。ここには、歴史の加害責任を永久に心に刻むことが公然と表明されています。これは、国家の加害責任を永久に自覚することなど「国家/国民の恥の歴史」として日本人が生きる希望も誇りも持てなくさせてしまう、という思想に立つ現在の安倍政権や歴史修正主義には到底理解も受け入れることもできないものでしょう。

  このような歴史の加害責任の思想は、「鵺のような全体主義」としての天皇制政治文化においては全く受け入れられないものかもしれません。そこには、人間のいのち、尊厳、良心そして真実という問題についての理解が全く違っているからです。しかし、今私たちは、この思想の目覚めがない限り、東北アジアにおける和解と平和の入り口は見出しがたいことに気づかなければならないのです。

Comments are closed.