カトリック教会と女性 ―― 位階制教会と神の民 ――

弘田 しずえ
ベリス・メルセス宣教修道女会会員

  「カトリック教会と女性」という表題は、色々な場所で、講演、記事として目にします。ただ、そもそも女性もカトリック教会のメンバーであるので、あえてカトリック教会と女性を併存する現実として考えることが、課題となり、問題となっている今の教会について考えたいと思います。この課題は、言葉を変えれば、「位階制教会と神の民」の問題と言えるかもしれません。

  教会は「神の民」であるという宣言が、50年以上前に開催された第二バチカン公会議でなされました。これはまさに神の言葉であり、2000年たって、やっと本来のイエスの教会としての自覚が共有されたのだという喜びが、多くの「ヒラ信徒」の感じるところだったと思います。第二バチカン公会議の閃きは、その後、紆余曲折を経て、今フランシスコ教皇により、ふたたびカトリック教会の正面舞台に登場し、21世紀の世界においてイエスの言葉と行いに従う者の生き方として示されています。
 

  教皇フランシスコは、就任後初めて発表された使徒的勧告『福音の喜び』で、「女性がさらにはっきりとその存在感を示すための場を、教会の中にまだまだ広げていかなければなりません。女性の才能は、社会生活のすべての場において必要とされています。・・・教会と社会構造の両者において、重要な決定がなされる種々の場への女性の参与が保障されなければなりません」(103、強調著者)と述べられます。

  確かに、2013年の就任後6年間に、これまでの教皇の誰よりも、教皇庁の組織やプログラムへの女性参加の実現に努力されてきました。「信徒・家庭・いのちの部署」の次長職に女性2名の任命、2019年2月に、全世界の司教協議会の会長が参加して開催された「未成年者を守る集まり」には、3名の女性がスピーカーとして発言し、インパクトを与えたことは、記憶に新しいところです。教皇、枢機卿、大司教の列席するバチカンの会議で、2名の女性信徒と修道者1名が発言し、その内容が大きくメディアに取り上げられました。その後の記者会見で、この集まりの組織を担当したインドの枢機卿が、女性たちの発言は会議の方向性に質的影響を与えたと発言されたことも、注目に値します。

  この集まりには、史上初めて国際女子修道会総長連盟から役員全員が参加したことについても、背景の理解が必要でしょう。国際男子修道会総長連盟は、すべてのシノドスにおいて、常に10名の代表が参加し、司祭である修道者には投票権が与えられていました。国際女子修道会総長連盟は、シノドスへの参加がほとんど認められず、2017年の家庭のシノドスでは、直接教皇庁に参加を求め、ようやく3名が参加を許されました。また、このシノドスにおいては、初めて司祭ではない男子総長連盟の代表のブラザーに投票権が与えられました。現代世界における教会の使徒職と在り方に意味ある影響を与えるシノドスへの参加と、さらに投票権を獲得することは、現在、教会における女性の働きかけを必要とする課題の一つとなっています。

  さらに、教皇フランシスコと国際女子修道会総長連盟との話し合いにより、女性助祭についての委員会が立ち上げられました。最近では、シノドスの評議員に初めて3人の女子修道者と一人の信徒女性が任命され、教理省のコンサルタントとしても3名の女性が任命されています。

  2016年の国際女子修道会総長連盟総会において、全世界の総長から寄せられた質問の中に、奉献・使徒的生活会省のメンバーに女性がいないことが指摘されました。全世界の修道者のほぼ80%は女性であり、修道生活を扱うバチカンの部署にたいして、意見、提案を提供する場に女性がいないという考えられない現実が続いているのです。この問いかけにたいして、教皇さまは驚かれたようでした。すでに、国際女子修道会総長連盟は、この問題についてもお手紙をさしあげていたのですが、やっと直接にお話しできる状況になり、ご理解いただくところに辿り着いた感じでした。その後、今年の7月に、6人の女子修道会の総長と在俗修道会の責任者1名が、奉献・使徒的生活会省のメンバーとして任命されました。ただ「重要な決定がなされる場への積極的な参加」までは、さらに祈りつつ、働き続ける智慧が必要です。
 

  教皇フランシスコの言動において気になるのは、就任以来女性についての発言をされる時に、数回にわたって、フェミニズムについてきわめて否定的な表現のあることです。2016年国際女子修道会総長連盟との話し合いでは、「注意すべき誘惑は、フェミニズムです。教会における女性の役割は、洗礼の与える権利であって、聖霊によりカリスマと賜物を与えられます。フェミニズムの誘惑に陥らないでください。フェミニズムは女性の重要性を狭めるものです」と語り、今年2月の「未成年者の権利を擁護する会議」においては、「女性の発言を求めることは、教会的フェミニズムの導入ではありません。フェミニズムは、どのようなものであっても、結局スカートをはいた聖職者中心主義のようなものです。教会の痛みについて女性の発言を求めることは、まさに教会が自らについて、自らの傷について話すように求めることです」と発言されています。

  昨年の「若者、信仰、そして召命の識別」シノドスは、1971年以来初めて、シノドスの参加司教団の声明を文書として発表していますが、女性が教会において決定のプロセスに参加する必要を強調しています。今年3月に発表された、このシノドスについての教皇の使徒的勧告は、この点には直接触れず、女性が正当に求める正義と対等の要求について、若者が耳を傾けるように勧め、さらに「教会は、女性の権利を尊重する招きを支え、女性と男性のより高い相反性を確信をもって支えるべきではあるが、フェミニスト・グループの提案するすべてに同意することはない」と述べられます。

  教皇フランシスコの理解されるフェミニズムは、今の世界のどこにも存在していないように思えます。フェミニズムの問いかけは、父であり、母である神を信じ、イエスに従う私たちの生き方です。神はまず、土から人間、ハ・アダムーアダマ(土から創られたもの)を創られました(創世記2・7)。ハ・アダマは、男性でも女性でもない存在です。そして、ご自分の似姿として男と女に創られたと創世記(1・27)が述べています。私たちは、男性性に顕される神の姿と女性性に顕される神の姿を受肉させ、いのちが優先されない現代世界において、具体的な存在とする使命をもっています。優しさ、慈しみ、和解、解放する奉仕に飢え渇いているこの世界において、私たちは地球と人類を新たにし、癒し、解放し、養う神のみ業に参加します。対等の人間として、女性があらゆる場とレベルにおいて参加することは、この世界がより正しく、癒された場となるために必要です。フェミニズムとは、このような生き方と信念を意味しています。

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