「格差は社会悪の根源です」 ~教皇フランシスコ、「排他的な経済の拒否」へ~

ボネット ビセンテ SJ
イエズス会社会司牧センタースタッフ

歴代の教皇の言行を受け継いで
  カトリック教会は、その伝統にとらわれて、社会の変動に対する動きが鈍い、という批判をたびたび耳にします。しかし他の社会問題を含め、経済にかかわる課題に関して、歴代の教皇は、それぞれの時代に合わせて問題を告発し、教会としては先駆的とも言える活動をいろいろとしました。

  たとえば、1537年に、当時の教皇パウロ3世は、中南米の征服者に対して、キリスト教徒でない場合でも先住民たちの自由と財産を奪ってはならないことと、かえって彼らが自由と財産を享受できるようにしなければならないことを強調しました。また、当時の教皇たちは、16世紀から始まって19世紀まで続いた奴隷制度と奴隷売買を告発し、禁じて、それを行うキリスト者に対して破門制裁も宣告しました。

  社会問題にかかわる教会の公文書の中で、第1の回勅と呼ばれる、教皇レオ13世の『レールム・ノヴァルム』(1891年)において教皇は、労働者の奴隷状態に近い境遇を告発し、社会悪と呼びました。それぞれの時代に合わせて、40年後に教皇ピオ11世は、『社会秩序の再建』というテーマで、80年後には教皇パウロ6世が、『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』という教皇書簡でこの労働者の問題を取り扱いました。そして90年後(1981年)に教皇ヨハネ・パウロ2世は、『働くことについて』という回勅で、働くことの意義と働く人の権利について詳しく述べました。

  また、ベネディクト16世は、現在の市場やすべての経済活動にかかわる問題を力強く指摘して、あらゆる経済的な決定は、正義、共通善、倫理に適ったものでなければならないことを主張しました(2009年、回勅『真理に根ざした愛』、35~37番参照)。

  ベネディクト16世の後継者教皇フランシスコも、社会問題、とりわけ現在の経済システムにかかわる問題を指摘して、人間を拒否しているその結果を、今まで以上に、はっきりとかつ直接に告発しています。
 

《福音》のメッセージ
  福音がこの世で最も喜ばしいメッセージである、と教皇フランシスコは力説しています。そのメッセージとは、神の人々への驚くべき愛であり、すべての人は、その無限の優しさの対象であるということです。一人ひとりの人間は、外見、能力、気質などに関係なく、神の作品、神ご自身にかたどって造られたものであるので、神ご自身がすべての人のいのちに宿っています。それゆえ、すべての人は何らかの神の栄光を反映していて、限りなく尊い存在であるということです。

  限りなく尊い存在である一人ひとりの人間は、いかなる外見をも超えて、私たちの尊重と献身を受けるべき存在です(2013年、『福音の喜び』、274、277番参照)。

  さらに教皇は、福音のこのメッセージが明白で、直接的で、単純かつ雄弁であるから、解釈や考察によって相対化したり、曖昧にしたり、弱めたりすることができないものである、と強調しています。なぜなら、イエスご自身は、そのことばとわざを通して、他者を認める道を示して、兄弟愛、優しさのある奉仕、正義や貧しい人への思いやりなどへ招いているからです(同、194番参照)。

  というのは、1948年に国連総会で、民族や性などの違いを越えて、すべての人々に平等で基本的な権利がある、と宣言されたのよりずっと前から、一人ひとりの人間が同じく神にかたどって造られ、公平に愛されていて、公平に扱われるべきであることが、福音の喜びのメッセージでした。そして、国連で採択された『人種差別撤廃条約』(1966年)や『女性差別撤廃条約』(1979年)などよりずっと前から、あらゆる差別に対して、一人ひとりの人間が尊い存在であり、平等に尊重され、愛や献身を受けるべき存在であることも、同じ福音のメッセージに含まれていたのです。
 

格差と排他的な経済の拒否
  教皇は同文書で、現代、富んでいるといわれる国でさえもいっそう広がっている格差と排他的な経済を告発しています。教皇は、飢えている人々がいるにもかかわらず食糧が捨てられていることは格差であり、路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で2ポイントの下落があれば大きく報道されることは排他性である、と指摘しています。

  そして、この格差と排他性についてはさらに、次のように述べています。市場と金融投機の絶対的な自律を放棄し、格差を生む構造的な原因に敢然と立ち向かうことで、貧しい人々の問題が抜本的に解決されない限りは、世界が抱える問題は何一つ決定的に解決されません。格差は社会悪の根源なのです。

  また、人間自身も使い捨てのできる商品同様に思われて、もはや社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところへと追いやられるのではなく、社会の外へと追い出されてしまいます。排除されるとは「搾取されるもの」ではなく、廃棄物、「余分なもの」にされるのです。

  極度の貧困と飢餓状態の構造的な原因、否応なしに難民や移民にならざるを得ない人々とその途中で海や国境で命を落とす、名もない多くの人々、人身売買や奴隷であるかのように働かされている女性や子どもなどの実情を、見ない振りをすることはできません。

  排他的であり、格差をつくるこの経済のやりかたは人を殺すもので、拒否しなければなりません、と教皇はためらうことなくはっきりと断言しています(同、53、202番参照)。

  また、この状況の中で、経済成長が進めば進むほど、増えた富が貧しい人々に漏出して、社会の外に追い出された人々も社会のメンバーとして受け入れられることを生み出し、世の中の平等を広げるという経済における「トリクルダウン理論」を支持する人もいます。しかし教皇が述べている通り、この理論はいまだまったく立証されておらず、単に主流の経済システムの神話化、経済的権力を掌握している人々の大雑把で無邪気な信頼を表わしているに過ぎません(同、54番参照)。

  教皇は、倫理をないがしろにしない金融制度改革のため、政治指導者に姿勢の力強い変更、決意と先見性をもってこの課題に向き合うことを要求しています(同、58番)。そして、社会や人々の間での排除と格差が取り除かれない限り、暴力を根絶することは不可能になり、軍備拡張、武器と新たな暴力による鎮圧は、問題を解決するどころか、いっそうひどい紛争を引き起こしてしまう、と懸念しています(同、59~60番)。
 

共通善の原理
  『福音の喜び』の2年後に教皇は、地球環境の危機に関するもう一つの公文書『ラウダート・シ』を発表しました。その危機の人間による根源的な原因について述べた後、経済にかかわる方向転換の指針を、次のように提供しています。

  政治は経済に服従してはならず、経済は効率主導の技術主義パラダイムに身をゆだねてはなりません。2007~2008年の金融危機は、倫理原則にもっと注意を払う新たな経済、そして投機的な金融慣行や仮想的な富を規制する新たな手法を発展させる機会でしたが、その時までの基準を考え直すことになりませんでした。今日、政治と経済が、共通善を鑑みて、いのち、特に人間の生に資することは、緊急に必要です(回勅『ラウダート・シ』、189番参照)。

  共通善は、集団もその個々の構成員も、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるための社会生活の諸条件の総体である、と第2バチカン公会議の『現代世界憲章』(26番)で定義され、カトリック教会が常に強調し続けている原理です。共通善を実際に求める政治・経済のあり方によって、格差をなくしていく、特定の集団あるいは個人が廃除されず、すべてのグループと各個人が公正に扱われるべきであることは、福音のメッセージであり、世界のまことの平和を実現する唯一の道である、と教皇が私たちの一人ひとりに投げかけているとても重大なチャレンジの言葉です。

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